グラスマン代数

多重線形代数の基礎から現代物理学の最前線へ

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序論:数学的空間の拡張と認識の革新

数学史において、ある概念がその真価を理解されるまでに長い年月を要する事例は数多く存在するが、ヘルマン・グラスマン(Hermann Günther Grassmann)によって創始された「グラスマン代数(Grassmann Algebra)」あるいは「外積代数(Exterior Algebra)」ほど、その誕生時の不遇さと現代における重要性の落差が劇的なものは稀有である。19世紀中葉、プロイセンの一教師であったグラスマンが提唱したこの体系は、単なる新しい計算手法の提案にとどまらず、空間、量、そして演算という数学の根幹概念に対する哲学的かつ構造的な再定義を迫るものであった1

本報告書は、グラスマン代数について、その歴史的起源から数学的な厳密定義、幾何学的直感、そして現代理論物理学における不可欠な応用(特にフェルミオンの記述や超対称性理論)に至るまでを、可能な限り網羅的かつ詳細に分析・記述するものである。我々が今日、微分形式として幾何学を語り、経路積分として量子世界を記述できるのは、グラスマンが切り拓いた「反可換な代数」という地平が存在するからに他ならない。本稿では、提供された膨大な研究資料に基づき、この数学的構造がいかにして抽象代数学の枠組みを超え、物理的実在の記述言語としての地位を確立したのかを体系的に論じる。

第1章 歴史的文脈と「拡張論」の苦闘

グラスマン代数の理解には、それが生まれた19世紀ドイツの知的風土と、創始者ヘルマン・グラスマンが直面した特異な状況を理解することが不可欠である。彼の理論は、同時代のハミルトンによる四元数(Quaternion)の発見と並行して生まれたベクトル解析の源流の一つであるが、その受容過程は対照的であった。

1.1 ヘルマン・グラスマン:孤高の博学者

ヘルマン・ギュンター・グラスマン(1809–1877)は、シュテッティン(現在のポーランド・シュチェチン)に生まれた。彼の父ユストゥス・ギュンター・グラスマンもまた、数学と物理学の教師であり、空間的な量を代数的に扱う可能性について独自の研究を行っていた。ヘルマンの思想的背景には、父からの影響に加え、神学や哲学、特にシュライアマハーの弁証法の影響が色濃く反映されている3

グラスマンはベルリン大学で神学と文献学を修めたが、数学の講義にはほとんど出席しなかったと伝えられている。しかし、彼は独学で数学的探求を続け、1832年頃には「和と積」の概念を幾何学的対象(線分など)に拡張する基本的なアイデアに到達していた3。彼は生涯を通じて大学の数学教授のポストを得ることはなく、ギムナジウムの教師として教鞭を執りながら、余暇に研究を進めるという在野の研究者であり続けた。

1.2 『拡張論』(Ausdehnungslehre)の誕生と挫折

1844年、グラスマンは彼の主著となる『線形拡張論:数学の新たな分科』(Die lineale Ausdehnungslehre, ein neuer Zweig der Mathematik、以下A1と呼称)を出版した。この著作において彼は、従来の「数」の概念を拡張し、任意の次元を持つ「広がり(Extension)」そのものを演算の対象とする革命的な体系を提示した5

A1の核心は、現代でいうベクトル空間の公理的定義、線形独立性、部分空間の生成、そして何よりも「外積(ウェッジ積)」の導入にあった。しかし、この書物は当時の数学界から徹底的に無視された。その理由として、以下の要因が挙げられる。

  1. 哲学的記述の難解さ: グラスマンは数学的な定義を述べる前に、哲学的な概念操作や抽象的な「生成」の議論を長く展開したため、当時の主流な数学者(ガウスやメビウスなど)にとって、その核心を読み取ることが極めて困難であった4
  2. 既存体系との断絶: 当時の幾何学は座標を用いた解析幾何学が主流であり、座標に依存しない(Coordinate-free)アプローチ自体が異端視された。
  3. 四元数の影: ほぼ同時期(1843年)にウィリアム・ローワン・ハミルトンが発見した四元数は、代数的な構造が明確であり、かつハミルトンの名声もあって急速に注目を集めたため、グラスマンのより一般的で抽象的な理論は埋没してしまった6

出版社からは、A1が全く売れず、数百部が廃棄処分(古紙として処理)されたという手紙が後にグラスマンに送られている7。これは科学史上最も不当な評価の一つと言えるだろう。

