
序論:解釈学から系譜学へ—「世界観」と「ディスコース」という二つの知のパラダイム
A. クエリの哲学的布置
「世界観 (Weltanschauung)」と「ディスコース (Discourse)」の「異同( similarities and differences)」を問うという本クエリは、単なる語彙の比較定義をはるかに超え、19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパ思想史における根本的な知的パラダイムの移行、すなわち「近代」から「ポストモダン」への決定的な断絶と連続性を問う、極めて深刻かつ本質的な哲学的問題系を内包している。
この二つの概念は、それぞれが「知」と「真理」と「主体」の在り方を規定する、巨大な認識論的枠組み(エピステーメー)を代表している。本レポートは、この二つの概念を単に辞書的に対比させるのではなく、それぞれが依拠する思想的基盤—ヴィルヘルム・ディルタイの「生の哲学」とミシェル・フーコーの「権力論」—の深層から再構築し、両者の理論的対決を明らかにすることを目的とする。
B. 二つの巨人の位置づけ
ヴィルヘルム・ディルタイ (Wilhelm Dilthey):
ディルタイの「世界観学 (Weltanschauungslehre)」は、19世紀のドイツ解釈学(Hermeneutics)の伝統の集大成である 1。それは、自然科学(Naturwissenschaften)の圧制から「精神科学 (Geisteswissenschaften)」の固有の領域と客観性を防衛し、それを「生 (Leben)」という根源的かつ全体的な概念の上に基礎づけようとする壮大な試みであった 2。彼の「世界観」は、「生」が自らを表現し、理解するための統一的枠組みとして構想された。
ミシェル・フーコー (Michel Foucault):
対照的に、フーコーの「ディスコース」理論は、20世紀のポスト構造主義による、こうした「生」や「主体」といった近代的・人間主義的な前提に対する根本的な批判プロジェクトである。彼の「考古学 (Archaeology)」と「系譜学 (Genealogy)」は、ディルタイ的な「主体」を「知の前提」から「権力=知 (le savoir-pouvoir) の産物」へと転落させ、「真理」そのものがディスコースという権力装置によって歴史的に生産されることを暴露しようとした 4。
C. 共通の地平と根本的分岐
共通の地平 (The “同”):
一見、両者は対極にあるように見えるが、その思想的営為の出発点には驚くべき共通の地平が存在する。それは、両者ともにイマヌエル・カントが確立した「超越論的主観(transcendental subject)」の非歴史性を批判し、その「ア・プリオリ (a priori)」なカテゴリーを歴史化しようと試みた点にある 6。
ディルタイもフーコーも、ある時代の思考を可能にする(カント的な意味での)「ア・プリオリ」な枠組みが、実際には不変のものではなく、歴史的かつ経験的に形成されることを示そうとした。両者は共に、超越的な哲学の試みを拒絶し、実証的な「思想の歴史家」として振る舞ったのである 6。
根本的分岐 (The “異”):
本レポートが提示する核心的論点は、両者の根本的な「異」が、この「歴史的ア・プリオリ」の由来をどこに求めるか、という点にあることである。
- ディルタイは、それを「ディスコース以前 (prediscursive)」8 の、「生」という内的かつ統一的な「生の連関 (Lebenszusammenhang)」6 に求めた。世界観は、この「生」の「表現」である。
- フーコーは、それを「ディスコース的実践の総体 (ensemble of discursive practices)」6 という、外的に主体を構成する、権力に飽和されたマトリクスに求めた。「生」や「主体」すら、このディスコースの「産物」に他ならない。
したがって、ディルタイが「生」の「解釈学」を打ち立てようとしたのに対し、フーコーは「権力」の「系譜学」を実践した。
D. レポートの構成
本レポートは、以下の構成をとる。
- 第1部では、ディルタイの理論を中心に、「世界観」概念をその哲学的・歴史的文脈から精緻に再構築する。
- 第2部では、フーコーの理論を中心に、「ディスコース」概念のラディカルな特質を、「権力/知」および「主体」の生産との関連で解明する。
- 第3部では、両概念の「異同」を、「歴史的ア・プリオリ」「主体性の位置づけ」「権力の機能」「分析方法」といった複数の軸から徹底的に比較分析し、その思想史的対立の核心を明らかにする。
