ノーバート・ウィーナーの思想:サイバネティクスが問う制御、情報、そして人間の未来

I. 序論:サイバネティクスの黎明 ― 制御と通信の統一科学
A. サイバネティクスの定義と射程
ノーバート・ウィーナーの思想は、彼自身が創始し、1948年の画期的な著作『サイバネティクス』によって確立された学際的科学の核心をなす 1。ウィーナーはこの新しい学問を、「動物と機械における制御と通信 (Control and Communication in the Animal and the Machine)」の科学として定義した 2。この定義そのものが、彼の思想のラディカルな射程を示している。
ウィーナーの核心的な着想は、従来は完全に別個の領域と見なされていた工学(特に計算機械)、生物学(神経生理学)、そして社会学といった広範な分野 4 を、「制御 (Control)」と「通信 (Communication)」という二つの概念を媒介として、統一的な視点から分析できるという点にあった 2。
神童として知られた数学者であったウィーナー 4 は、専門分化が進む当時の科学の風潮を批判し、この新しい領域の探求者には「ライプニッツ的なほとんど普遍的な関心 (an almost Leibnizian catholicity of interest)」6 が必要であると説いた。彼自身、数学、工学、生物学、哲学を横断するその広範な視野 4 によって、サイバネティクスという統一理論を構築し得たのである。
B. 思想の源流:対空射撃問題と「目的」の工学
サイバネティクスの思想が具体的に結晶化したのは、第二次世界大戦中という実用的な要請の只中であった 7。ウィーナーは、高速で移動する敵の爆撃機を撃墜するための対空射撃制御 (Fire Control) の自動化という軍事問題に従事した 7。
この問題の技術的な核心は、砲弾が目標に到達するまでに要する時間(最大で20秒にも達した 9)を考慮し、敵機の「現在位置」ではなく、その「未来位置」を予測して照準を合わせる必要があった点にある 7。
ウィーナーのアプローチは、単なる弾道計算を超えていた。彼は、敵機の操縦士の「過去の行動 (previous behavior)」パターンを統計的にモデル化すること 7、さらにはその操縦士固有の「癖や習慣 (quirks and habits)」10 までをも組み込んだ予測システムを構想した。操縦士は、その内部構造が未知の「ブラックボックス」9 として扱われた。
この技術的課題の追求は、即座に深遠な哲学的領域へと踏み込むことになった。第一に、このシステムは「機械が人間(操縦士)の行動を予測できる」10 ことを意味した。第二に、さらに重要なこととして、ウィーナーは、射撃手、レーダー、計算機、そして敵機というシステム全体が、ある「目標(Goal)」の達成(=撃墜)に向けて行動する「目的論的行動 (teleological behavior)」11 を示す、一つの巨大なフィードバック・ループであることを見抜いた。
当時、科学的説明から「目的」という主観的な概念を排除しようとした行動主義心理学 11 が主流であったのに対し、ウィーナーは「目的」を工学的に記述可能な制御システムの振る舞いとして再定義し、科学の舞台へと引き戻したのである。
II. サイバネティクスの中核メカニズム:フィードバックと情報
A. フィードバックと目的論的行動
サイバネティクスの技術的な核となる原理が、「ネガティブ・フィードバック(負帰還)」(Negative Feedback) である 12。これは、システムの「目標」とする状態と「実際の状態」との間のズレ(誤差)を検出し、そのズレを修正・縮小する方向(負の方向)にシステム自身の行動を自己制御するメカニズムを指す 2。
ウィーナーは、この工学的なフィードバック機構が、生物の生命維持に不可欠な「ホメオスタシス(恒常性)」13 と同一の原理であると論じた。例えば、外部の気温に関わらず体温を一定(例えば摂氏半度の変動が病気の兆候とされるほど狭い範囲 13)に保つ生理機能は、ネガティブ・フィードバックによる自己制御の典型例である 13。
ウィーナーの思想の独創性は、このモデルを正常な制御だけでなく、「制御の失敗」という病理現象の分析にも適用した点にある。彼は特に、小脳 (Cerebellum) を損傷した患者に見られる特異な振戦(ふるえ)である「目的振戦 (purpose tremor)」13 に着目した。
この「目的振戦」は、患者が安静にしている時には発生せず、コップに手を伸ばすといった「意図的な行動 (purposive action)」14 をしようとする際にのみ、目標に近づくにつれて激しくなる制御不能な「振動 (oscillation)」として現れる 13。