1.3 1862年版『拡張論』と晩年の転身

A1の失敗を痛感したグラスマンは、哲学的な装飾を一切排除し、ユークリッド原論のような「定義・定理・証明」の厳格な形式で再構成した『拡張論』完全改訂版(Die Ausdehnungslehre、以下A2)を1862年に出版した7。A2は現代の線形代数の教科書と比べても遜色のない厳密さを備えていたが、それでもなお、時代はこの革新に追いつくことができなかった。

数学的な承認を得ることに絶望したグラスマンは、晩年、その知的エネルギーを言語学へと向けた。驚くべきことに、彼はサンスクリット語の研究において「グラスマンの法則(Grassmann’s Law)」と呼ばれる音韻変化の規則を発見し、この分野で存命中に世界的な名声を獲得した7。数学者として無視された人物が、歴史言語学の巨人として称賛されるという皮肉な運命を辿ったのである。

1.4 再評価と現代への継承

グラスマンの数学的業績が正当に評価され始めたのは、彼の死後であった。ジュゼッペ・ペアノはグラスマンの幾何学的計算の論理的明晰さに注目し、その普及に努めた。また、ウィリアム・キングドン・クリフォードは、グラスマンの外積代数とハミルトンの四元数を統合し、「幾何学的代数(クリフォード代数)」を構築した8。これにより、スピン群やディラック方程式の記述へとつながる道が開かれた。

さらに20世紀に入り、エリー・カルタンによって微分形式の理論が整備されると、グラスマン代数は多様体上の解析学における標準言語(de facto standard)となった。今日、理論物理学において「反可換な数」なしにフェルミオンを語ることは不可能であり、グラスマンの先見性は完全に証明されている2

第2章 グラスマン代数の数学的構造

ここでは、グラスマン代数(外積代数)の数学的な定義と構造を、現代的な視点から厳密に記述する。グラスマン代数は、ベクトル空間のテンソル代数から特定のイデアルによる商をとることで構成される。

2.1 基礎となるベクトル空間とテンソル代数

体 $K$(通常は実数体 $\mathbb{R}$ または複素数体 $\mathbb{C}$)上の $n$ 次元ベクトル空間を $V$ とする。

まず、最も一般的な結合代数であるテンソル代数 (Tensor Algebra) $T(V)$ を導入する11。

$$T(V) = \bigoplus_{k=0}^{\infty} T^k(V) = K \oplus V \oplus (V \otimes V) \oplus (V \otimes V \otimes V) \oplus \dots$$

ここで、$T^k(V) = V^{\otimes k}$ は $k$ 階のテンソル空間である。テンソル代数における積(テンソル積 $\otimes$)は結合的であるが、一般には非可換である。この空間は無限次元であり、ベクトル空間上のあらゆる多重線形関係を記述する母体となる。

2.2 定義:商代数としての構成

グラスマン代数 $\Lambda(V)$ は、テンソル代数 $T(V)$ に対し、「同じベクトル同士の積はゼロである」という制約を課すことで得られる。

具体的には、$v \in V$ に対して $v \otimes v$ の形の元によって生成される両側イデアル $I(V)$ を考える12。

$$I(V) = \langle v \otimes v \mid v \in V \rangle$$

グラスマン代数は、このイデアルによる商代数として定義される。

$$\Lambda(V) := T(V) / I(V)$$

この商空間において、テンソル積 $\otimes$ の像を**ウェッジ積(Wedge Product)または外積(Exterior Product)と呼び、記号 $\wedge$ で表す。

定義より、任意のベクトル $v \in V$ に対して以下の交代性(Alternating Property)**が成立する。

$$v \wedge v = 0$$

2.3 反可換性の導出と代数的性質

交代性 $v \wedge v = 0$ は、グラスマン代数の最も基本的かつ強力な性質である**反可換性(Anticommutativity)**を導く。任意の $u, v \in V$ に対して、$(u + v) \wedge (u + v) = 0$ を展開すると1

$$u \wedge u + u \wedge v + v \wedge u + v \wedge v = 0$$

ここで $u \wedge u = 0$ および $v \wedge v = 0$ であるため、以下の関係が得られる。

$$u \wedge v = – v \wedge u$$

この性質により、ベクトルの順序を入れ替えると符号が反転することがわかる。より一般に、$\alpha \in \Lambda^k(V)$ と $\beta \in \Lambda^l(V)$ の積に関しては、以下の**次数付き交換関係(Graded Commutation Relation)**が成立する15

$$\alpha \wedge \beta = (-1)^{kl} \beta \wedge \alpha$$

  • $k$ と $l$ の双方が奇数の場合(例:ベクトルとベクトル、ベクトルと3-ベクトル):反可換 ($\alpha \wedge \beta = – \beta \wedge \alpha$)
  • 少なくとも一方が偶数の場合(例:スカラーとベクトル、2-ベクトルとベクトル):可換 ($\alpha \wedge \beta = \beta \wedge \alpha$)

