稟議の会議で、部長が言った。「現場が反対しています」。
稟議は、差し戻しになった。
翌週、担当者が部長に聞いた。「反対しているのは、誰で、何人ですか」。
部長の答えは、二人の課長の名前。反対の中身は、導入の時期だった。
二人の課長の、時期についての意見。それが会議では、「現場」の反対として稟議を止めた。
二人の声は、どこで現場に化けたのか。
組織の言葉では、省略が責任の主語を消す
組織には、似た言い回しがあふれている。
現場が反対している。会社としては難しい。
上が決めたこと。お客様が求めている。
四つとも、全体の名で一部の人の意見を語っている。場所や組織の名で、個人の意思決定を語ってもいる。
主語をぼかした反対意見は、反論する相手の顔を消す。会議でいちばん強い発言者が、会議の席の外にいる現場になることもある。
顔のない反対には、誰も言い返せない。冒頭の稟議も、反対の中身が時期の意見だと分かるまで、止まったままだった。
「現場が反対しています」と「鍋を食べる」は、同じ仕掛けだ
「現場が反対しています」は、比喩の一種である。
鍋を食べる、と言うとき、食べているのは鍋の中の料理だ。隣り合うものの名で置き換える比喩を、換喩と呼ぶ。
映画館は笑いに包まれた、は中にいた人々を指す。
提喩とは、全体と部分の関係で置き換える比喩である。警察が来た、は警官が来たことを指す。
日本が勝利した、は日本代表が勝ったことを指す。
比喩と聞くと、似たものになぞらえる働きを思い浮かべがちだ。アナロジー(類推)は関係を写し、メタファー(隠喩)は意味を移す。
アナロジーとメタファーの手がかりは、似ていること。換喩と提喩の手がかりは、隣り合う関係と、全体と部分の関係である。
換喩と提喩は、省いた部分を聞き手に補わせる。
鍋を食べる、が省くのは中身。警察が来た、が省くのは、来た人の数と名前だ。
日常の会話なら、省略のおかげで話が速く進む。組織では、同じ省略が、決めた人や反対した人という主語を消す。
「現場」の一語が省いたのも、誰が、何人が、何に、の三つだった。
AIへの依頼でも、「会社として」の一語が書き手を消す
省略は、人に向けた言葉だけの癖ではない。
「会社として発信する文章を書いて」という依頼も、会社という全体の名で書き手を省いている。
省いた書き手を、AIは会社という言葉の平均的な使われ方で埋める。返ってくる文章は、誰の声とも言いがたいものになる。
誰の声でもない文章は、誰が責任を持つのかも曖昧にする。
「現場」のような全体の名が出たら、名前、根拠、件数を尋ねる
組織の言葉で全体の名が出たら、名前、根拠、件数を尋ねて具体に戻す。
前提を共有している小さなチームなら、現場、の一語で誰のことかが通じる。
具体に戻すのは、二つの場面だ。前提の違う人が意思決定に加わる場面と、責任の所在を後から確かめる場面である。
AIへの依頼でも、具体に戻す。AIを作る側も、同じことを勧めている。Anthropicの公式ガイドは、AIを優秀な新人の社員と考えるよう書く。
職場の決まりや仕事の流れを知らない新人だ。求めることを正確に説明するほど、結果は良くなる、ともある。
新人に渡す仕事なら、誰の名で、誰に宛てて書くのかから伝える。誰が、誰に、何の立場で書くのかを、プロンプトに書く。
次の文面のかっこの中を書き換えて使える。
(例:来期の経費精算ルールの変更)を知らせる文章を書いてください。
書き手:(例:経理部長)
読み手:(例:営業部の課長たち)
書き手の立場:(例:変更を決めた責任者として、理由を説明する)
「現場」を名前に戻すと
全体の名は、置き換えた分だけ、誰の話か、どこまでの話かを省く。
冒頭の稟議を差し戻した「現場」も、名前に戻せば、課長二人だった。
拙著『ChatGPT はじめてのプロンプトエンジニアリング』の2章1節に、作業の内容と目的を過不足なく書き、固有名詞、数値、条件で言葉の焦点を絞る方法を書きました。読むと、自分の依頼文や報告の中で、省略している言葉を自分で探せるようになります。
AIの答えが物足りないとき、疑うべきはAIか、自分の言葉か。
『ChatGPT はじめてのプロンプトエンジニアリング』
AIは言葉でしか動かない。プロンプトを暗記するのをやめ、構成要素に分解して、自分の言葉で意図を込める力を鍛える本です。
読み終えたとき、手元に残るもの
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