ウィーナーの分析プロセスは、機械と生物を貫くアナロジーの発見であった。
- 対空射撃砲は、目標(敵機)を追跡するサーボメカニズムである 9。
- この種のサーボメカニズムにおいて、フィードバックが過剰(ゲインが高すぎる)であったり、情報伝達に遅延があったりすると、砲は目標位置を行き過ぎ、それを修正するために逆方向に動き、再び行き過ぎる…という動作を繰り返し、「ハンチング (Hunting)」(=発振)と呼ばれる制御不能な振動を起こす 11。
- 一方、「目的振戦」の患者は、目標(コップ)に対して手を伸ばす際に、まさにこの「発振」15 を示す。
- ウィーナーは、この二つの「発振」—機械のハンチングと人間の振戦—を、単に似ている現象としてではなく、数学的に同一の現象として捉えた。
この洞察により、「目的振戦」は、意志や精神の病理といった形而上学的な問題ではなく、人間の神経系というサーボメカニズムにおける「フィードバックの異常(過剰なゲインまたは遅延)」という工学的な病として記述されることになった 13。ウィーナーはこれにより、「意図」や「目的」といった概念を、制御システムの工学的な記述対象へと変換することに成功したのである。
B. 情報、エントロピー、そして時間
サイバネティクスのもう一つの柱は、「情報 (Information)」の概念である。ウィーナーは、この概念を物理学、特に統計力学と熱力学の領域と結びつけた。彼は「情報」を、熱力学第二法則における「エントロピー (Entropy)」の逆、すなわち「ネゲントロピー (Negentropy)」として定義した 12。
エントロピーが「無秩序の度合い (degree of disorganization)」17 または「自然の無秩序への傾向 (nature’s tendency toward disorder)」18 を測る尺度であるのに対し、情報は「組織化の度合い (degree of organization)」17 を測る尺度である。
この観点からすれば、生命体や(ウィーナーが構想した)高度な機械を含むサイバネティック・システムとは、宇宙全体のエントロピー増大の法則という不可避な流れの中で、外部と情報を交換し、パターンを維持する 18 ことによって、局所的かつ一時的に秩序を維持する「抵抗の島」のような存在である。
この情報の定義は、同時期に情報理論を確立したクロード・シャノンの定義 20 とは、その哲学的含意において決定的に異なる。
- 通信工学者であったシャノンにとって、情報(エントロピー)は「メッセージの集合における不確実性 (uncertainty)」の尺度であり、選択肢が多い(=不確実性が高い)ほど情報量は多いとされた 21。
- 哲学者であり生物学的関心も持っていたウィーナーにとって、情報(ネゲントロピー)は「秩序 (order)」の尺度であり、秩序が高いほど情報量は多いとされた 21。
シャノン自身は、この両者の定式化の違いを「数学的な駄洒落 (mathematical pun)」21 と呼んで、その差異を重要視しなかった。しかし、この違いは、シャノンの関心が「通信路の容量の最大化」にあったのに対し、ウィーナーの関心は「宇宙における生命と秩序の位置づけ」という、より存在論的な問いにあったことを鋭く反映している。
ウィーナーは、このエントロピー的(=不可逆的)な世界観を、『サイバネティクス』の第1章「ニュートンの時間とベルグソンの時間」2 において鮮やかに対比させた。
- 「ニュートンの時間」:古典力学や天文学に代表される、可逆的で完全に予測可能な「時計仕掛け」の時間 2。
- 「ベルグソンの時間」:熱力学、生物学、あるいは気象学 2 に代表される、不可逆的で統計的な確率過程の時間。
ウィーナーは、時計仕掛けのオートマタや蒸気機関の時代(ニュートン的時間)は終わり、現代は「通信と制御の時代」(ベルグソンの時間)であると宣言した 2。この新しい時代において、生命も機械も、この不可逆的な時間の中で情報を交換し、エントロピーの増大に抗う存在として、サイバネティクスという統一的な視点から理解される道が拓かれたのである 2。
III. 「人間機械論」:神経系と計算機のアナロジー
A. マカロックとピッツの神経モデルの影響
ウィーナーが、「生物における神経系も計算機械も同じ構造をもつ」4 という革命的な確信に至った背景には、1940年代初頭の決定的な知的出会いがあった。それは、神経生理学者のウォーレン・マカロックと、若き論理学者のウォルター・ピッツとの共同研究である 8。
1943年、マカロックとピッツは「神経活動に内在する観念の論理計算 (A Logical Calculus of Ideas Immanent in Nervous Activity)」25 と題する論文を発表した。この論文は、現代のニューラルネットワーク研究の始祖とされる 23。