第1部:「生」の統一的表現としての世界観 (Weltanschauung as the Unified Expression of “Life”)
1.1. 概念の定義域:哲学的用法と一般的用法
「世界観」という概念の射程を理解するために、まずその定義域を明確にする必要がある。
一般的・辞書的定義:
「世界観(独: Weltanschauung)」とは、広義には「世界を一体的に意味づける見方」を指す 9。その本質的な特徴は、それが単なる「知的な理解」に留まらない点にある。それは「自然と社会の全体についての原則的な見方であり考え方」10 であると同時に、「より情意的な評価(emotional evaluation)」を含み、「主体的な契機」が重要視される 9。つまり、世界観は知・情・意のすべてを包含する、統一的かつ組織的に把握された思考の全体である 11。
19世紀後半の歴史的文脈:
この用語は、カントによって造語された後、特に19世紀後半のドイツの学術的・文化的言説において広範な流通を見せた 12。この時点での「世界観」概念の重要性は、1897年版の『マイヤー百科事典 (Meyers Konversations-Lexikon)』の定義に明確に示されている 12。
- 広義: 「(人類を含む)全世界の自然と意味について人が抱く見解の総体」。
- 狭義: 「単に人間的な事柄に関する統一的な構想」、すなわち「人間の起源、本質、運命、ならびに歴史的生命の駆動力、一般的方向性、究極的目標に関する見解の一貫した総体」12。
この定義から明らかなように、ディルタイがその理論を完成させる以前から、「世界観」は本質的に「全体論的 (totalizing)」かつ「人間中心主義的 (anthropocentric)」な概念として確立していた。
しかし、この用語の「爆発的な」流行は、同時にその哲学的厳密性の希薄化をもたらした 12。フリッツ・マウトナーらが「世界観の空談 (Weltanschauungsgerede)」12 と揶揄したように、この用語は誰もが「自分の世界観」を持つといった、安易な主観主義や「流行語」に陥る危険性を常にはらんでいた。
ディルタイの「世界観学」が試みたのは、まさにこの点にあった。彼は、一般化・陳腐化しつつあった「世界観」という概念を、単なる「空談」から救い出し、それを「精神科学」の客観的認識の基盤として「学 (wissenschaftlich)」のレベルに高めること(「哲学の哲学」)を目指したのである 12。
現代日本における特殊用法:
なお、本レポートが扱う哲学的「世界観」は、現代の日本(特にポストモダン以降の文芸評論やサブカルチャー)で用いられる「(フィクションの中での)世界の設定」といった用法とは明確に区別されるべきである 13。後者は、ディルタイらが格闘した知・情・意の統一的かつ実存的な全体性とは異なる、より限定的な意味合いで使用されている。
1.2. ディルタイの「世界観学」:生の解釈学
ディルタイの「世界観学」は、彼の最晩年の思想であり、歴史的・哲学的な問いに対する彼の最終的な応答であった 1。
「生の謎」とアンチノミー:
ディルタイの出発点は、哲学史が提示する「アンチノミー(二律背反)」である 14。すなわち、(1) あらゆる哲学的世界観は「普遍妥当性」を要求するが、(2) 歴史的観点から見れば、それらはすべて「相対的な価値」しか持たない、という事実である 14。哲学論争とは、本質的に「世界観の対立」に他ならない 13。
ディルタイは、このアンチノミーを、形而上学のレベルでいずれか一つの「勝利」によって解決しようとするのではなく、それらすべての世界観が発生してくる共通の「根源」に遡ることによって解消しようとする。そして、その根源こそが「生 (Leben)」である。彼は「世界観の究極の根底は生である」(Ⅷ, 78)と断言する 3。
「生 (Leben)」という基盤:
ここでいう「生」とは、生物学的な生命のことではない。それは、「自己と世界を包括する連関の全体性」3 であり、あらゆる知覚や思考に先立つ、直接的に「体験」される「生の事実 (Tatsache des Lebens)」1 である。
世界観は、この「生」の省察から成立する 3。人間は「生殖、誕生、成長、そして死」といった「生の謎」3 に直面したとき、その混乱した課題を「問題と解決の意識的で必然的な連関」へと高めようと試みる 3。この高められた形態こそが「世界観」である。
世界観の構造 (知・情・意の統一):