この「次数に応じた符号の変化」は、後の超対称性やコホモロジー理論において中心的な役割を果たす。

2.4 基底と次元:パスカルの三角形との対応

ベクトル空間 $V$ の基底を $\{e_1, e_2, \dots, e_n\}$ とすると、グラスマン代数 $\Lambda(V)$ の基底は、これらの基底ベクトルの外積によって構成される。ただし、反可換性により順序の入れ替えは符号の変化のみをもたらし、同じ要素の重複はゼロとなるため、独立な基底はインデックスが昇順に並ぶものに限られる11

$k$ 次のグラスマン空間 $\Lambda^k(V)$ の基底は以下の形をとる。

$$e_{i_1} \wedge e_{i_2} \wedge \dots \wedge e_{i_k} \quad (1 \le i_1 < i_2 < \dots < i_k \le n)$$

これにより、$\Lambda^k(V)$ の次元は二項係数 $\binom{n}{k}$ となる。各次数の次元分布は以下のようになる。

次数 (k)名称基底の例 (n=3)次元 (kn​)
0スカラー$1$1
1ベクトル$e_1, e_2, e_3$$n$
2バイベクトル (Bivector)$e_1 \wedge e_2, e_2 \wedge e_3, e_3 \wedge e_1$$\binom{n}{2}$
$\dots$$\dots$$\dots$$\dots$
$n$擬スカラー (Pseudoscalar)$e_1 \wedge e_2 \wedge \dots \wedge e_n$1
$k > n$ゼロ$0$0

グラスマン代数全体の次元は、これら二項係数の総和であり、

$$\dim \Lambda(V) = \sum_{k=0}^n \binom{n}{k} = 2^n$$

となる11。この $2^n$ という構造は、クリフォード代数やスピノル空間の次元とも一致しており、情報の符号化容量としても興味深い性質を持つ。

第3章 幾何学的解釈:空間の代数

グラスマンが「拡張論」で目指したのは、単なる記号操作ではなく、空間的な実体を伴う演算体系の構築であった。ウェッジ積は、幾何学的な対象を直接操作するツールとして極めて直感的な解釈を持つ。

3.1 向き付けられた面積・体積としてのウェッジ積

2つのベクトル $u, v$ のウェッジ積 $u \wedge v$ は、幾何学的には $u$ と $v$ が張る**平行四辺形の向き付けられた面積(Oriented Area)**を表す1

  • 大きさ(Magnitude): 平行四辺形の面積 $|u| |v| \sin\theta$。
  • 向き(Orientation): $u$ から $v$ への回転の向きを含む、その平面の姿勢。3次元空間においては、右ねじの法則で定まる法線ベクトルの向きと同一視できるが、4次元以上では「その平面そのもの」として扱う必要がある。

同様に、3つのベクトル $u, v, w$ の積 $u \wedge v \wedge w$ は、これらが張る平行六面体の向き付けられた体積を表す。一般に、$k$-ベクトルは $k$ 次元空間内の $k$-次元平行多胞体の体積要素に対応する。

3.2 線形独立性と行列式の幾何学

グラスマン代数は、線形代数の基本定理に直感的な証明と解釈を与える。

ベクトル群 $v_1, \dots, v_k$ が線形従属であるための必要十分条件は、そのウェッジ積がゼロになることである1。

$$v_1 \wedge \dots \wedge v_k = 0 \iff \{v_1, \dots, v_k\} \text{ は線形従属}$$

解釈: 線形従属なベクトルが張る多胞体は「潰れて」おり、その $k$ 次元体積はゼロになる。これは、行列式が行列の列ベクトルが線形従属であるときにゼロになるという事実の、座標によらない直接的な表現である。

