野中郁次郎氏のSECIモデル

経営学、特にナレッジマネジメントの分野において金字塔として位置づけられる野中郁次郎氏の「SECIモデル」について、その理論的枠組みから実践的応用、学術的評価と課題に至るまでを解説。


1. SECIモデルの概要と重要性

SECIモデル(セキモデル)とは、一橋大学名誉教授である野中郁次郎氏と竹内弘高氏が共著『知識創造企業』(1995年、原題: The Knowledge-Creating Company)で提唱した、組織における知識創造のプロセスを体系化した理論モデルです。本モデルの核心は、知識を単なる静的な情報資産(ストック)として捉えるのではなく、人間(個人・組織)の相互作用を通じて絶えず創造・変換・増幅される動的なプロセス(フロー)として捉えた点にあります。

このモデルは、目に見えにくく言語化が困難な「暗黙知」と、言語化・数式化された「形式知」という2種類の知識が、4つの変換プロセスを経てダイナミックに循環し、個人から組織レベルへと知識がスパイラル状に発展していく様を描き出しています。これにより、イノベーションや持続的競争優位の源泉となる組織的知識創造のメカニズムを解明しました。


2. SECIモデルの理論的枠組み

SECIモデルは、主に「暗黙知と形式知」「4つの知識変換プロセス」「知識スパイラル」「場(Ba)」「5つの促進要件」という要素から構成されます。

2.1. 中核概念:暗黙知と形式知

  • 暗黙知 (Tacit Knowledge)
    • 定義: 個人の経験、直観、身体的技能、価値観、信念といった、言語化・数式化することが極めて困難な主観的な知識を指します。ハンガリーの物理化学者マイケル・ポランニーが提唱した概念で、「我々は語れる以上のことを知っている(We can know more than we can tell)」という言葉でその性質が表現されます。例えば、熟練職人の持つ「勘」や「コツ」、優れた研究者の「ひらめき」などがこれに該当します。
  • 形式知 (Explicit Knowledge)
    • 定義: 言葉、文章、数式、図表、マニュアル、データベースなど、客観的な形式で表現・共有が可能な知識を指します。コンピュータで処理できる情報の多くは形式知です。

SECIモデルでは、この両者が相互に作用し、変換されることが知識創造の鍵であるとされています。

2.2. 知識変換の4つのプロセス (The Four Modes of Knowledge Conversion)

SECIモデルは、暗黙知(Tacit)と形式知(Explicit)の頭文字から、Socialization(共同化)、Externalization(表出化)、Combination(連結化)、Internalization(内面化)の4つのプロセスで知識が変換されると説明します。

  1. 共同化 (Socialization): 暗黙知 → 暗黙知 (S→S)
    • 定義: 共同体験を通じて、個人から個人へ暗黙知が直接的に移転・共有されるプロセスです。言語を介さず、観察、模倣、実践(OJT: On-the-Job Training)などを通じて行われます。
    • 具体例: 師匠が弟子に背中を見せて技術を伝える「徒弟制度」、ブレインストーミング前の非公式な雑談、顧客との対話からニーズを肌で感じ取ることなどが挙げられます。
    • 促進する場: 共感の場 (Sympathizing Ba) がこのプロセスを支えます。物理的に同じ空間や時間を共有し、互いの感情や経験に共感することで暗黙知の共有が促されます。
  2. 表出化 (Externalization): 暗黙知 → 形式知 (S→E)
    • 定義: 暗黙知を言語、概念、比喩(アナロジー)、モデルなどの形式知へと変換・表出するプロセスです。SECIモデルにおいて最も重要かつ困難なプロセスとされます。
    • 具体例: 熟練技術者の「コツ」を言葉で説明しマニュアルの草案を作成する、顧客への共感から得た漠然としたニーズを製品コンセプトとして言語化する、複雑な現象を説明するために比喩を用いることなどが含まれます。
    • 促進する場: 対話の場 (Interacting Ba) がこれを支えます。異なる背景を持つ人々が対話を通じて、自らの暗黙知を他者に理解可能な形式知へと昇華させていきます。
  3. 連結化 (Combination): 形式知 → 形式知 (E→E)
    • 定義: 既存の形式知を収集、整理、分析し、新たな形式知の体系を創造するプロセスです。
    • 具体例: 市場調査データ、技術レポート、社内マニュアルなどを組み合わせて新たな事業計画書を作成する、複数のデータベースを統合して全社的な情報システムを構築することなどが該当します。
    • 促進する場: 体系化の場 (Cyber Ba) がこのプロセスを効率化します。ITシステムやデータベース、文書管理システムなどの仮想的な空間が、形式知の収集と再編を支援します。
  4. 内面化 (Internalization): 形式知 → 暗黙知 (E→S)
    • 定義: 形式知を個人が実践や経験を通じて体得し、自らの暗黙知として取り込むプロセスです。「習うより慣れろ (Learning by doing)」の世界です。
    • 具体例: 作成されたマニュアルを読み込み、シミュレーションや実際の業務で繰り返し実践することで、その知識を自身の血肉と化し、新たな技能や直観として獲得することです。
    • 促進する場: 実践の場 (Exercising Ba) がこれを支えます。実際の業務現場や研修、シミュレーターなど、形式知を身体で試すことができる環境が内面化を促します。