ディルタイによれば、世界観は「生」が自らを意識化するプロセスであり、それは以下の三つの形式において行われる 12。
- 認識的(Cognitive)形式: 「知」の形態。「私は何を知りうるか?」という問い。
- 価値論的(Axiological)形式: 「生」の価値評価。「私は何を望むべきか?」という問い。
- 実践的(Practical)形式: 意志の行使。「私は何を為すべきか?」という問い。
世界観とは、この知・情・意(カントの三批判書に対応する)が不可分に統合された「意味の体系 (system of meaning)」なのである 12。
類型学と「相対主義」の問題:
ディルタイはこのアンチノミーを解決するため、多様な世界観を、それらを生み出した「生の動的性格の多様性」14 から導き出そうとする。彼は世界観を「(1) 自然主義」「(2) 自由の観念論」「(3) 客観的観念論」の三類型に分類した 15。
彼の論理は、「世界観の諸類型が生の動的性格の持つさまざまな側面の相対的表現であると捉えるならば、そこにあるのは多様性だけであって、矛盾は存在しない」14 というものであった。
しかし、この「解決」は、マックリールやガダマーといった後世の批評家から、まさにディルタイが克服しようとした「相対主義の問題を悪化させている」1 と厳しく批判されることになった。
この批判は、ディルタイのプロジェクトの核心を突いている。ディルタイは、諸世界観が「証明不可能 (unbeweisbar)」であり、それらの「闘争は何の決定にも達していない」12 ことを、誰よりも深く認識していた。彼が目指したのは、諸世界観の「形而上学的な真偽」を判定すること(=第一階層の客観性)ではなかった。そうではなく、それらがいかに「生」という共通の基盤から歴史的に発生してくるかを「理解」すること、すなわち精神科学における「客観的な知識」1 を確立すること(=第二階層の客観性)だったのである。彼のプロジェクトは、真理の判定ではなく、解釈学的理解の客観性だったのである。
1.3. 世界観と主体性:「意味」の生成
ディルタイの枠組みにおいて、主体性(Subjectivity)は、「世界観」の「産物」ではなく、その「起源」として決定的な位置を占める。
主体を「起源」とする構造:
「生」とは、主体によって「体験」される「開かれた動的な構造 (open and dynamic structure)」6 である。世界観は、この「生の連関」が外部へと「表現」されたものである。
歴史的理性のカテゴリー:「意味」の生成:
ディルタイの精神科学は、自然科学とは異なる固有の「カテゴリー」を持つ 8。自然科学にとって「時間」が「理想的な抽象形式」であるのに対し、精神科学にとって時間は「質的な内容」を持つ「体験される時間」である 8。
ディルタイによれば、精神科学の中心的なカテゴリー(意味、価値、目的)は、この「体験される時間」から生成される 8。
- 価値 (Wert): 「瞬間の現在 (momentary present)」において、「感情」を通じて体験される。
- 目的 (Zweck): 「未来」への投射的な態度、「意志」を通じて生じる。
- 意味 (Bedeutung): これこそが中心的なカテゴリーである。「過去と現在の関係」から生じる。「意味」は、現在を単なる「瞬間」から引き上げ、過去の記憶を含む「持続的な現在 (presence that includes the past)」へと拡張する 8。
この分析が示すのは、ディルタイにとって「主体」とは、まさにこの時間的・歴史的な体験構造そのものである、ということである。「世界観」とは、主体が自らの「生」(過去・現在・未来)を、「意味」のある統一的な全体性へと総合するために構築する、巨大な解釈学的枠組みに他ならない。ディルタイにおいては、明確に「主体」が「世界観」に先行し、それを表現するのである。
1.4. 補論:ヴェーバーによる「世界観」概念の変奏
ディルタイの「世界観」概念の射程と限界を理解するために、同時代(あるいは直後)のマックス・ヴェーバーの立場との短い対比が有効である。
ヴェーバーもまた、ディルタイと同様に、社会的・文化的事象における「法則認識」の限界を痛感し、「個性認識」16、すなわち歴史的個体の把握を科学の目標として重視した点で、精神科学の潮流に属している。
「価値自由」という亀裂:
しかし、ヴェーバーは、社会科学の客観性を担保するために「価値自由 (Wertfreiheit)」を要求した。この一点において、彼はディルタイの「世界観」パラダイムに深刻な亀裂を入れることになる。
