サイバネティクスの中核概念:フィードバックの原理と学際的影響

要旨 (Executive Summary)
本レポートは、サイバネティクスの中核概念としての「フィードバック」について、その定義、動作原理、歴史的文脈、そして学際的影響を網羅的に解明する。ノーバート・ウィーナーによる「動物と機械における制御と通信の科学」というサイバネティクスの定義 1 において、フィードバックは「制御」と「通信」を機能的に結びつける根幹的なメカニズムとして位置づけられる。本稿では、フィードバックを「システムの出力がその後の入力に影響を与える円環的因果プロセス」 3 と定義し、その動作原理を「目標と現状の差異(エラー)の検出と補正」という観点から分析する 2。特に、システムを安定化させる「負フィードバック」 5 と、変化を増幅させる「正フィードバック」 6 の二分法を詳細に検討し、これが工学的な制御に留まらず、生物学的な恒常性(ホメオスタシス)から経済的な市場均衡、さらには社会的な変化のダイナミクスまでを説明する普遍的原理であることを示す。さらに、ウィーナーの「学習と適応」の定式化 7 を起点に、フィードバック概念が認知科学(TOTEモデル) 9、経営学(Viable System Model) 10、社会学(ダブルバインド理論) 11 などの多様な分野でいかにして具体的な理論的基盤を形成したかを、詳細な事例分析と共に論じる。最終的に、フィードバックは単なる技術的構成要素ではなく、複雑系が自己を調整し、環境に適応し、あるいは劇的に変化する様を記述するための「普遍的な文法」であると結論づける。
第1部:サイバネティクスの創成とフィードバックの定義 (The Genesis of Cybernetics and the Definition of Feedback)
1.1. 「舵取り手」の科学:サイバネティクスの起源
1948年、アメリカの数学者ノーバート・ウィーナーは、その画期的な著書『サイバネティクス:あるいは動物と機械における制御と通信 (Cybernetics: Or Control and Communication in the Animal and the Machine)』を発表し、この分野を「動物と機械における制御と通信の理論の全分野」を指すものとして命名した 1。これは、生物、機械、あるいは社会システムであれ、それらがどのように情報を処理し、制御されるかという共通の原理を探求する、当時としては斬新な学際的試みであった 3。
ウィーナーによるこの命名は、フィードバックの概念と本質的に結びついている。彼はこの新分野の名称を、ギリシャ語の $\kappa\upsilon\beta\epsilon\rho\nu\eta\tau\eta\varsigma$ (kybernētēs)、すなわち「舵取り手」または「(船の)操舵手」を意味する言葉から造語した 1。この語源の選択は、学問の核心を指し示すために意図的に行われたものである。ウィーナー自身が、船の操舵エンジンを「フィードバック機構の最も初期かつ最も発展した形態の一つ」であると指摘している 3。
さらにウィーナーは、ジェームズ・クラーク・マクスウェルによる1868年の蒸気機関の「ガバナー(調速機)」に関する画期的な論文に言及している 2。ガバナーは、エンジンの速度が設定値を超えると自動的に蒸気弁を絞り、速度が落ちると弁を開くことで、速度を一定に保つ装置である。この「ガバナー」という言葉もまた、ラテン語の gubernator を経由して、kybernētēs と同じ語根に由来する 3。
舵取り手(進路からずれたら舵を切って修正する)も、ガバナー(設定速度からずれたら弁を調整して修正する)も、まさしく「目標からの逸脱」を検出し、それを「修正」する行動をとるフィードバック制御の本質的な事例である。したがって、ウィーナーは「フィードバックによる制御」こそがこの新科学の核心であると宣言するために、意図的にこの語源を選んだのであり、サイバネティクスはフィードバックの科学として誕生したと言える。
1.2. フィードバックの基礎的定義:円環的因果律 (Circular Causality)
サイバネティクスの文脈において、フィードバックは「円環的因果プロセス(circular causal process)」として厳密に定義される 3。これは、あるシステムの行動の結果(出力)が、そのシステム自体に(入力として)戻り、その後の行動に影響を与えるプロセスを指す 3。