2.3. 知識スパイラル (Knowledge Spiral)

SECIの4つのプロセスは一度きりで終わるのではなく、「共同化 → 表出化 → 連結化 → 内面化 → (新たな次元での)共同化…」というように、絶え間なく螺旋(スパイラル)状に循環します。このスパイラルは、個人のレベルから始まり、グループ、部門、そして組織全体へと規模を拡大しながら上昇していきます。このダイナミックなプロセスこそが、組織的な知識創造の本質です。

2.4. 知識創造を促進する5つの要件 (Enabling Conditions)

野中氏らは、組織がこの知識スパイラルを効果的に駆動させるためには、以下の5つの組織的条件が必要であると論じています。

  1. 意図 (Intention): 組織として何を達成したいのかという明確な目標やビジョン。知識創造の方向性を定める羅針盤となります。
  2. 自律性 (Autonomy): 個人やチームが自律的に行動できる環境。自律性が高いほど、予期せぬ新たな知識が生まれる可能性が高まります。
  3. ゆらぎと創造的カオス (Fluctuation and Creative Chaos): 組織が外部環境の変化に適応し、内部から新たな秩序を生み出すための「ゆらぎ」。意図的なカオス(混乱)は、既存の枠組みを打破し、新しい視点を生むきっかけとなります。
  4. 冗長性 (Redundancy): 意図的に情報や業務を重複させること。一見非効率に見えますが、この「余分」が異なる解釈を生み、暗黙知の共有を促進し、組織のレジリエンス(回復力)を高めます。
  5. 最小有効多様性 (Requisite Variety): 組織が複雑な外部環境に対応するためには、組織内部にもそれに匹敵する多様性が必要であるという原則(アシュビーの法則)。多様な人材や情報アクセスを確保することが重要です。

3. SECIモデルの実践的応用(活用事例)

SECIモデルは多くの先進企業で意識的・無意識的に実践されています。

  • エーザイ株式会社: 同社の「ヒューマン・ヘルスケア(hhc)」理念は、SECIモデルにおける「意図」に相当します。社員が患者様と共に過ごす「共同化」を通じて暗黙知を得、それを製品開発やサービス改善のアイデアとして「表出化」し、組織全体で共有・実践しています。
  • 富士フイルム(旧富士ゼロックス): コンセプト創造プロセスにおいて、多様な専門性を持つメンバーが合宿形式で徹底的に議論する「コンセプト合宿」は、まさに「対話の場」であり、「表出化」を促進する仕組みです。
  • 株式会社再春館製薬所: コールセンターでは、顧客との対話記録(形式知)を全オペレーターが共有するだけでなく、優れた応対の音声データを聴き、その「間」や「声のトーン」(暗黙知)を学ぶ「内面化」と「共同化」のプロセスを重視しています。
  • 磨き屋シンジケート: 新潟県燕三条地域の金属加工企業群による企業間連携。各社が持つ得意な研磨技術(暗黙知)を持ち寄り、共同で試作を行う(共同化・表出化)ことで、iPodの鏡面加工などの革新的な製品を生み出しました。

