価値創造のナラティブと戦略的開示

I. 統合報告の本質:財務・非財務情報の融合
定義と目的:過去の報告から未来の価値創造へ
統合報告書(Integrated Report)は、企業が「財務情報」と「非財務情報」を統合して報告する文書です 1。ここで言う非財務情報とは、環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)といったESG要素や、人的資本など、企業の持続可能性に影響を与える広範な情報を含みます。
その中核的な目的は、従来の報告書とは一線を画します。過去の財務諸表を中心とした年次報告書(Annual Report)が「過去」の業績を報告するものであった 2 のに対し、統合報告書は、企業の「長期的」な価値創造の仕組み(プロセス)をステークホルダー、とりわけ投資家や株主に対して包括的に示すことを目指しています 1。
この点で、統合報告書は他の開示書類と明確に区別されます。
- 財務報告書(年次報告書): 主に財務情報。時間軸は「過去」。対象は主に投資家・株主 2。
- CSR/サステナビリティ報告書: 主に非財務情報(環境・社会活動)。時間軸は「過去から現在」。対象は顧客、従業員、NPOなど広範なステークホルダー 2。
- 統合報告書: 財務・非財務情報を「統合」。時間軸は「過去、現在、未来」。対象は主に長期投資家だが、全ステークホルダーを意識 2。
本質的に、統合報告書は単なる情報の羅列ではなく、財務資本と非財務資本(例:優れた企業文化、環境技術、顧客との信頼関係)が、いかにして相互に関連し合い、将来のキャッシュフローや企業価値に繋がっていくのか、その「因果関係の設計図」を提示するものです。
戦略的価値:開示義務への対応と企業価値の向上
企業が統合報告書の作成を迫られる背景には、複数の戦略的動機が存在します。直接的には「人的資本情報開示の義務化への対応」といった規制の変化、そして間接的には「ESG投資の獲得によるダイベストメント(投資引き揚げ)の回避」といった資本市場からの要請があります 1。
投資家は、もはや売上高、利益率、ROE(株主資本利益率)といった財務指標 1 だけで企業の将来性を判断することはなくなりました。非財務情報と財務情報を組み合わせることで、企業の経済的健全性だけでなく、その持続可能性と将来の成長性 4 を評価します。
したがって、統合報告書の作成は、単なる報告義務の履行を超えた、積極的な戦略的価値を持ちます。それは企業とステークホルダー間の「建設的なコミュニケーション」の基盤 となり、開示を通じて信頼関係を構築し 1、最終的にはブランドイメージや企業価値そのものを向上させる 4 ための、極めて重要な経営ツールとして機能します。
この作成プロセス自体にも、副次的ながら強力なメリットが内在します。統合報告書は、財務部門、IR部門、ESG部門、経営企画部門、人事部門(人的資本)が、組織のサイロ化を解消し、自社のビジネスモデルを「価値創造」という共通言語で再定義するプロセスを組織に促します。この「統合思考(Integrated Thinking)」の醸成 こそが、作成プロセスにおける最大の価値の一つと言えます。
II. 価値創造ストーリーの構築:国際統合報告フレームワーク(IIRC)の活用
IIRCフレームワークの概要:原則主義アプローチ
統合報告書が世界的に普及する上で、そのグローバルスタンダードとして機能してきたのが、IIRC(国際統合報告評議会、現在はIFRS財団に統合)が提示する「国際統合報告フレームワーク」です 2。
このフレームワークの最大の特徴は、特定の開示項目を細かく規定する「規則主義(Rules-based)」ではなく、報告書を作成する際の「思考の拠り所」となる「原則主義(Principles-based)」のアプローチを採用している点です 2。
このアプローチにより、企業は自社のビジネスモデルや業界特性に即した、柔軟で独自性のあるストーリー構築が可能になります。しかし、それは同時に、自社の価値創造プロセスを深く理解し、それを論理的に説明する高度な経営能力が求められることも意味します。
価値創造の背骨:「7つの指導原則」と「8つの内容要素」
IIRCフレームワークは、質の高い報告書が遵守すべき基本的な考え方として「7つの指導原則」と、報告書に含めるべき具体的な情報カテゴリーとして「8つの内容要素」を提示しています 2。
7つの指導原則は、報告書の品質を担保する根幹です 5:
- 戦略的焦点と将来志向: 組織の戦略と、それが将来の価値創造にどう結びつくか。
- 情報の結合性: 価値創造に影響する要因間の相互関連性や依存関係。
- ステークホルダーとの関係性: 主要ステークホルダーのニーズや関心にどう対応するか。
- 重要性(マテリアリティ): 企業の価値創造能力に実質的な影響を与える事項。