ウィーナーの理論的枠組みの中心にあるのは、「送信され、応答されるメッセージ(情報)」である 12。フィードバックは、この「応答」のプロセスに他ならない。システム(機械、生物、組織)の機能性は、このメッセージの質に依存する 12。ここで、サイバネティクスの副題である「通信」(情報の伝達)が、「制御」(目標に向けた行動修正)を機能的に可能にする。
この円環的プロセスは、システムが目標志向的に振る舞うことを可能にする。その基本的な動作原理は、以下のように分解できる 4:
- システムは「目標(Goal)」を持つ。
- システムは目標に向かって「行動(Action)」する。
- 環境がシステムに影響を与え、行動が結果(Effect)を生む。
- その結果に関する情報が「フィードバック」としてシステムに戻る。
- システムは、フィードバックされた「現在の状態」と「目標」との間の「差(エラー)」を測定する。
- システムは、その「エラー」を減少させるために行動を「修正(Correct)」する。
このメカニズムは、システムを単なる「受動的(passive)」な存在から「目的論的(purposeful)」な存在へと変える、認識論的な転換点である。例えば、「くしゃみ」は外部からの刺激(ほこり)に対する受動的・一方的な反応である 17。対照的に、人間が手を伸ばしてコップを掴むという行動は、目的論的である 2。この場合、脳(コントローラー)が、目(モニター)から送られてくる「コップと手の位置関係」に関する「フィードバック」情報に基づき、手の位置という「観察された行動」を、「コップを掴む」という「望ましい行動」に近づけるよう、腕の筋肉に「指示を出し続ける」 2。この円環的プロセス 3 がなければ、システムは初期の刺激に対して一方向的に反応するだけである。フィードバック・ループの存在こそが、システムが自らの行動の結果を「知り」、それを目標と「比較」し、自らを「修正」することを可能にする。ウィーナーが「動物」と「機械」を並列に扱った 12 のは、このフィードバックというメカニズムが、両者に共通する「目的」や「目標志向性」 18 を工学的に導入するものだと見抜いたからに他ならない。
第2部:フィードバック・ループの動作原理と分類 (The Mechanism and Typology of Feedback Loops)
2.1. 制御メカニズムの解剖:モニター、コントローラー、エラー
フィードバックの概念は、「閉ループ(Closed-loop)」制御システムの中心にある 19。これは、システムが自身の出力(現在の状態)を監視し、その情報を「入力側」に戻して制御に利用するシステムである。このループは、本質的に「情報」を扱う。
このループの基本構成要素は、第1部で触れたコップを掴む例のように、一般的に以下の3つからなる 2:
- コントローラー(Controller / 制御部): システムの行動を決定し、指示を出す主体(例:脳、CPU、経営者)。
- モニター(Monitor / 監視部): システムの現在の状態を測定するセンサー(例:目、温度計、市場調査部門)。
- 目標(Goal / 設定点): システムが達成しようとする望ましい状態(例:対象物の位置、設定温度、売上目標)。
この制御プロセスにおける駆動力は「エラー(Error)」または「偏差(Deviation)」と呼ばれる信号である 4。フィードバック(モニターからの「現在の状態」の情報)は、入力側で「目標(設定点)」と比較される。この比較によって、「エラー信号(Error Signal)」が生成される 20。数学的には、最も単純なユニティ・フィードバック・システムでは $Error = Input (Goal) – Output (Feedback)$ と表される 20。コントローラーは、この「エラー」をゼロに(あるいは最小化)するように、システムの行動を調整する 19。
ここで重要なのは、フィードバック・システムにおいて「エラー」は「失敗」を意味しないという点である。一般的な感覚では、「エラー」は否定的なもの、すなわち「失敗」と捉えられる。しかし、サイバネティクスのフィードバック・ループにおいて、「エラー」はシステムが作動するための必須の燃料である。エラーが「ゼロ」であれば、目標と現状が一致していることを意味し、コントローラーは何もする必要がない 19。エラーが「非ゼロ」であるという情報(フィードバック)こそが、コントローラーに対して「何を」「どの方向に」「どれだけ」行動すべきかを指示する唯一の「制御情報」である。したがって、フィードバック・システムは、エラーを「失敗」から「制御のための情報」へと再定義する。