彼らのモデル(マカロック=ピッツ・ニューロン 25)の核心は、神経細胞(ニューロン)の「全か無か (all-or-none)」2 の発火という生理現象を、数学的論理学における二進法の「0か1」に対応する論理命題として扱うことを可能にした点にある 25。
このマカロックとピッツの業績は、ウィーナーのサイバネティクス構想にとって、まさに失われていた環(ミッシング・リンク)であった。
- ウィーナーは、対空射撃の研究から、「フィードバック」という制御の機能に着目し、機械と生物の目的論的行動のアナロジーを構築していた 2。
- 一方、マカロックとピッツは、その機能を実行する基盤(脳)が、論理機械(計算機)と同一の原理(二進法のスイッチング動作 2)で動作することを示した 25。
- この二つの流れが合流したことで、ウィーナーにとって、脳(生物)と計算機(機械)の間の関係は、単なる「アナロジー(類推)」から、数学的・論理的な「イクイヴァレンス(等価性)」へと高められた。神経系は、比喩ではなく文字通り「計算機」であり 2、その動作は論理学の言語で記述可能となったのである。
B. 「学習する機械」とブラックボックス
ウィーナーの思想は静的なものではなく、そのキャリアを通じて進化し続けた。『サイバネティクス』の初版(1948年)から第2版(1961年)への改訂 2 には、その焦点の明確な移行が見られる。当初の中心であった比較的単純な「線形システム (linear systems)」の研究から、より複雑で現実的な「非線形システム (non-linear systems)」の研究へと関心が移っていった 2。
彼は、内部構造が未知の「ブラックボックス」(例えば、敵の操縦士 9、あるいは経済システム 2)を外部から分析するための新しい手法を提唱した。
その手法とは、従来の分析(例:三角関数を用いる)とは異なり、ブラウン運動のような予測不可能な「ランダムな信号(ノイズ)」2 をブラックボックスの入力として用い、その応答(出力)を統計的に観測するというものである。そして、その観測された入出力関係を模倣するように、内部構造が既知の「ホワイトボックス」(調整可能なモデル)を自動的に調整(自己組織化)させていく 2。
これは、システムの内部構造を直接知ることなく、その挙動を模倣し制御するモデルであり、「学習する機械 (learning machines)」の理論的基礎の一つとなった 2。
この「ブラックボックス」への洗練されたアプローチは、ウィーナーが社会科学(特に経済学)への数学の性急な適用に対して発した警告 2 と表裏一体である。彼は、人間社会のような複雑な非線形システムは、「統計のためのデータ系列が短すぎる」2 ため、単純な線形モデルを適用することが極めて危険であることを、非線形システムの数学者として深く理解していたのである。
IV. 第二の産業革命:自動化社会の光と影
A. 警告の書としての『人間機械論』
ウィーナーは、1948年の主著『サイバネティクス』が専門的・数学的すぎるとの批判 16 を受け、その思想が持つ広範な社会的・倫理的含意を一般読者に向けて説き明かす必要性を感じていた。その結果として著されたのが、『人間機械論 (The Human Use of Human Beings: Cybernetics and Society)』(1950年刊、1954年改訂) である 3。
この著作において、彼はサイバネティクス技術がもたらすであろう社会変革を「第二の産業革命 (The Second Industrial Revolution)」と命名した 2。
B. 「第二の産業革命」の定義
ウィーナーによる「産業革命」の定義は、技術が人間の何を代替するか、という点に基づいている。
- 第一の産業革命:18世紀から19世紀にかけての蒸気機関 2 に象徴される革命であり、人間の「筋肉」、すなわち「肉体労働 (manual labor)」を代替した 2。
- 第二の産業革命:20世紀半ばに始まったサイバネティクスによる革命であり、人間の「脳」、すなわち「知的労働 (intellectual labor)」2、特に「人間の脳による単純な判断や制御」2 を代替する。
ウィーナーは、この知的労働の自動化が、第一の革命と同様か、あるいはそれ以上に「社会経済構造を根底から覆し、計り知れない社会的影響をもたらすだろう」と正確に予測した 2。
C. 楽観と悲観の間の緊張
「第二の産業革命」がもたらす未来像について、ウィーナーの筆致は楽観と悲観の間の鋭い緊張関係をはらんでいる。