実際、基底変換 $v_j = \sum_i A_{ij} e_i$ に対して、ウェッジ積をとると以下の関係が得られる。

$$v_1 \wedge \dots \wedge v_n = (\det A) \, e_1 \wedge \dots \wedge e_n$$

この式は、行列式が体積の拡大率(ヤコビアン)であることを端的に示している14。

3.3 部分空間の表現とプリュッカー関係式

非ゼロの単純 $k$-ベクトル(decomposable $k$-vector、すなわち $k$ 個のベクトルの積として書ける元)$W = w_1 \wedge \dots \wedge w_k$ は、ベクトル空間 $V$ の $k$ 次元部分空間 $U = \text{span}(w_1, \dots, w_k)$ を一意に(スカラー倍を除いて)決定する。

これにより、$k$ 次元部分空間の集合であるグラスマン多様体(Grassmannian) $Gr(k, n)$ を、射影空間 $\mathbb{P}(\Lambda^k(V))$ の部分集合として埋め込むことができる。これを**プリュッカー埋め込み(Plücker Embedding)**と呼ぶ17。

任意の $k$-ベクトルが単純(decomposable)であるとは限らない。例えば、4次元空間において $\omega = e_1 \wedge e_2 + e_3 \wedge e_4$ は単純ではなく、単一の2次元平面を表さない。ある $k$-ベクトル $\omega$ が単純であるための必要十分条件は、**プリュッカー関係式(Plücker Relations)**と呼ばれる一連の二次方程式を満たすことである。代数的には、$\omega \wedge \omega = 0$ ($k$ が偶数の場合等はより複雑な条件)などが関係する。

3.4 内部積(Interior Product)と双対性

グラスマン代数には、外積と対をなす演算として**内部積(Interior Product)**または縮約(Contraction)が存在する。これは双対空間 $V^*$ の元(1-形式)$\alpha$ を用いて、グラスマン代数の次数を下げる操作である18

定義:$\iota_\alpha : \Lambda^k(V) \to \Lambda^{k-1}(V)$

$$\iota_\alpha (v_1 \wedge \dots \wedge v_k) = \sum_{i=1}^k (-1)^{i-1} \alpha(v_i) (v_1 \wedge \dots \wedge \hat{v}_i \wedge \dots \wedge v_k)$$

ここで $\hat{v}_i$ はその要素を除くことを意味する。

内部積は「幾何学的除算」のような役割を果たし、幾何学的には「あるベクトル方向の成分を取り除く」あるいは「体積を底面で割って高さを得る」操作に対応する。これは物理学におけるフラックスの計算や、微分形式の縮約において極めて重要である。

第4章 微分形式:大域解析への架け橋

グラスマン代数の最も成功した応用の一つは、微分幾何学における**微分形式(Differential Forms)**の理論である。ここでは、各点ごとのベクトル空間(接空間)上にグラスマン代数を構成し、それを滑らかにつなぎ合わせることで、多様体上の解析学を展開する。

4.1 接空間上の外積代数

$n$ 次元多様体 $M$ 上の点 $p$ における接空間を $T_p M$、その双対空間(余接空間)を $T_p^* M$ とする。微分 $k$-形式 $\omega$ は、各点 $p$ にグラスマン代数の元 $\omega_p \in \Lambda^k(T_p^* M)$ を対応させる滑らかな切断(Section)である12

局所座標系 $(x^1, \dots, x^n)$ を用いると、1-形式の基底は $\{dx^1, \dots, dx^n\}$ であり、一般の $k$-形式は以下のように展開される。

$$\omega = \sum_{1 \le i_1 < \dots < i_k \le n} f_{i_1 \dots i_k}(x) \, dx^{i_1} \wedge \dots \wedge dx^{i_k}$$

ここで、$dx^i \wedge dx^j = – dx^j \wedge dx^i$ であるため、座標の順序交換が符号に影響する。これは積分における変数変換のヤコビアンの符号則(向きの保存・反転)を自動的に内包している19

4.2 外微分(Exterior Derivative)

微分形式に対する微分作用素である外微分 $d$ は、グラスマン代数の構造と解析学を結びつける。$k$-形式を $(k+1)$-形式に写す写像 $d: \Omega^k(M) \to \Omega^{k+1}(M)$ は以下の性質により一意に定義される15

  1. 関数(0-形式)$f$ に対して、通常の全微分と一致する:$df = \sum_i \frac{\partial f}{\partial x^i} dx^i$
  2. 線形性を持つ。
  3. ライプニッツ則(次数付き):$d(\alpha \wedge \beta) = d\alpha \wedge \beta + (-1)^{\text{deg}(\alpha)} \alpha \wedge d\beta$
  4. 冪零性(Nilpotency): $d^2 = d \circ d = 0$