2.2. 安定化のメカニズム:負(ネガティブ)フィードバック (Negative Feedback)
フィードバック・ループは、その作用によって大きく二種類に分類される。その第一が「負フィードバック」である。
- 定義: 負フィードバック(あるいは平衡フィードバック)は、システムの出力に何らかの変動が生じた際、その変動を「減少させる」または「打ち消す」ように作用するフィードバックである 5。
- 機能: このメカニズムは、変動を抑制し、一般的にシステムの「安定性(Stability)」を促進する 5。元のプロセスを「調整(moderate)」する機能を持つ 6。
- 恒常性(ホメオスタシス): この安定化の機能は、生物学における「恒常性(Homeostasis)」、すなわち外部環境の変化に関わらず、体温や血糖値といった内部環境を一定の狭い範囲内に保つという「安定した内部プロセス」の維持と本質的に等価である 22。
- 事例分析:サーモスタット 23
- 目標(設定点): 部屋の温度を20℃に保つ。
- 逸脱(エラー発生): 窓が開き、室温が18℃に下がる。
- センサー(モニター): 温度計が「設定点との差(-2℃)」というエラーを検出する 23。
- コントローラー: 制御センターがエラーを認識する 23。
- エフェクター: ヒーター(Effector)が作動する 23。
- フィードバック: ヒーターの作動により室温が上昇する。
- エラーの解消: 温度計が20℃を検出すると(エラーがゼロになると)、ヒーターは停止する 23。
このループは、室温が下がるという変動に対して、室温を上げるという「逆方向」の行動を引き起こす。これが「負(ネガティブ)」フィードバックと呼ばれる所以である。このメカニズムは、システムのロバスト性(堅牢性)を高め、不確実性や外部からの擾乱の影響を低減させるために不可欠である 4。
2.3. 変化と増幅のメカニズム:正(ポジティブ)フィードバック (Positive Feedback)
第二のタイプが「正フィードバック」である。
- 定義: 正フィードバック(あるいは自己強化フィードバック)は、システムの出力に変動が生じた際、その変動を「増幅」または「強化」するプロセスである 6。
- 機能: 「AがBを多く生み出し、BがAをさらに多く生み出す」 6 という循環を引き起こす。これにより、小さなかく乱が「より大きく」なり 6、変化が「同じ方向」へさらに促進される 6。
- システムへの影響: 負フィードバックが安定性を促進するのに対し、正フィードバックは「不安定性(Instability)」をもたらす傾向がある 5。ループゲイン(利得)が正で1を超える場合、システムは「指数関数的成長」、「(増大する)発振」、または「カオス的挙動」を示し、平衡から大きく逸脱する 5。
- 事例: 暴走するインフレーション(価格上昇が賃金上昇を呼び、賃金上昇がさらなる価格上昇を呼ぶ)、パニック的な銀行の取り付け騒ぎ(少数の引き出しが不安を呼び、不安がさらなる引き出しを呼ぶ)、マイクとスピーカーの間で起こるハウリング(音が音を増幅するループ)。
ここで強調すべきは、「正(Positive)」と「負(Negative)」という用語の価値中立性である。これらの用語は、日常会話で使われるような価値判断(「良い」「悪い」)や、行動の望ましさ(「褒める」「罰する」)を意味するものではない 6。研究文献では、「負フィードバック」を「罰(punishment)」と混同しないよう明確に警告されている 5。これらの用語は、純粋に数学的・工学的なものであり、「ループゲインがゼロより大きいか小さいか」を指し、「結果の望ましさに関する価値判断を意味するものではない」 6。
実際、安定性を維持するために不可欠な「負フィードバック」(例:体温調節)は、生物にとって非常に「良い」ものである。一方で「正フィードバック」は、システムを破壊する(例:核反応の暴走)ため「悪い」ものと見なされがちである。しかし、正フィードバックは「指数関数的成長」も引き起こす 5。経済成長、学習の進展、新しい生命の誕生と成長は、すべて正フィードバック(自己強化)のプロセスに依存している。「負」は「逸脱を打ち消す(安定化)」、「正」は「逸脱を増幅する(変化)」という、純粋に機能的な記述として理解する必要がある。