- 簡潔性: 複雑な内容を、過度な詳細を省きつつ分かりやすく。
- 信頼性と完全性: 重大な誤りなく、肯定的・否定的な側面を均衡よく。
- 首尾一貫性と比較可能性: 時間経過や他社との比較を可能にする。
8つの内容要素は、価値創造ストーリーを構成するための基本的な構成要素であり、それぞれが問いかける質問に答える形で報告書を作成することが推奨されています(例:組織概要と外部環境、ガバナンス、ビジネスモデル、リスクと機会、戦略と資源配分など)2。
核心原則の分析:「重要性(Materiality)」と「情報の結合性(Connectivity)」
7つの指導原則の中でも、特に「重要性」と「情報の結合性」は、IIRCフレームワークのエンジンとも言える核心的な概念です。
- 重要性(Materiality): 「企業の短期、中期、長期の価値創造能力に実質的な影響を与える事項」に関する情報を開示すべき、という原則です 5。これは、気候変動、人権、イノベーションといった無数のESGトピックの中から、自社の企業価値にとって本当に重要なものだけを「特定」し、それに焦点を当てるプロセス(マテリアリティ特定)の根拠となります。
- 情報の結合性(Connectivity): 統合報告書が、企業の価値創造に影響を与える要因間の「組み合わせ、相互関連性、依存関係」の全体像(ホリスティックな姿)を示すべき、という原則です 5。
この2つの原則は、優れた統合報告書を構築する上で不可欠な両輪です。「重要性」が価値創造ストーリーの「素材」を定義するフィルターであるとすれば、「情報の結合性」は、それらの素材を「どのように論理的に繋げるか」という文法に相当します。
例えば、「重要性」のプロセスを通じて、自社にとって「人的資本への投資」が重要マテリアルであると特定したとします。次に「結合性」の原則に基づき、その投資が「A(人的資本投資)→ B(従業員エンゲージメント向上)→ C(イノベーションの創出)→ D(新製品による売上向上)→ E(財務的リターン)」といった形で、他の資本やビジネスモデルとどう連鎖し、最終的に財務的価値に繋がるのか、その論理的な「ナラティブ」を構築することが求められます。
III. 現代の潮流と新たな開示義務:ISSBとTCFDのインパクト
グローバル・ベースラインの誕生:ISSB基準(S1, S2)
近年、統合報告を取り巻く環境は、「任意」の取り組みから「規制」の領域へと大きくシフトしました。その象徴が、2023年にIFRS財団傘下のISSB(国際サステナビリティ基準審議会)が公表した、IFRS S1号(サステナビリティ関連財務情報の開示に関する全般的要求事項)およびIFRS S2号(気候関連開示)です 6。
これは、これまで乱立し「アルファベット・スープ」と揶揄されてきたESG開示基準(例:TCFD, SASB, IIRC, GRIなど)を統一し、資本市場における「比較可能性」と「信頼性」を高める「グローバル・ベースライン」を確立しようとする、歴史的な「根本的な変化」です 6。
TCFDの「4つの柱」の完全な組み込み
ISSB基準の最大の特徴は、S1号(全般)・S2号(気候)ともに、TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)が提言した「4つの柱」のフレームワークを全面的に採用している点です 7。
この「4つの柱」とは、サステナビリティ関連のリスクと機会を評価・管理するための経営の根幹であり、英国のFCA(金融行動監視機構)なども、この4つの柱をエンティティレベルの開示要件の基礎としています 8。
- ガバナンス(Governance): 誰がリスクと機会を監督する責任を負うのか。
- 戦略(Strategy): リスクと機会が、企業の戦略や財務計画にどう影響するか。
- リスク管理(Risk Management): リスクをどのように特定、評価、管理しているか。
- 指標と目標(Metrics and Targets): リスクと機会をどのように測定・監視しているか。
この事実は、極めて重要な二つの帰結をもたらします。
第一に、TCFD、SASB、IIRCといった主要な枠組みがIFRS財団という一つの屋根の下で整理され、事実上「IIRCの統合思考」を思想的背景とし、「TCFDの4つの柱」を報告構造として採用し、「SASBの業界別指標」 を具体的なメトリクスとして参照する、という新たなグローバル・スタンダードが確立されたことです。
第二に、TCFDの「4つの柱」が、ISSB S1号(全般)の基礎とされたことにより、このフレームワークはもはや「気候変動」専用のものではなくなった、という点です。今後は、気候変動以外のサステナビリティ課題(例:人的資本、生物多様性、サプライチェーンの人権)についても、企業は「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標と目標」の4つの柱に沿って整理し、開示・説明することが求められます。これは、多くの企業にとって経営管理プロセスの根本的な見直しを迫るものです。