- 楽観(The Hope):一方において、ウィーナーは自動化(オートマトン)19 が人類に多大な利益をもたらす可能性を描写する。機械が「反復的な退屈労働 (repetitive drudgery)」27 から人間を解放し、人々が「より創造的な追求 (more creative pursuits)」27、例えば芸術や学問といった精神的な活動 18 に専念することを可能にする。これは「人間の余暇の増大と精神生活の充実 (increasing his leisure and enriching his spiritual life)」19 というユートピア的な展望である。
- 悲観(The Fear):しかし、ウィーナーは即座にこの楽観論に強力な警告を加える。このユートピアは、機械が「人間の利益のために (for the benefit of man)」19 使われる場合にのみ実現される。もし、これらの機械が「単なる利益 (merely for profits)」のため、あるいは「機械そのものへの崇拝 (worship of the machine as a new brazen calf)」18 のために使われるならば、その結果は破滅的なものになる。
彼は、知的労働の自動化が必然的にもたらす脅威として、「大量失業 (mass unemployment)」2 や、情報と制御の手段を握る者への「権力の集中」2 を、半世紀以上前に明確に指摘した 29。現代において、生成AIの急速な普及が引き起こしている「ホワイトカラーの雇用の危機」やデータ独占に関する議論は、まさにウィーナーが2で抱いた「危惧そのもの」が現実化した姿である。
V. 倫理的警鐘(1):『神とゴーレム』と制御不能な創造物
ウィーナーの思想における倫理的側面は、単一の警告ではなく、経済、エージェント(AI)、政治という、関連しつつも異なる三つのレベルで展開された。これらの警告の構造を理解することは、彼の思想の全体像を把握する上で不可欠である。
表1:ウィーナーの三重の警告の構造
| 著作 (Key Work) | 概念的メタファー (Conceptual Metaphor) | 警告の対象 (Object of Warning) | 予見された脅威 (Predicted Threat) | 関連資料 (Sources) |
| 『人間機械論』 (1950/54) | 第二の産業革命 (The Second Industrial Revolution) | 産業 / 経済 (Industry / Economy) | 知的労働の自動化による大量失業。人間の価値が「利益」の論理に置き換えられること。 | [2, 19] |
| 『神とゴーレム』 (1964) | ゴーレム / 魔術師の弟子 (The Golem / The Sorcerer’s Apprentice) | 自律的機械 (Autonomous Agents) | 「意図」を理解せず「命令」を文字通りに実行する機械による破局。(AIアラインメント問題) | [30, 31, 32, 33] |
| 『人間機械論』 (1950年初版) | 統治する機械 (Machine à gouverner) | 国家 / 政治 (The State / Politics) | 安全と安定の名の下、フィードバック(監視)によって社会全体が制御される「新しいファシズム」。 | [5, 34, 35, 36] |
B. ゴーレムの寓話
ウィーナーの晩年の著作であり、彼の倫理的思索の集大成とも言えるのが『神とゴーレム (God & Golem, Inc.)』(1964年) である 29。この著作で、彼はサイバネティクス(人間による機械の創造)が「宗教」37 の領域、すなわち「神」による人間の創造というテーマとどのように交錯するかを論じた。
彼は、自律的に学習し動作する機械 31 の本質的な危険性を説明するために、二つの古典的な寓話を繰り返し用いた。一つはユダヤ教の伝承に登場する「ゴーレム」(Golem) 31 であり、もう一つはゲーテの詩に由来する「魔術師の弟子 (The Sorcerer’s Apprentice)」30 である。
これらの寓話は、現代のAI倫理における核心的問題を驚くほど正確に予見していた。
- 「魔術師の弟子」30 の物語では、弟子は箒に「水を運べ」という命令(コマンド)を与えることには成功するが、「止め方」(停止条件)をプログラムし忘れたために、部屋が大洪水に見舞われる。
- 「ゴーレム」31 の物語では、創造者の命令を忠実に、かつ文字通りに実行するが、その命令の背後にある文脈や人間の暗黙の「意図 (Intent)」を理解しないために、最終的に暴走し、破壊的な結果をもたらす。
- ウィーナーは、これら二つの物語が、単なる神話ではなく、「学習する機械 (machine learning)」31 が持つ本質的な危険性を象徴していると指摘した。