表1:負フィードバックと正フィードバックの機能比較
| 特徴 (Feature) | 負(ネガティブ)フィードバック (Negative Feedback) | 正(ポジティブ)フィードバック (Positive Feedback) |
| 定義 | 出力の変動を減少・相殺するように作用する 5 | 出力の変動を増幅・強化するように作用する 6 |
| システムへの影響 | 安定化(Balancing)、調整(Moderating) 5 | 不安定化(Exacerbating)、強化(Reinforcing) 5 |
| 結果 | 平衡状態、恒常性(ホメオスタシス)の維持、変動の抑制 5 | 指数関数的成長、発振、カオス的挙動、平衡からの逸脱 5 |
| 役割 | 「制御」、状態の維持、ロバスト性の確保 4 | 「変化」、成長、学習、あるいは崩壊 6 |
| 工学例 | サーモスタットによる室温制御 23、ガバナーによるエンジン速度制御 3 | マイクとスピーカーのハウリング(音の増幅ループ) |
| 生物学例 | 体温調節、血糖値の調節(ホメオスタシス) 22 | 出産時の陣痛促進(オキシトシンループ)、血液凝固 |
| 社会例 | 市場メカニズムによる価格の安定化 24 | 流行の爆発的拡大、金融市場の暴落 6 |
第3部:フィードバックと「学習」:ウィーナーの洞察と認知科学 (Feedback and “Learning”: Wiener’s Insight and Cognitive Science)
3.1. ウィーナーの定式化:「過去からの学習」としてのフィードバック
ウィーナーのサイバネティクスにおいて、フィードバックは単なる「制御」にとどまらない、より高次のプロセス、すなわち「学習」の基盤として捉えられている。ウィーナーの定式化において、サイバネティクス的「学習」とは、人間と機械の区別なく適応するプロセスである 7。
この学習のメカニズムは、「受信したフィードバックに応じて、未来の行動を適応させ(そして理想的には改善する)能力」に依存している 7。これは、サイバネティクスにおける「学習」が、第2部で見たサーモスタットのような単純な「制御」(第1次フィードバック)とは区別される高次のプロセスであることを示唆している。
サーモスタット 23 は、フィードバックを利用するが、「学習」はしない。その設定点(20℃)も、反応の仕方(ヒーターのON/OFF)も固定されている。サーモスタットは「去年の冬は寒すぎたから、今年は自動的に設定を21℃にしよう」とは考えない。ウィーナーが言う「学習」とは、システムが「過去のパフォーマンスの記憶を保持し、それを利用して時間とともに改善できる」こと 8、すなわち「未来の行動を改善する」 7 ことである。これは、フィードバック(例:「この戦略では目標が達成できなかった」)を利用して、コントローラー自体のルールや設定点を変更することを意味する。これは「第2次フィードバック(Second-Order Feedback)」または「メタ学習」と呼ばれるプロセスであり、システムの適応能力の核心である。
3.2. 脳、AI、ニューラルネットワークへの先見
ウィーナーは、この「学習」メカニズムが、機械だけでなく人間の脳内でも同様に働いていると深く認識していた 8。彼は、ニューロン(神経細胞)のプロセスをサイバネティクス的に解釈した。
ニューロンは感覚信号(例:足が不安定な砂利に着地する)を処理し、プロセス(例:バランスを保つために脚の筋肉を活性化する)を開始し、その後、その出力を「監視し、調整する」 8。
ウィーナーの洞察の核心は、学習の神経基盤に関するものである。彼は、脳が「特定のニューロン間の結合を個別に強化する」ことによって、「過去の経験を符号化し」、将来のパフォーマンスを向上させることができると理解していた 8。
この1940年代のウィーナーの洞察は、現代の人工知能(AI)、特にディープラーニングの理論的基盤そのものであることが指摘されている 8。この関連性は驚くほど具体的である。
- 現代のAI(ニューラルネットワーク)は、まず「推測(出力)」を行う。