前述の通り、ディルタイの世界観は「価値論的(Axiological)」な形式(生の価値評価)12 を、その不可分な構成要素としていた。ディルタイにとって、知(認識)と価値(評価)を分離することは、「生」の全体性を解体することを意味し、不可能であった。
これに対しヴェーバーは、世界観の対立を「多神教(Polytheism)」の闘争(ディルタイのいう「闘争」12 と呼応する)として認めつつも、科学的営為(知)は、科学者の個人的な世界観(価値)から厳格に「分離」されねばならない、と主張した。
ヴェーバーによるこの「知」と「価値」の引き剥がしは、ディルタイが目指した「世界観」の統一性を内部から解体するものであった。それは、19世紀的な「生の解釈学」が直面した危機であり、そして皮肉にも、すべての「客観的」な知が、実際には政治的な「価値」選択(=権力)に他ならないとする、フーコー的な「レジーム・オブ・トゥルース」の分析を準備するものであったと言える。
第2部:「権力/知」の生産的マトリクスとしてのディスコース (Discourse as the Productive Matrix of “Power/Knowledge”)
2.1. フーコー的転回:言語学の「談話」を超えて
「ディスコース (Discourse)」もまた、その概念の定義域から確認する必要がある。なぜなら、フーコーが用いる「ディスコース」は、一般的な言語学における「談話」とは根本的に異なるからである。
言語学(談話分析)における「ディスコース」:
言語学において、「ディスコース」または「談話 (Text)」とは、「ことばがコミュニケーションのために使われるときに作る、文脈を持ったまとまりのこと」を指す 17。
談話分析 (Discourse Analysis) は、文を超える単位(書かれた談話、話された談話)を対象とし、その構造や運用を分析する 17。例えば、「照応 (Anaphora)」や「省略 (Ellipsis)」、「主題 (Theme) と叙述 (Rheme)」の情報の流れ、「話し手の交替 (Turn Taking)」といった、テクストの内的結束性やコミュニケーションのメカニズムが研究対象となる 17。
フーコーによるラディカルな切断:
フーコーが用いる「ディスコース」は、このような「コミュニケーションの単位」を意味しない。彼の用法は、よりラディカルな認識論的・政治的含意を持つ。
フーコーのディスコースとは、単なる「特定の話し方、書き方、考え方」18 ではない。それは、「特定の制度的(または複数の制度にまたがる)システム」18 そのものである。
例えば、刑務所についてのディスコースとは、単に看守や裁判官が用いる専門用語のことではない 18。それは、刑務所という制度を確立し、運営し、正当化する、法学・医学・建築学・行政・道徳といった広範な「知」の総体であり、その「知」と不可分に結びついた「権力」の実践そのものを指す 18。
フーコーのディスコースは、権力を「表現する (expressive)」ものではない。それは権力「そのもの (is power)」である 18。ディスコースは、刑務所が確立された「後」に来るのではなく、刑務所を「確立する (establish)」18 のである。
認識論的含意:「生」への直接的攻撃:
この定義が持つ認識論的な破壊力は、計り知れない。フーコーの前提は、ポスト構造主義の言語論的転回、すなわち「言語の外部に思考は存在しない」18 というテーゼに依拠している。
「ディスコースの外側に物理的現実は存在する。しかし、ディスコースこそが、我々がそれにアクセスするために持つ唯一の手段である」19。
このテーゼは、ディルタイの「世界観」理論の根幹(すなわち「生」)に対する、最も直接的な攻撃となる。ディルタイにとって、「生 (Leben)」は「ディスコース以前 (prediscursive)」8 の、言語や認識に先行する根源的な「体験」3 であり、世界観はそれを「表現」する二次的なものであった。
しかしフーコーの観点からは、そのような「ディスコース以前」の純粋な「生」や「体験」なるものは、哲学的なフィクションに過ぎない。我々が「生」や「体験」として認識するもの「すべて」が、すでに「ディスコース」によって媒介され、構成され、生産されたものなのである。
2.2. ディスコースと「権力/知」
ディスコースの核心には、フーコーの独創的な「権力」概念が存在する。
権力の「生産性」:
フーコーは、伝統的な権力観(マルクス主義的な国家や資本家による「抑圧」20、あるいは王権的な「否」の権力)を批判し、近代の権力の「生産性 (productive)」を強調する 5。
近代の権力は、単に「抑圧」したり「禁止」したりするだけではない。それは「現実を生産する。それは対象の領域と真理の儀式を生産する」5 のである。
フーコーにとって権力とは、特定の主体(王や国家)が「所有する」ものではなく、社会の網の目全体に「拡散 (diffuse)」し、「遍在 (everywhere)」し、「あらゆる場所から来る (comes from everywhere)」ダイナミックな力動、あるいは「メタパワー」5 である。
「権力/知 (le savoir-pouvoir)」:
この生産的な権力は、常に「知」と一体である。フーコーは、両者の不可分な関係を「権力/知」という連結語で示した 4。
- 権力は、自らを正当化し、行使するために「知」を利用する 4。
- 権力は、自らの匿名の意図に従って「知」を形成し、「知」を「再生産」する 4。
- 権力と知は、相互に前提しあい、強化しあう「統合された概念 (integrated concept)」4 である。
この観点からは、権力から独立した「絶対的な知」や「客観的な知」は存在しない。あらゆる知は、特定の権力関係の内部でのみ成立する「歴史的に偶発的な (historically contingent)」4 ものとなる。
「真理の体制 (Régimes de vérité)」:
ディスコースとは、この「権力/知」が作動する場であり、その具体的なメカニズムである。ディスコースこそが、ある社会の「真理の体制(レジーム・オブ・トゥルース)」5 を構成する。
「真理の体制」とは、その社会が「真であるとして受け入れ、機能させるディスコースのタイプ」5 であり、以下のものを規定する「一般的政治」である 5。
- 真と偽の言説を「区別」することを可能にするメカニズム。
- それぞれが受ける「認可」の手段。
- 真理の獲得において「価値」を認められる技術と手続き。
- 何が真理として通用するかを語る任務を負う人々の「地位」。
「真理」とは、発見されるものではなく、このような「多様な形態の制約 (multiple forms of constraint)」5 によって「生産」されるものなのである。
2.3. ディスコースと主体性:「主体」の生産
このフーコーの分析がもたらす最も衝撃的な帰結は、「主体性 (Subjectivity)」の扱いにある。
「主体の生産」という大逆転:
ここで、本レポートの中心的な対立軸である「大逆転」が明確になる。
- ディルタイ (Dilthey): 主体(「生」に根差す) → (が)→ 世界観を「表現」する。
- フーコー (Foucault): ディスコース(「権力/知」) → (が)→ 主体を「生産」する。
フーコーの分析において、ディルタイが「解釈学」の揺るぎない「起源」として据えた主体は、その特権的な地位から引きずり降ろされる。「主体性とは、権力/知の産物である」19。フーコーは、「ディスコース的実践の総体の中に主体性を脱中心化 (decentering subjectivity)」6 する。
「規律訓練型権力」と「魂」の誕生:
フーコーが『監獄の誕生 (Discipline and Punish)』で展開した系譜学は、この「主体の生産」の具体的な歴史的プロセスを鮮やかに描き出している 20。
- 旧来の権力(王権): 公開処刑や拷問にみられるように、罪人の「身体 (body)」を直接的に攻撃し、見せしめにする「抑圧的」権力であった 20。
- 近代の権力(規律訓練型): 18世紀以降、監獄、学校、病院、軍隊などで発達した新しい「規律訓練型権力 (disciplinary power)」5 は、もはや「身体」を(主として)攻撃しない。その標的は、受刑者の「魂 (soul)」である 20。
この「魂」こそが、ディルタイがその分析の「出発点」とした「主体」あるいは「内的生」に他ならない。
フーコーの系譜学的主張は、この「魂」や「主体性」が、太古から存在する普遍的なものではなく、まさに18世紀以降の新しい「規律訓練型権力」(医学、精神医学、犯罪学、教育学といった「人間科学」のディスコース)によって、「権力」が行使されるべき新しい「対象領域」5 として「生産」されたものだ、という点にある。
「規律訓練型権力」は、「矯正 (corrective)」19 を目的とし、権力のイデオロギーに沿った「主体性」を「再定義し、服従させる」19 ことを目指す。