表1:ISSB基準におけるTCFD「4つの柱」の適用
| TCFDの柱 | 概要 | ISSB S1(全般的要求事項)での適用 | ISSB S2(気候関連開示)での適用 |
| ガバナンス | リスクと機会に関する組織の監督体制 | サステナビリティ全般に関するガバナンス体制、取締役会の監督責任、経営者の役割の開示 7 | 気候関連のリスクと機会に関するガバナンス体制の開示 |
| 戦略 | リスクと機会が及ぼす事業・戦略への影響 | サステナビリティ全般のリスクと機会が、戦略、ビジネスモデル、キャッシュフローに与える短・中・長期の影響の開示 7 | 気候関連のリスクと機会(物理的・移行リスク)が戦略に与える影響、シナリオ分析の結果の開示 |
| リスク管理 | リスクの特定・評価・管理プロセス | サステナビリティ全般のリスクと機会を特定、評価、管理するためのプロセスの開示 7 | 気候関連のリスクを特定、評価、管理するためのプロセスの開示 |
| 指標と目標 | リスクと機会を評価・管理するための指標と目標 | サステナビリティ全般のリスクと機会に関連するパフォーマンス指標(業界別SASB基準を含む)と目標の開示 7 | 温室効果ガス排出量(Scope 1, 2, 3)、気候関連の目標(例:SBT)などの開示 |
IV. 日本市場への適用:SSBJの動向と企業の対応
SSBJ(サステナビリティ基準委員会)の設立と役割
ISSBによるグローバル基準の公表という「外圧」を受け、日本国内でも基準策定の動きが急速に進みました。2022年7月、財務会計基準機構(FASF)内に「SSBJ(サステナビリティ基準委員会)」が設立され、日本におけるサステナビリティ開示基準の開発が始まりました。
SSBJの目的は、ISSB基準(S1, S2)をベースとしながらも、日本の法制度や企業実務に合わせた国内基準を策定することです。これは、ISSB基準をそのまま採用(Adoption)するのではなく、内容を吟味・調整した上で採択(Endorsement)するアプローチであり、日本企業は今後、SSBJが策定する国内基準(法規制対応)と、ISSBのグローバル基準(海外投資家対応)の両方を注視(ダブル・トラッキング)していく必要があります。
日本版基準の策定と義務化スケジュール
SSBJは、ISSB基準に対応する日本独自の基準草案を2024年3月に公表しました。この草案の最終化は「2025年3月まで」に行われる予定です。
金融庁は、このSSBJ基準の適用義務化について、具体的なロードマップの検討を進めています。現在の案では、「2027年3月期または2028年3月期から」企業への適用を義務化することが検討されています。
適用対象は、当初からすべての企業に一律に課されるわけではなく、段階的な拡大が予定されています。
- 初期適用(2027年~): 東京証券取引所プライム市場上場企業のうち、「時価総額3兆円以上の企業から開始」
- 次期適用(2028年~): 対象を「時価総額1兆円以上の企業へ広げる」方針
この具体的なタイムラインは、統合報告書(あるいはサステナビリティ開示)が、もはや一部の先進企業による「任意(Voluntary)」のIR活動ではなく、有価証券報告書と同様の「法的な開示義務(Mandatory)」のフェーズに完全に移行したことを示しています。
これは、IR部門やESG推進室だけの問題ではなく、CFO(最高財務責任者)、法務部門、監査役会を巻き込む全社的なコンプライアンス課題となったことを意味します。2025年3月の基準最終化から2027年3月期の適用開始まで、対象となる大企業に残された準備期間は実質的に2年しかなく、極めて迅速な対応が求められています。
V. 戦略的IRの実践(ケーススタディ):日本企業の先進事例
ISSBによる規制化以前から、日本の先進企業は統合報告書を戦略的なIRツールとして活用し、高い評価を得てきました。ここでは、近年のアワードを受賞した企業の事例を分析します。
丸紅(Marubeni):受賞(
9
丸紅は、「NIKKEI統合報告書アワード2024」において、最高の栄誉であるグランプリを受賞しました 9。同社の報告書の卓越性は、企業価値向上戦略を、投資家にとって最も重要な二つの金融指標に集約し、報告書全体の構造として提示した点にあります。
同社の戦略は、以下の2つの柱で構成されています 9:
- 「ROE(株主資本利益率)の維持・向上」:財務的な収益性(いかにして稼ぐか)
- 「株主資本コストの低減(=PERの向上)」:非財務的な市場評価(いかにしてリスクを下げ、期待を高めるか)