- この出力と「正解(目標)」が比較され、「エラー信号(=フィードバック)」が生成される。
- 「バックプロパゲーション(誤差逆伝播法)」と呼ばれるアルゴリズムは、このエラー信号をネットワークにフィードバックし、エラーの原因となった「ニューロン間の結合(重み)」を「強化」または「弱化」させる。
- ウィーナーの「特定のニューロン間の結合を個別に強化する」 8 という記述は、このAIの学習プロセスを驚くべき精度で予見していた。
3.3. 認知科学におけるフィードバック:TOTEモデル
ウィーナーのフィードバック概念が人間の認知プロセスに応用された画期的な例が、1960年にジョージ・ミラー、ユージン・ギャランター、カール・プリブラムによって提唱された「TOTEモデル」である 9。
TOTEモデルは、当時主流であった「S-R(刺激-反応)モデル」という行動主義心理学の線形的な枠組みに代わる、人間の目標志向的な行動を説明するためのモデルであった。TOTEは、Test(テスト:チェック)- Operate(オペレート:作業)- Test(テスト:チェック)- Exit(イグジット:抜け出す)の頭文字である 28。
TOTEモデルの動作メカニズムは、まさにサイバネティクス的なフィードバック・ループそのものである。
- Test(1回目): 現在の状態を「目標(内部標準)」と比較する 9。もし一致していれば(エラーがゼロなら)、即座に「Exit」する。
- Operate: 不一致(エラー)がある場合、その不一致を解消するための「作業(操作)」を実行する。
- Test(2回目): 操作の結果、現在の状態が「目標」と一致したかを再度テストする。
- (Loop): もし不一致が解消されていなければ、再び「Operate」に戻る 9。
- Exit: 一致が確認された時点で、このプロセスから「抜け出す」 28。
TOTEモデルは、人間の認知プロセスを説明するために、単純な「S-R(刺激-反応)モデル」を「負フィードバック・ループ」で置き換えた、認知革命の象徴的なモデルである。TOTEモデル以前の行動主義では、人間の行動は受動的な「反応」の連鎖と見なされていた。しかしTOTEモデルは、「Test-Operate-Test」という「ループ」を導入した 27。このプロセスは、「目標(Goal)」と「現在の進捗」を継続的に比較し、「不一致(discrepancy)」を認識すると、それを「減少させる」よう動機づける「負フィードバック・ループ(negative-feedback-loop)」であると明示的に言及されている 9。これにより、人間の行動は「プラン(計画)」 26 に基づき、「目標」との不一致を能動的に修正し続ける、サイバネティクス的な「制御プロセス」としてモデル化されたのである。
第4部:フィードバックの学際的展開:経済、経営、社会 (Transdisciplinary Applications: Economics, Management, and Society)
フィードバックは、工学や生物学の領域を超え、人間が構成する複雑な社会システムを分析するための強力なパラダイムとなった 3。その普遍的な原理は、経済学、経営学、社会学、さらには家族療法に至るまで、多岐にわたる分野に応用されている 3。
4.1. 経済システムにおけるフィードバック:システムダイナミクス
経済学、特にシステムダイナミクス(SD)の分野において、フィードバックは市場の「自己調整行動(self-regulating behaviour)」をシミュレートするために中心的な役割を果たす 31。経済システムは、無数のフィードバック・ループ(正と負の両方)が複雑に絡み合ったものとしてモデル化される 24。
特に市場均衡(Market Equilibrium)のメカニズムは、「価格関連の平衡化フィードバックループ(price-related balancing feedback loops)」、すなわち「負フィードバック」によって説明される 31。この自己調整メカニズムは以下のように動作する 24:
- 逸脱(エラー発生): ある商品の「在庫(stocks)」が少なくなる(目標=需給均衡、からの逸脱)。
- フィードバック(価格): 在庫の少なさ(あるいは生産能力の逼迫)がフィードバックされ、「価格が上昇」する 24。