この $d^2 = 0$ という性質は極めて深遠である。解析学的には偏微分の可換性($\frac{\partial^2 f}{\partial x \partial y} = \frac{\partial^2 f}{\partial y \partial x}$)と外積の反可換性の相殺から導かれるが、幾何学的には「境界の境界は空である(The boundary of a boundary is zero)」というトポロジーの原理に対応している。これにより、ド・ラームコホモロジー群(de Rham cohomology groups)$H^k_{dR}(M) = \text{Ker}(d_k) / \text{Im}(d_{k-1})$ が定義され、多様体の穴の数などの位相的情報が微分方程式の解の構造と結びつく20

4.3 ストークスの定理:解析学の統一

微分形式を用いる最大の利点は、ベクトル解析における勾配定理、発散定理(ガウスの定理)、回転定理(ケルビン・ストークスの定理)を、たった一つの美しい式に統合できることである。これが一般化されたストークスの定理である14

$$\int_M d\omega = \int_{\partial M} \omega$$

ここで $M$ は向き付けられたコンパクトな $n$ 次元多様体、$\partial M$ はその境界(向きは誘導されたもの)、$\omega$ は $(n-1)$-形式である。

  • 1次元の場合: 微分積分学の基本定理 $\int_a^b f'(x) dx = f(b) – f(a)$。ここで $\partial [a, b] = \{b\} – \{a\}$。
  • 2次元の場合: グリーン定理および古典的ストークスの定理。
  • 3次元の場合: ガウスの発散定理。

グラスマン代数の「向き」の管理能力(交代性)が、境界における積分の向きと内部における微分の整合性を完璧に保証しているのである。

第5章 ホッジ理論と計量ベクトル空間

ここまでグラスマン代数は計量(内積)を必要としない構造として議論してきたが、物理学への応用においては、空間に長さや角度(計量 $g$)が導入される。計量の存在は、グラスマン代数に新たな双対性をもたらす。

5.1 ホッジ・スター作用素(Hodge Star Operator)

向き付けられた $n$ 次元計量ベクトル空間 $(V, g)$ において、ホッジ・スター作用素 $\star$ は、$k$-ベクトルを $(n-k)$-ベクトルに対応させる線形写像である18

定義:任意の $\omega, \eta \in \Lambda^k(V)$ に対して、

$$\omega \wedge \star \eta = \langle \omega, \eta \rangle_g \, \text{vol}$$

ここで $\langle \cdot, \cdot \rangle_g$ は $k$-形式上に誘導された内積、$\text{vol}$ はリーマン体積形式(エッジが正規直交基底のウェッジ積である $n$-形式)である。

直感的意味: $\star \omega$ は、$\omega$ に対して「直交補空間(Orthogonal Complement)」に相当する部分空間を張る形式である。例えば3次元ユークリッド空間において:

  • $\star dx = dy \wedge dz$ ($x$軸方向の線素 $\leftrightarrow$ $yz$平面の面素)
  • $\star (dx \wedge dy) = dz$ ($xy$平面の面素 $\leftrightarrow$ $z$軸方向の線素)

5.2 3次元ベクトル解析の再解釈:クロス積の正体

ホッジ・スターを用いると、古典的なベクトル解析の演算子(grad, curl, div)やクロス積の正体が明らかになる17。

3次元において、2つのベクトル $u, v$ の外積 $u \wedge v$ はバイベクトルであるが、これにホッジ・スターを作用させると1-ベクトル(ベクトル)に戻る。

$$u \times v = \star (u \wedge v)$$

これが、3次元でのみクロス積がベクトルとして定義できる理由である。$n$ 次元一般では、$\Lambda^2(V)$ と $\Lambda^1(V)$ の次元は一致しないため、クロス積をベクトル積として定義することはできない。グラスマン代数は、次元の偶然に依存しない普遍的な記述を提供する。

5.3 ラプラシアンと調和形式

外微分 $d$ とホッジ・スター $\star$ を組み合わせることで、余微分(Codifferential)$\delta$ (または $d^*$)が定義される。

$$\delta = (-1)^{nk+n+1} \star d \star$$

これを用いて、形式に対するラプラス・ド・ラーム作用素(Laplace-de Rham operator) $\Delta$ が構成される。

$$\Delta = d\delta + \delta d$$

$\Delta \omega = 0$ を満たす形式を**調和形式(Harmonic Form)**と呼ぶ。ホッジの定理によれば、コンパクト多様体上の各コホモロジー類には、唯一つの調和形式の代表元が存在する。これは、物理学において場の基底状態や真空の構造を決定する際に極めて重要な概念となる18。