この二元的アプローチは、同社の統合報告書2025(B_B7)の構成に明確に反映されています。
- SECTION 1(価値創造): 価値創造の基本モデルを提示。
- SECTION 2(価値創造の実践): 〈Sustain and Improve ROE〉(ROEの維持・向上)をテーマに、中期経営戦略や事業投資プロセスを説明。
- SECTION 3(価値創造の持続性): 〈Improve PER〉(PERの向上)をテーマに、サステナビリティやリスク管理、ガバナンスの取り組みを説明。
多くの企業がESG活動を「社会貢献」や曖昧な「企業価値向上」といった言葉で表現する中、丸紅は「サステナビリティ(非財務)」を「PER(株価収益率)の向上施策」という具体的な金融指標に直結させました。これは、「ESG投資が株価(財務)にどう影響するのか」という投資家の最大の疑問に対する、極めて明快な回答です。サステナビリティへの取り組みがリスクを低減し(=株主資本コストの低減)、将来の成長期待を高める(=PERの向上)というロジックを、報告書の構造そのもので証明しています。これは、IIRCの「情報の結合性」の最高レベルの実践例と言えます。
積水ハウス(Sekisui House):受賞(
10
積水ハウスもまた、「日経統合報告書アワード2024」においてグランプリS賞を受賞しています 10。同社の「VALUE REPORT 2024」(B_B4)は、丸紅とは異なるアプローチで、卓越したナラティブを構築しています。
同社の報告書は、企業理念の根本哲学である「人間愛」と、グローバルビジョン「『わが家』を世界一幸せな場所にする」を実現するための道標として制定された「SEKISUI HOUSE_SHIP」を中核に据えています。
「人間愛」や「幸せ」といった抽象度の高い理念は、通常、IR資料とは相性が悪いものです。しかし、積水ハウスは、これを「価値創造のあゆみ」として「過去・現在・未来」という時間軸に沿った価値提供の進化としてストーリー化しました。
- 第1フェーズ(過去 1960-1990): 「安全・安心」という価値の提供
- 第2フェーズ(現在 1990-2020): 「快適性・環境配慮」という価値の提供
- 第3フェーズ(未来 2020-): 「幸せ」という新たな価値の提供
そして、この「未来(幸せ)」を実現するための「手段・ドライバー」として、企業理念「SEKISUI HOUSE_SHIP」(イノベーション、コミュニケーション、自律など)を再定義しました。この理念(SHIP)は、同社のマテリアリティ(例:ダイバーシティ&インクルージョン)やロードマップと直結しています。
これは、企業の「DNA」や「カルチャー」という目に見えない無形資産が、いかにして競争優位性と将来のキャッシュフロー(未来の「幸せ」という価値提供)を生み出すかを論証する、高度なナラティブ戦略です。企業の「理念」を、IIRCの言う「人的資本」および「組織資本」として明確に位置づけ、戦略に落とし込んでいます。
VI. 戦略的IRの実践(ケーススタディ):グローバル・ベンチマーク
日本企業が目指すべきグローバル・ベンチマークとして、南アフリカのNedbank Groupの事例は、統合報告の「成熟した形態」を示しています。
Nedbank Group(南アフリカ):受賞(
11
Nedbankは、EY(アーンスト・アンド・ヤング)が主催する「Excellence in Integrated Reporting Awards」において、2025年に4年連続の第1位を獲得するなど、世界最高峰の評価を受け続けています 11。
評価者は、同報告書を「あらゆる点で傑出している」「価値がいかにして創造され、保護されるかに明確に焦点を当てている」と賞賛しています 12。その卓越性は、特に以下の2点に集約されます。
1. 「マテリアルマター」と「リスク・機会」の完璧な連動
EYの2024年のアワード(2023年版報告書が対象)の講評では、「Nedbankの報告書は、マテリアルマター(重要課題)が非常に文脈化され、詳細かつ未来志向であり、これらのマターと『戦略』『リスク』『機会』との間に明確なリンクがなされている」と激賞されています 13。2025年の報告書においても、「マテリアルマターは詳細に議論され、関連する機会やリスクと適切にリンクしている」と評価されており、この論理的な結合性が同社の強みであることがわかります。
2. 「戦略的トレードオフ(Strategic Trade-offs)」の高度な開示
Nedbankが他の追随を許さない、最も高度な開示が「戦略的トレードオフ」です。現実の経営とは、リソース配分の「選択と集中」であり、常にトレードオフ(例:短期的な利益を犠牲にして、長期的な環境投資を選ぶ)を伴います。