- 操作(需要): 上昇した価格は、消費者にフィードバックされ、その商品の「需要を減少」させる 24。
- 操作(供給): 同時に、上昇した価格は生産者にもフィードバックされ、次期の「生産を増加」させるインセンティブとなる 24。
- 結果(エラーの解消): 「需要の減少」と「供給の増加」は、どちらも「在庫の少なさ」という当初のエラーを解消する方向に働き、システム(市場)は再び均衡へと向かう 24。
この分析は、アダム・スミスの「見えざる手」というメタファーが、サイバネティクス的には、市場参加者の行動を調整する「負フィードバック・ループの集合体」として記述できることを示している。「見えざる手」の正体とは、個々の参加者の行動(需要、供給)の結果(出力)であると同時に、彼らの次の行動を決定する「情報(入力)」としてフィードバックされる「価格」という信号である 33。このフィードバック信号が、システム全体(市場)を(即時ではないが、遅れを伴って 34)均衡状態へと導く「制御」の役割を果たしている。
4.2. 組織のサイバネティクス:Viable System Model (VSM)
英国の理論家スタッフォード・ビアーは、サイバネティクスを経営学および組織論に応用し、「経営サイバネティクス」という分野を確立した 3。彼の最も影響力のある業績が「Viable System Model (VSM)」(生存可能システムモデル)である 10。
VSMの目的は、企業や政府機関などの複雑な組織が、激しく変化する環境の中で「生存可能(Viable)」(=長期的に独立して生存し、適応し続けられる)であるために必要な組織構造と情報フローを設計することにある 10。VSMの核心は、組織が「自己調整メカニズム(self-regulating mechanisms)」と「適応性(adaptability)」という、相反しうる二つの能力のバランスを取ることにある 10。
VSMは、組織を「生存」させるために、複数の階層にわたる精緻なフィードバック・チャネル(コミュニケーション・チャネル)を設計する 36。例えば、現場で発生した問題を経営層に迅速に伝達する「ジュニアからシニアへ」のフィードバック、サポート部門と自律的な業務部門間のフィードバック、そして経営層が現場の客観的な実態を把握するための「監査(Audits)」というトップダウンのフィードバックなどが挙げられる 37。
VSMは、組織を「脳と神経系」のアナロジーで捉え直す試みである。VSMの理論的基礎には、脳の数学的モデルがあると指摘されている 35。VSMは、組織という「身体」が環境(市場)の中で生き残るために、必要な情報を収集(モニター)し、意思決定(コントローラー)を行い、実行(エフェクター)するための「神経系」、すなわちフィードバック・チャネルの設計図 36 を提供するものと解釈できる。
4.3. コミュニケーションの病理:ダブルバインド理論
フィードバックの概念は、正常な制御システムだけでなく、その「病理」を説明するためにも用いられた。人類学者であり、サイバネティクス運動の初期からの参加者であったグレゴリー・ベイトソンは、この概念を社会システム、特に家族療法(Family Therapy)に応用した 3。
ベイトソンが1950年代に提唱した「ダブルバインド(二重拘束)理論」は、フィードバックが破綻した状況を記述する 11。ダブルバインドは、個人が二つ以上の「矛盾したメッセージ(フィードバック)」を同時に受け取り、かつ、その状況から逃げ出すことも、その矛盾自体を(メタ・コミュニケーションによって)指摘することも許されない状況を指す 11。
具体例として、親が子供に「自主的に行動しなさい」という言語的メッセージ(フィードバックA)を与えつつ、子供が実際に自主的な行動(例:親の意に沿わない選択)をすると、罰を与えたり不機嫌になったりするという非言語的メッセージ(フィードバックB)を与える場合が挙げられる 11。子供は、Aに従っても(自主的に行動しても)Bに背くことになり、Bに従っても(親の顔色をうかがっても)Aに背くことになり、「逃れられないジレ ンマ」に陥る。