第6章 グラスマン数とベレジン微積分:物理学への跳躍

20世紀後半、量子力学の発展に伴い、グラスマン代数は新たな生命を吹き込まれた。それが「グラスマン数(Grassmann numbers)」としての解釈である。ここでは、代数の元を幾何学的な量としてではなく、フェルミオン(物質粒子)を記述するための「反可換な変数」として扱う10

6.1 反可換数(Anticommuting Numbers)の体系

グラスマン数(あるいはスーパー数)$\theta_i$ は、以下の反交換関係を満たす生成元として定義される。

$$\{\theta_i, \theta_j\} \equiv \theta_i \theta_j + \theta_j \theta_i = 0$$

特に、$i=j$ のとき $\theta_i^2 = 0$(冪零性)が成立する。これは通常の数(c-数)の可換性 $xy = yx$ とは対照的である。

物理学では、これらの数を成分とする関数(スーパーフィールド)を考える。冪零性のため、グラスマン変数の関数 $f(\theta)$ のテイラー展開は有限項で終了する26。

単一変数 $\theta$ の場合:

$$f(\theta) = f_0 + f_1 \theta$$

ここで $f_0, f_1$ は通常の複素数である。この単純性が、以下の微積分の定義を可能にする。

6.2 ベレジン積分(Berezin Integral)

フェリックス・ベレジンによって導入されたこの積分は、通常のリーマン積分(面積の総和)とは全く異なる概念である。フェルミオンの経路積分を定義するために要請される唯一の条件は、積分が**並進不変性(Translational Invariance)**を持つことである28。

$$\int d\theta f(\theta + \eta) = \int d\theta f(\theta)$$

この条件と線形性から、以下の定義が導かれる(標準的な正規化において)26

  1. $\int d\theta \cdot 1 = 0$
  2. $\int d\theta \cdot \theta = 1$

一般の関数 $f(\theta) = f_0 + f_1 \theta$ に対しては、

$$\int d\theta f(\theta) = f_1 = \frac{\partial}{\partial \theta} f(\theta)$$

となる。すなわち、グラスマン世界において**「積分は微分と等価」**なのである25。この事実は、計算の次元解析や変数の収支において直感に反する結果をもたらすが、理論の整合性を保つ鍵となる。

6.3 変数変換とベレジニアン(Berezinian)

通常の積分における変数変換 $x = g(y)$ では、ヤコビアン $|\det J|$ が掛かる($dx = |\det J| dy$)。しかし、グラスマン積分では積分が微分と同じ操作であるため、連鎖律(Chain Rule)の逆が適用され、ヤコビアンの逆数が現れる27

$$\theta’ = a \theta \implies d\theta’ = \frac{1}{a} d\theta$$

ボソン変数 $x$ とフェルミオン変数 $\theta$ が混在する場合、一般化された行列式である**ベレジニアン(Berezinian)**あるいはスーパーデターミナント(Superdeterminant)が導入される。

超行列 $M = \begin{pmatrix} A & B \\ C & D \end{pmatrix}$ ($A, D$は偶、$B, C$は奇)に対し、

$$\text{Ber}(M) = \det(A – B D^{-1} C) \det(D)^{-1}$$

この定義により、超空間における積分の変数変換公式 $\int d^m x d^n \theta f(z) = \int d^m x’ d^n \theta’ \text{Ber}(M) f(z(z’))$ が成立する27。$\det(D)$ が分母に来ることは、フェルミオンのループ寄与がボソンの寄与と逆符号になる(打ち消し合う)数学的起源である。

第7章 応用:フェルミオン経路積分と場の量子論

グラスマン代数が現代物理学の主役となる舞台は、場の量子論(QFT)におけるフェルミオンの記述である。

7.1 パウリの排他律と反可換性

電子やクォークなどのフェルミオンは、パウリの排他律に従う。これは量子状態において「同じ場所に2つの粒子が存在できない」ことを意味する。生成消滅演算子で言えば $\{c_i, c_j^\dagger\} = \delta_{ij}$ である。

この量子的な演算子の「古典極限(path integralにおける積分変数)」として振る舞う数は、$\psi(x) \psi(y) = – \psi(y) \psi(x)$ を満たさなければならない。特に $\psi(x)^2 = 0$ は、同じ状態の二重占有禁止を古典的に表現している31。グラスマン数は、フェルミオンの「古典場」を記述する唯一の数学的候補である。