多くの報告書が「良いこと(Win-Win)」しか記載しない中、Nedbankは経営のリアリティを開示することを選択しています。EYの2024年講評は、「価値を創造し保護するために行われた『戦略的トレードオフ』の提示が優れている」と具体的に指摘しています 13。
Nedbankの報告書の卓越性は、その目次(構造)そのものにあります 14。
- 「Our operating environment and material matters」(我々の事業環境とマテリアルマター) 14
- 「Managing risk strategically, while unlocking opportunities」(リスクの戦略的管理と機会の創出) 14
- 「Our strategy」(我々の戦略) 14
- 「Strategic capital decisions and trade-offs」(戦略的資本の決定とトレードオフ) 14
この構造は、(1)重要課題を特定し、(2)それをリスクと機会の観点から分析し、(3)対応する戦略を策定し、(4)その実行に伴うリソース配分の「トレードオフ」を説明する、という一貫した論理フローを形成しています。これは、IIRCの「情報の結合性」の原則を、経営プロセスそのものに組み込み、報告書で忠実に再現した結果です。「トレードオフ」を開示することは、経営陣が「統合思考」に基づき、6つの資本(金融、製造、知的、人的、社会・関係、自然)をいかに最適配分したかを説明する、最も誠実かつ高度な説明責任の果たし方です。
表2:ベスト・イン・クラスの統合報告書:戦略的アプローチ比較
| 項目 | 丸紅(Marubeni) | 積水ハウス(Sekisui House) | Nedbank Group |
| 中核となるナラティブ (価値創造の論理) | 金融指標による結合 企業価値を「ROE(収益性)」と「PER(市場評価)」に二分し、全戦略をこの2指標にマッピングする 9。 | 理念と時間軸による結合 企業理念「人間愛」を「過去・現在・未来」の価値提供(安全→環境→幸せ)の進化としてストーリー化する。 | 経営プロセスによる結合 「マテリアルマター → リスク・機会 → 戦略 → トレードオフ」という経営の意思決定プロセスそのものを開示する 13。 |
| 「情報の結合性」 の実現手法 | 財務(ROE)と非財務(PER)をトップダウンで結合する、明快なロジック。 | 「理念(SHIP)」を「人的・組織資本」と再定義し、未来戦略(幸せの提供)の実行ドライバーとして結合する。 | リスク、戦略、資本配分(トレードオフ)をボトムアップで緻密に連鎖させる、論理的な一貫性。 |
| 「マテリアリティ」 の戦略への落とし込み | サステナビリティ(マテリアリティ)を「PER向上」の施策として明確に定義し、市場評価の向上に直結させる。 | マテリアリティ(例:D&I)を、未来ビジョン(幸せ)実現のためのロードマップ の一部として組み込む。 | マテリアルマターを全ての起点とし、それがリスク、戦略、経営判断(トレードオフ)にどう影響したかを具体的に示す。 |
VII. 重点開示分野の深掘り:人的資本(ISO 30414)
人的資本開示の重要性の高まり
統合報告書が注目される背景の一つに、規制当局による「人的資本情報開示の義務化」 1 があります。企業価値の源泉が、土地や工場といった有形資産から、技術、ブランド、そして「ヒト」といった無形資産へ移行する中で、投資家は「人的資本」に関する定量的な情報を強く求めています。
国際ガイドライン:ISO 30414の概要
この人的資本開示の国際的なガイドラインとして、2018年にISO(国際標準化機構)が公開した「ISO 30414」が存在します。これは、組織が人的資本に関する情報を「定量化」し、内部管理および外部開示(統合報告書など)に活用するためのガイドラインです。
従来の財務会計(P/L)では、人件費は「販売管理費」であり、削減すべき「コスト」として扱われがちでした。しかし、ISO 30414は、「総労働力コスト」や「研修コスト」を、「人的資本ROI」や「生産性」といったリターンと対比させることを可能にします。これにより、人への投資が、将来の価値創造に不可欠な「資本」の蓄積であると、定量的に投資家に説明することが可能になります。
ISO 30414が示す具体的な指標と今後の動向
ISO 30414は、人的資本を11の評価カテゴリ(例:コスト、ダイバーシティ、生産性、スキルと能力)で網羅しています。
この基準は、2025年春に大幅な改訂が予定されています。改訂版には、「AI・DXスキル」「ウェルビーイング」「サプライチェーンの人的資本管理」といった、現代の最重要経営課題を反映した項目が追加される見込みです。この事実は、サステナビリティ開示基準が、単に過去の活動を報告するためではなく、未来の企業価値を左右する中核的な戦略リスク・機会(例:AI人材の不足、メンタルヘルス不調による生産性低下)を特定し、経営陣に対応を促す「先行指標(Leading Indicator)」として機能し始めていることを示しています。