この理論は、フィードバックが単純な「情報」ではなく、「論理的階層(Logical Types)」を持つことを明らかにした点で重要である。サーモスタットのフィードバック(「温度」)は単一の階層にある。しかし、ベイトソンが示した人間関係のフィードバックは複数の階層で同時に発生する。「自主的に行動しなさい」というメッセージは、行動(Operate)に関するフィードバックである。しかし、罰を与えるという行動は、そのメッセージ自体(「自主的に」)を否定する、より高次のフィードバック(メタ・メッセージ)である。この「フィードバックについてのフィードバック」が矛盾するとき、システム(この場合は人間の精神)は「制御不能(エラーを解消できない)」状態に陥り、病理(ベイトソンは当初、統合失調症との関連を議論した)が生じる可能性が示唆された 11。
表2:フィードバック概念の学際的応用モデル
| 分野 (Discipline) | 主要理論家 (Key Theorist) | 中核モデル/理論 (Core Model/Theory) | フィードバックの役割 (Role of Feedback) |
| 認知科学 (Cognitive Science) | Miller, Galanter, Pribram | TOTEモデル 9 | 負フィードバック・ループによる目標志向的行動の実現。「目標」と「現状」の不一致(エラー)を検出し、「Operate」によってエラーをゼロにする 9 |
| 経済学 (Economics) | (System Dynamics) | システムダイナミクス (System Dynamics) 31 | 平衡化ループ(負)による市場均衡の自己調整(例:「在庫減→価格上昇→需要減」) 24。強化ループ(正)による成長やバブルの記述 |
| 経営学 (Management) | Stafford Beer | Viable System Model (VSM) (生存可能システムモデル) 10 | 組織の「生存可能性(Viability)」を確保するための「自己調整」と「適応」。脳神経系アナロジーに基づく多階層のフィードバック・チャネル設計 10 |
| 社会学/心理療法 (Sociology/Psychotherapy) | Gregory Bateson | ダブルバインド理論 (Double Bind Theory) 11 | 矛盾したフィードバックの病理的影響。異なる論理階層のフィードバックが矛盾し、メタ・コミュニケーションが封じられた時の制御システムの破綻 11 |
第5部:結論:情報化社会の普遍文法としてのフィードバック (Conclusion: Feedback as the Universal Grammar of the Information Age)
本レポートで詳述したように、「フィードバック」は、ノーバート・ウィーナーが提唱したサイバネティクス 1 の領域において、単なる構成要素の一つではなく、その根幹をなす「中核概念」である。
フィードバックの本質は、ウィーナーの定義した「通信(Communication)」と「制御(Control)」を結びつける点にある。フィードバックとは、「通信」(システムの行動結果に関する情報の帰還)が、いかにして「制御」(目標達成に向けた行動の修正)を可能にするか 12 を説明するプロセスそのものである。
フィードバック・ループは、二重の機能(安定と変化)を提供する。負フィードバックによる「安定性」の維持と恒常性の確保 5、そして正フィードバックによる「変化」の増幅と成長 6。この二つの機能の組み合わせは、システムが示す動的な振る舞いのほぼすべて(平衡状態の維持から、学習、適応、成長、そして崩壊に至るまで)を説明するための基本的な原理を提供する。
フィードバック概念の最大の貢献は、この単一の原理が、機械(サーモスタット) 23、生物(脳神経系) 8、認知(TOTEモデル) 9、そして社会(経済、経営、家族) 3 といった、一見すると全く無関係に見える領域を横断する「普遍的な文法」を提供したことにある。
最終的に、サイバネティクスが示したフィードバックの概念は、「目的論」—すなわち、システムがなぜ「目標」に向かって行動する(かのように見える)のか—という古来の哲学的問いに対し、「エラー信号を最小化する円環的因果ループ」という、厳密かつ操作可能な工学的回答を与えた 4。我々が今日「AI」(人工知能) 8 や「自己調整システム」 10 と呼ぶものの理論的基盤は、すべてこのフィードバックという中核概念の上に構築されているのである。
引用文献
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