7.2 フェルミオン・ガウス積分

経路積分の実行にはガウス積分が不可欠である。グラスマン変数 $\theta, \bar{\theta}$ (これらは独立な変数として扱う)に対するガウス積分は以下の公式で与えられる30

$$\int d\bar{\theta} d\theta \, e^{-\bar{\theta} a \theta} = a$$

多変数の場合、正方行列 $A$ に対して:

$$\int \prod_{i} d\bar{\theta}_i d\theta_i \exp\left( – \sum_{i,j} \bar{\theta}_i A_{ij} \theta_j \right) = \det A$$

重要比較(Table 1):

積分タイプボソン(複素数)フェルミオン(グラスマン数)
被積分関数$e^{-z^* A z}$$e^{-\bar{\theta} A \theta}$
積分結果$\frac{\pi^N}{\det A}$$\det A$
行列式の位置分母(逆数)分子
物理的意味ボソンループ $\propto (\det)^{-1}$フェルミオンループ $\propto \det$

この「行列式が分子に来る」という性質は極めて重要である。場の量子論において、フェルミオンの閉じたループ(真空偏極など)を計算すると全体にマイナス符号 $(-1)$ が付く「フェルミオン・ループの符号則」は、数学的にはこのベレジン積分の性質($\det A = \exp(\text{Tr} \ln A)$ の指数の符号の違い)に由来する34

7.3 ディラック場の経路積分

量子電磁力学(QED)や標準模型において、ディラック場 $\psi$ の分配関数 $Z$ は以下のように書ける。

$$Z = \int \mathcal{D}\bar{\psi} \mathcal{D}\psi \exp\left( i \int d^4x \bar{\psi}(i\gamma^\mu D_\mu – m) \psi \right)$$

被積分関数は $\psi$ について二次形式(ガウス型)であるため、形式的に積分を実行でき、その結果は演算子の行列式となる。

$$Z \propto \det(i\gamma^\mu D_\mu – m)$$

この行列式を評価することで、カイラルアノマリー(Chiral Anomaly)や有効作用の計算が行われる。グラスマン代数の微積分がなければ、現代の素粒子物理学の計算は定義すらままならないのである。

第8章 超対称性(SUSY):幾何学の究極の拡張

グラスマン代数の応用として最も野心的なものが、**超対称性(Supersymmetry, SUSY)**である。これは時空の概念そのものを拡張する試みである。

8.1 超空間(Superspace)とスーパーフィールド

通常の時空座標 $x^\mu$ (可換なボソン的座標)に、反可換なグラスマン座標 $\theta^\alpha, \bar{\theta}^{\dot{\alpha}}$ を追加した空間を**超空間(Superspace)**と呼ぶ10。

超空間上の関数であるスーパーフィールド $\Phi(x, \theta, \bar{\theta})$ は、$\theta$ の冪展開として定義される。

$$\Phi(x, \theta) = \phi(x) + \theta \psi(x) + \theta^2 F(x)$$

ここで、展開係数 $\phi(x)$ はボソン場(スカラー)、$\psi(x)$ はフェルミオン場(スピノル)、$F(x)$ は補助場となる。

このように、グラスマン代数を用いることで、異なるスピンを持つ粒子(ボソンとフェルミオン)を単一の「場」の異なる成分として統一的に扱うことができる。これが超対称性の幾何学的本質である。

8.2 超対称変換と物理法則の統一

超対称変換は、超空間上の「回転」や「並進」として幾何学的に定義される。

$$x^\mu \to x^\mu + i\theta \sigma^\mu \bar{\epsilon} – i\epsilon \sigma^\mu \bar{\theta}$$

$$\theta \to \theta + \epsilon$$

この変換により、ボソン場 $\phi$ はフェルミオン場 $\psi$ へ、$\psi$ は $\phi$(の微分)へと混ざり合う。

物理学者は、自然界の基本相互作用が超対称性によって統一される可能性を追求してきた。LHCなどの加速器実験で超対称性粒子(スパートナー)が探索されているが、その理論的枠組みは全てグラスマン代数とその微積分の上に構築されている34。

8.3 超対称量子力学と数学的定理の証明

エドワード・ウィッテンは、1次元の超対称量子力学(SQM)を解析することで、数学の難問であった「モース理論」や「アティヤ=シンガーの指数定理」に対する物理学的な証明を与えた34。