現代のAI倫理における最大の難問は「アラインメント問題(Value Alignment)」、すなわち「AIに、我々が本当に意図する価値観や目標を、いかに正確に埋め込むか」という問題である。ウィーナーの洞察は、AIの脅威が「ターミネーター」のようにAIが人間に敵意を持つこと(マリス)にあるのではなく、「ゴーレム」のようにAIが人間の命令に忠実すぎること(リテラルネス)にある、と喝破した点にある。彼は、70年近く前に、AIアラインメント問題の真の論点を設定した思想家であったと言える 31。
VI. 政治的警鐘(2):「新しいファシズム」と“統治する機械”
A. “Machine à gouverner” (統治する機械)
ウィーナーが発した警告の中で、最も暗く、そして現代において最も見過ごされがちなのが、彼の政治的な警告である 34。彼は、サイバネティクスの「制御」の原理が、個々の機械や生物の神経系だけでなく、人間社会全体(Social Control)にも適用可能である 5 ことを深く懸念していた。
特に『人間機械論』の1950年の初版(後の版ではこの表現は緩和または削除されたと指摘されている 35)において、彼は「”machine à gouverner”(統治する機械)」に依存した、「脅威的なる新しいファシズム (threatening new Fascism)」35 の到来を警告した。
B. 「新しいファシズム」の本質
ウィーナーの言う「新しいファシズム」とは、ナチスや従来のファシズムが掲げたような特定のイデオロギーや軍事力による支配ではない 40。
それは、「戦争」というよりも、むしろ「安全保障 (security)」や「平和 (peace)」の維持 40 を大義名分とする、技術的な全体主義である。このシステムにおいて、社会のフィードバック・ループ 35(法律、規範、メディア、制度)は、強力な情報技術(現代で言えば、ビッグデータ、AIによる監視、ソーシャルメディアのアルゴリズム 36)によって最大効率化される。
その結果、社会の安定と効率化という「目標」のために、「あらゆる異質な声 (every dissonant voice)」40 や逸脱行動は、即座に検出・監視され、フィードバックによって「制御」・「修正」される。このシステムでは、個々人が「マイクロ・ファシスト (micro-fascists)」40 として機能し、相互監視と自己規制を内面化することが求められる。これは、サイバネティクスの「制御」の論理が、政治システム全体に適用された際の、必然的なディストピア的帰結である。
C. 科学者の社会的責任
これらの深刻な予見 2 に基づき、ウィーナーはキャリアを通じて一貫して「科学者の社会的責任 (Ethical responsibility of scientists)」2 を強く訴え続けた。
彼は、科学者が自らの創造物 2 が持つ「善悪両面の可能性」2 から決して目を背けてはならず、社会に対して積極的にその危険性を発信し、警告する「道徳的義務」2 があると主張した。冷戦の最中、彼自身が軍事研究への一切の協力を拒否した 3 のは、この倫理的信条の具体的な実践であった。
VII. サイバネティクスの遺産と結論
A. 思想の継承(メイシー会議とベイトソン)
ウィーナーの思想は、彼やジョン・フォン・ノイマン 41 が主導的な役割を果たした一連の学際的会議「メイシー会議 (Macy Conferences)」41 を通じて、爆発的に広まった。この会議には、文化人類学者のマーガレット・ミードやグレゴリー・ベイトソン 8 といった、社会科学・人文科学のキーパーソンが参加していた。
特にグレゴリー・ベイトソンは、ウィーナーのサイバネティクス 43 を継承し、それをラディカルに発展させた思想家である。ベイトソンは、サイバネティクスを単なる機械や生物個体の理論から、「精神(こころ)」43 や「生態系(Ecology)」44 そのものを理解するための、より高次の「メタ科学 (meta-science)」44 へと昇華させた。
ベイトソンの思想的飛躍は、ウィーナーの理論を次のように拡張した点にある。
- ウィーナーは、「制御と通信」のシステム(フィードバック・ループ)2 が生物の内部(脳)と機械の内部に存在することを同定した。
- ベイトソンは、そのシステムが「個体」の内部に留まるものではないと主張した。彼にとって、「精神 (Mind)」とは、個々の脳に宿るものではなく、「相互作用する部分の集合体 (an aggregate of interacting parts)」46 そのもの、すなわち個体と環境の間で形成されるフィードバック・ループ全体に偏在するサイバネティック・システムであった。