表3:人的資本の定量化:ISO 30414の主要カテゴリと指標例
| ISO 30414 カテゴリ | 具体的な指標例 | 指標の戦略的意味(投資家への示唆) |
| 2. コスト | ・総労働力コスト 16 ・採用コスト、離職コスト | 人的資本にどれだけの金融資本を投下しているか。 |
| 5. 組織風土 | ・従業員の定着率 16 ・従業員満足度、エンゲージメント | 組織の安定性と魅力。離職コストの低減。 |
| 7. 生産性 | ・従業員あたり売上高/利益 ・人的資本ROI(投資収益率) | 人的資本への投資が、どれだけのリターンを生んでいるか。 |
| 8. 採用・異動・離職 | ・離職率(自発的/非自発的) ・採用効率 | 人材の流動性。人材獲得・維持能力の健全性。 |
| 9. スキルと能力 | ・研修コスト、研修参加率、受講時間 ・将来必要となる人材の能力(例:AI・DXスキル)16 | 将来の戦略実行に必要なスキルセットの構築状況。 |
| 10. 後継者計画 | ・内部継承率、後継者準備率 | 経営の持続可能性。ガバナンスの安定性。 |
VIII. 統合報告書の戦略的価値と導入の課題
多面的なメリット:投資家から組織内部まで
統合報告書の作成と開示は、企業に多面的なメリットをもたらします。
- 対外部(投資家・ステークホルダー):
- 投資家コミュニケーションの質向上: ESGやサステナビリティ情報を成長戦略と紐づけることで、投資家の「将来的な成長に対する期待感」を醸成します 4。
- 信頼関係の強化: 財務情報と非財務情報を統合的に開示することで、ステークホルダーからの信頼を高め、長期的なビジネスの発展に寄与します 4。
- ブランドイメージと人材獲得: 経営理念や企業文化といった定性情報を開示することで、顧客の共感や、持続可能性に関心の高いZ世代などの優秀な人材の獲得・定着に繋がります 4。
- 対内部(組織):
- 「統合思考」の浸透: 自社のビジネスモデルや価値創造プロセスを全社的に見つめ直す機会となり、経営層の「統合思考」が社内に浸透します。
- 組織連携の強化: 報告書作成には部門横断的な連携が必須となるため、組織の意思疎通が強化され、サイロ化の解消に繋がります。
導入における現実的な課題
一方で、特にこれから導入する企業にとっては、現実的な課題も存在します。
- リソースとコストの負担: 統合報告書の作成には、社内の幅広い部門との連携・調整が必要であり、相応の時間と工数がかかります。人的リソースに余裕がない企業にとっては大きな負担となり、外部コンサルタントの活用には相応のコストが発生します。
- (過去の課題)統一フォーマットの不在: かつては、統一された基準やフォーマットが確立されておらず、「何を含めるべきか分からない」という混乱がありました。しかし、本レポートのセクションIIIで分析した通り、この課題はISSBの登場によって「解決」されました。現在の課題は「フォーマットの不在」ではなく、「新しく確立されたISSB/SSBJフォーマットに、いかに迅速かつ高度に対応するか」という、より具体的な実行フェーズの課題へと移行しています。
ここで、「コスト負担」 と「統合思考の醸成」 が、実は表裏一体である点に留意が必要です。部門横断的な連携(コスト)こそが、統合思考(メリット)を生み出す「投資」そのものです。このプロセスを単なる「報告書作成コスト」として外部委託で処理しようとする企業は、最大のメリット(内部の経営変革)を逃すことになります。経営陣がこの「コスト」を、戦略的な「投資」として認識できるかが、統合報告書導入の成否を分ける決定的な要因となります。
IX. 総論:統合思考による持続的企業価値の向上
本レポートの分析を通じて明らかになったのは、統合報告書とは、最終的な「成果物(報告書)」そのものよりも、それを作成する「プロセス(思考)」こそが本質であるということです。Nedbankの事例 15 が示すように、それは「統合思考(Integrated Thinking)」を経営の意思決定プロセスに組み込み、実行するための強力なツールです。
日本企業を取り巻く環境は一変しました。SSBJによる基準の最終化(2025年3月)と義務化(2027年~)というタイムライン は、もはや猶予がないことを示しています。
日本企業が取るべき行動は、これを「コンプライアンス(守りの開示)」として最小限の対応に留めることではありません。