ここでは、ド・ラームコホモロジーの外微分作用素 $d$ とその随伴 $d^*$ が、超対称代数のスーパーチャージ $Q, Q^\dagger$ と同一視される。

$$H = \{Q, Q^\dagger\} = dd^* + d^*d = \Delta \quad \text{(ラプラシアン)}$$

グラスマン代数が記述する「フェルミオン的状態」は微分形式に対応し、「ボソン的状態」は多様体上の座標に対応する。この対応関係(Witten Index)を通じて、物理学の基底状態の数え上げ問題が、トポロジーのオイラー標数の計算に帰着するという驚くべき接続が明らかになった。

第9章 比較代数論:クリフォード、テンソルとの関係

最後に、グラスマン代数を関連する他の代数構造と比較し、その位置づけを明確にする。

9.1 テンソル代数 vs グラスマン代数 vs クリフォード代数

これらの代数は包含関係や変形(Deformation)の関係にある11

Table 2: 代数構造の比較

特徴テンソル代数 T(V)グラスマン代数 Λ(V)クリフォード代数 Cl(V,q)
定義生成元 $V$ の自由な代数$T(V) / \langle v \otimes v \rangle$$T(V) / \langle v \otimes v – q(v)1 \rangle$
基本関係制約なし(非可換)$v \wedge v = 0$ ($v^2=0$)$v \cdot v = q(v)$ ($v^2 = \text{scalar}$)
積の性質テンソル積外積(反対称)幾何学積(対称+反対称)
次数 (Grading)$\mathbb{Z}$-graded$\mathbb{Z}$-graded$\mathbb{Z}_2$-graded (Even/Odd)
次元無限$2^n$$2^n$
主な用途汎用的な多重線形性微分形式、体積、フェルミオン回転、スピノル、ディラック方程式

9.2 クリフォード代数の退化極限としてのグラスマン代数

クリフォード代数(幾何学的代数)において、計量(二次形式)$q(v)$ をゼロに近づける極限、あるいは計量を持たない空間を考えると、関係式 $v^2 = q(v)$ は $v^2 = 0$ となり、グラスマン代数に一致する。

また、クリフォード積 $uv$ は以下のように分解できる8。

$$uv = u \cdot v + u \wedge v$$

ここで第1項は内積(スカラー)、第2項は外積(バイベクトル)である。グラスマン代数は、この積のうち「外積部分」のみを抽出し、独立した代数として閉じた体系を作ったものと解釈できる。物理的には、計量が関与する「エネルギー」や「距離」の概念から離れ、純粋にトポロジカルな、あるいは反対称な性質(スピンの統計性など)を記述する場合にグラスマン代数が適している。

結論:グラスマンの夢の成就

ヘルマン・グラスマンが1844年に著した『拡張論』は、当時の数学界の無理解という厚い壁に阻まれた。しかし、彼が蒔いた種は決して枯れることはなかった。

本報告書の包括的な分析から明らかになったのは、グラスマン代数が単なる「便利な計算ツール」にとどまらず、現代科学における空間と物質の記述言語そのものになっているという事実である。

  1. 幾何学の解放: ベクトル解析を3次元の呪縛から解き放ち、$n$ 次元空間や曲がった多様体上での大域解析(コホモロジー、ストークスの定理)を可能にした。
  2. 物理的実在の基盤: 反可換性という抽象的な数学的性質が、宇宙を構成するフェルミオン(物質)の本質的な性質と合致することを示した。ベレジン微積分を通じたQFTの定式化は、素粒子物理学の標準模型を支える柱である。
  3. 理論の統一: 超対称性理論において、ボソンとフェルミオン、幾何学と代数を「超空間」という枠組みで統合する際の数学的土台を提供した。

グラスマンはかつて「私の理論が理解される時代がいずれ来るだろう」と予言し、失意の中で数学を去った。しかし今日、AIによる自然言語処理(高次元ベクトル空間)から、宇宙の始まりを探る超弦理論に至るまで、彼の概念はあらゆるところで生き続けている。彼の「拡張」の精神は、現代科学の最前線において、かつてないほどの輝きを放っているのである。


参考文献 (参照ソースID):

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引用文献

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  5. The Historical Movement of the Contributions of Grassmann’s Extension Theory to Linear Algebra – Educ@ http://educa.fcc.org.br/scielo.php?script=sci_arttext&pid=S2526-76472024000100302&lng=en&nrm=iso&tlng=en
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