- この観点では、杖を持つ盲人の「精神」は、脳から腕、杖の先端、そして地面の触覚フィードバックまでを含むシステム全体である。
ベイトソンは、ウィーナーの「人間=機械」というアナロジーを、「人間=環境」という生態学的な連続体へと拡張した。これが、彼の主著『精神の生態学 (Steps to an Ecology of Mind)』44 や『精神と自然 (Mind and Nature)』44 で展開された思想である。ベイトソンは、ウィーナーが創始したサイバネティクスこそが、西洋近代思想の根底にあるデカルト的な「主観と客観」「精神と物質」の二元論 45 を根本から覆すための、最も強力な知的ツールであることを見抜いていた。
B. 結論:AI時代におけるウィーナー思想の再評価
ノーバート・ウィーナーの「思想」は、フィードバックやネゲントロピーといった洗練された技術的・数学的理論と、それらがもたらす未来への深刻な倫理的・社会的警告とが、不可分に結びついた予言的な体系である。
彼が提示した三つの警告—「第二の産業革命」(経済的脅威)2、「ゴーレム」(AIアラインメント問題)31、そして「新しいファシズム」(政治的脅威)35—は、発表当時はSF的 34 とも受け取られたかもしれない。しかし、それから70年以上が経過し、強力な人工知能 2 と遍在する情報技術 36 が社会の隅々にまで浸透した現代において、これらのかつての「予言」は、我々が直面する「現実」そのものとなっている。
ウィーナーがその生涯をかけて問い続けた問い—「私たちは、自らが創造した機械を、いかにして『人間の人間的な利用 (The Human Use of Human Beings)』4 のために制御し続けるのか」—は、サイバネティクスの時代からAIの時代へと至った現代文明の、中心的かつ最も困難な課題であり続けている。
引用文献
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- ウィーナー『サイバネティクス』|5分で名著 – note https://note.com/limber_spirea435/n/n7b53de008ede
- The Human Use of Human Beings: Cybernetics and Society – Monoskop https://monoskop.org/images/6/60/Wiener_Norbert_The_Human_Use_of_Human_Beings_1989.pdf
- ノーバート・ウィーナー – みすず書房 https://www.msz.co.jp/book/author/a/13838/
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- 筑波大学名誉教授・精神科医 斎藤環氏に聞く 第4回 文脈把握と不 https://it-hihyou.com/recommended/45048/
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- <研究ノート>G.ベイトソンのエコロジカルな思想 … – 京都大学 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/bitstream/2433/139412/1/edsy10_85.pdf
- Mind and Nature: A Necessary Unity by Gregory Bateson | Goodreads https://www.goodreads.com/book/show/277145.Mind_and_Nature
- Mind and Nature: A Necessary Unity by Gregory Bateson (review) https://muse.jhu.edu/article/530996/pdf
- Gregory Bateson – Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Gregory_Bateson
- 1972.-Gregory-Bateson-Steps-to-an-Ecology-of-Mind.pdf https://ejcj.orfaleacenter.ucsb.edu/wp-content/uploads/2017/06/1972.-Gregory-Bateson-Steps-to-an-Ecology-of-Mind.pdf
- Gregory Bateson – Mind and nature – Monoskop https://monoskop.org/images/c/c3/Bateson_Gregory_Mind_and_Nature.pdf