ISSB/TCFDの「4つの柱」(セクションIII)を経営管理フレームワークとして導入し、丸紅(セクションV)のように「財務と非財務の結合ロジック」を構築し、積水ハウス(セクションV)のように「自社の理念」を価値創造ドライバーとして組み込み、そしてNedbank(セクションVI)のように「マテリアリティ、リスク、戦略、トレードオフ」を論理的に開示する。
この「戦略(攻めの開示)」こそが、グローバルなESG投資を呼び込み、自社の持続的な企業価値向上を実現する唯一の道筋となります。統合報告書は、その戦略と実行をステークホルダーに宣言する「羅針盤」に他なりません。
引用文献
- 統合報告書とは?有価証券報告書との違いや作成目的・発行企業の事例も紹介 https://biz.moneyforward.com/ipo/basic/8959/
- IIRCとは?統合報告フレームワークの目的や内容をわかりやすく解説 https://crexgroup.com/ja/consulting/management/what-is-iirc-framework/
- 統合報告書とは?有価証券報告書の違いや目的、作成手順を解説 https://www.future-artisan.co.jp/column/esg_ir_explanation
- 統合報告書を作成するメリットとは?企業が得ることができる … https://www.takara-print.co.jp/media/integratedreport_010/
- Featured IR practices and awards – Integrated Reporting Examples … https://examples.integratedreporting.ifrs.org/featured-practices/
- 情報要請 – IFRS® サステナビリティ開示基準 https://www.ssb-j.jp/jp/wp-content/uploads/sites/6/20230510-1.pdf
- ISSB(国際サステナビリティ基準審議会)とは?開示基準の概要と日本 … https://www.mitsui.com/solution/contents/column/836
- PS23/16: Sustainability Disclosure Requirements (SDR) and … https://www.fca.org.uk/publication/policy/ps23-16.pdf
- Marubeni Wins the Grand Prize at the NIKKEI Integrated Report … https://www.marubeni.com/en/news/2025/info/00010.html
- 「日経統合報告書アワード2024」においてグランプリS賞を受賞 … https://www.sekisuihouse.co.jp/company/topics/topics_2025/20250312/
- Nedbank ranks top in the Excellence in Integrated Reporting Awards … https://www.ey.com/en_za/newsroom/2025/09/nedbank-ranks-top-in-the-eri-awards-2025
- In this critical decade for our planet, how can we deliver action that counts? – EY https://www.ey.com/content/dam/ey-unified-site/ey-com/en-za/services/assurance/documents/ey-excellence-in-integrated-report-2025.pdf
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- Integrated Report – the Nedbank Group https://group.nedbank.co.za/content/dam/group/pdf/21_integrated-reports/2024/integrated-report/2024-integrated-report-nedbank.pdf
- Integrated Report – Nedbank https://personal.nedbank.co.za/content/dam/group/pdf/sustainability/2023-nedbank-group-integrated-report.pdf
- ISO30414とは?人的資本情報開示ガイドライン完全解説 | 組織改善 … https://www.motivation-cloud.com/hr2048/c316