4. SECIモデルの学術的・実践的評価と課題

4.1. 貢献

  • パラダイムシフト: 知識を静的な資源ではなく、人間中心の動的なプロセスとして捉え直し、ナレッジマネジメント分野の理論的基礎を確立しました。
  • 暗黙知の重視: 西洋の経営学が見過ごしがちであった「暗黙知」の重要性を明らかにし、その形式知への変換プロセスをモデル化した功績は大きいと評価されています。

4.2. 学術的批判

一方で、発表から四半世紀以上が経過し、以下のような学術的批判も存在します。

  • 経験的証拠の不足 (Lack of Empirical Evidence): モデルの妥当性を証明する定量的・実証的な研究が十分ではないという指摘があります。主に成功事例に基づく事例研究が中心であるため、普遍性には疑問が残るとされます。
  • 文化的バイアス (Cultural Bias): モデルが日本の製造業の組織文化(終身雇用、集団主義、以心伝心など)を暗黙の前提としており、個人主義的な西洋文化や他業種への一般化が難しいのではないかという批判です。
  • プロセスの非現実性・単純化 (Oversimplification of the Process): 知識創造は必ずしも4つのプロセスを順番に、あるいはスパイラル状に進むとは限らないと指摘されます。複数のモードが同時に発生したり、プロセスが逆行したりする現実の複雑さを捉えきれていないという意見です。
  • 概念の曖昧さ (Conceptual Ambiguity): 「暗黙知」と「形式知」の二元論が単純すぎ、両者の境界が曖昧であるとの批判もなされています。

4.3. 現代における限界と課題

  • リモートワークとグローバル化: 物理的な接触を前提とする「共同化」や「共感の場」は、分散したチームでどのように実現するのかという課題があります。
  • AIとナレッジマネジメント: AIは「連結化」を飛躍的に効率化する一方、AIが生成する知識を人間がどのように「内面化」し、新たな暗黙知へと繋げるかが今後の重要な論点となります。

5. 代替・関連アプローチ

SECIモデルを補完、あるいは異なる視点を提供する理論も存在します。

  • コミュニティ・オブ・プラクティス (Community of Practice: CoP)
    • 提唱者: エティエンヌ・ウェンガー (Etienne Wenger) ら。
    • 概要: 共通の関心事や問題を持つ人々が、継続的な相互作用を通じて知識や技能を深めていく実践的な共同体。公式な組織図とは別に自然発生的に形成されることが多いです。SECIモデルの「場」の概念、特に「共同化」を具体的に実践する社会的メカニズムとして理解でき、相互補完的な関係にあります。
  • コネクティビズム (Connectivism)
    • 提唱者: ジョージ・シーメンス (George Siemens) ら。
    • 概要: デジタル・ネットワーク時代における学習理論。知識は個人の頭の中だけでなく、ネットワーク上に分散して存在すると考えます。学習とは、そのネットワークに接続し、ノード(人、情報源)間のつながりを形成・維持する能力であるとします。組織の境界を越えた知識のフローを捉える上で、SECIモデルに新たな視点を提供します。

6. 結論

野中郁次郎氏のSECIモデルは、いくつかの学術的批判や現代的な課題を抱えつつも、組織における知識創造という複雑な現象の本質的なダイナミクスを見事に捉えた、極めて影響力の大きい理論的フレームワークです。その真価は、単なる知識の管理・共有手法に留まらず、「知識は人間によって創造される」という人間中心の思想を経営学に持ち込んだ点にあります。

デジタル化やグローバル化が加速する現代において、モデルの各プロセスをいかに再解釈し、テクノロジーと融合させながら実践していくかが問われています。SECIモデルは、今後も組織がイノベーションを生み出し、持続的に成長するための思考の基盤として、その普遍的な価値を失うことはないでしょう。