パノプティコン(一望監視)と主体の内面化:
この新しい権力のメカニズムを象徴するのが、ベンサムの「パノプティコン(一望監視施設)」のモデルである 19。
パノプティコンでは、監視者は(潜在的に)すべてを見ることができるが、被監視者からは見えない 19。この「永続的な視線の(潜在的)存在」19 は、被監視者に「監視」そのものを「内面化」させる。
被監視者は、物理的な壁によってではなく、「いついかなる瞬間も監視されているという感覚 (sensation)」20 によって、自ら「規律」に従うようになる。彼らは「自らを規律する (discipline themselves)」5 のである。
この「内面化された視線」こそが、フーコーのいう「近代的主体(=魂)」の正体である。ディルタイが「生」の「表現」の純粋な起源とみなした「内面性」は、フーコーによれば、権力による「監視」が内面化した「産物」に過ぎなかった。
抵抗 (Resistance):
ただし、この権力のプロセスは一方的かつ決定論的なものではない。フーコーにとって、権力が存在する場所には、必ず「抵抗 (Resistance)」もまた存在する 19。権力が均質性 (homogeneity) を求めるのに対し、抵抗は「異質性 (heterogeneity)」によって権力の権威を脅かす 19。ディスコースは権力の道具であると同時に、権力に対する「抵抗の形態」としても機能するのである 19。
第3部:比較分析 (異同)—歴史、主体、権力
第1部と第2部の詳細な再構築に基づき、ここに「世界観」と「ディスコース」の「異同」を、複数の分析軸から明確化する。
3.1. 類似点 (同): カント的「ア・プリオリ」の歴史化
両者の最も深層にある、そしてしばしば見過ごされがちな「類似点(同)」は、序論で触れた通り、両者ともにカントの超越論的プロジェクトを「歴史化」しようとした点にある 6。
カントは、我々の認識を可能にする「カテゴリー」(時間、空間、因果律など)を、人間の理性に普遍的・超越論的に備わった「ア・プリオリ(生得的)」な形式として提示した。
ディルタイの歴史化:
ディルタイは、このカント的な問い(いかにして認識は可能か)を「精神科学」の領域で引き受けた。しかし彼は、カントの「ア・プリオリ」が非歴史的であると批判し、それに代わる「歴史的理性」のカテゴリーを打ち立てようとした 2。
第1.3節で見たように、彼の「実在的カテゴリー (real categories)」8 である「意味」「価値」「目的」8 は、超越的な理性に由来するのではなく、「質的な時間」8 という「体験」から導出される、「歴史的」かつ「経験的」な「ア・プリオリ」であった。
フーコーの歴史化:
フーコーもまた、同様にカント的な「ア・プリオリ」を歴史化する 6。彼の「考古学」が分析する「エピステーメー (episteme)」とは、まさにある時代において何が「知」として思考可能であり、言説可能であるかを無意識的に決定する「歴史的ア・プリオリ」に他ならない。
反形而上学的な歴史家:
このように、ディルタイもフーコーも、「人間本性 (human nature)」や「超越的理性」といった形而上学的な前提を拒否し、「知」のあり方を「歴史」の内部で捉えようとした「思想の歴史家」であった 6。両者の「相違点(異)」は、「歴史化する」というプロジェクトの是非にあるのではなく、その「歴史的ア・プリオリ」の「構成要素」と「由来」をめぐる根本的な見解の相違にある。
3.2. 相違点 (異) 1: 主体の位置づけ(内的起源 vs. 外的産物)
ディルタイ (内的起源):
世界観の「根底」には「生」3 があり、その「体験」2 の中心には「主体」が位置する。主体は「意味」の「起源」である。「生の連関」は「開かれた動的な構造」6 として主体の「内部」に存在し、それが「世界観」として「外部」へ「表現」される。ディルタイの哲学は、その批判者(フーコー)が指摘するように、本質的に「人間学 (anthropology)」6 であった。
フーコー (外的産物):
ディスコースの分析において、「主体」は「起源」ではなく「結果」である。主体は「権力/知」19 によって「生産」され、「ディスコース的実践」6 によって「脱中心化」される。フーコーの哲学は、まさにディルタイ的な「人間学」を、「近代」の「歴史的ア・プリオリ」によって生み出された偶発的な「知」の形態として系譜学的に暴き、「克服」することを目指す「反=人間学 (anti-anthropology)」6 である。
3.3. 相違点 (異) 2: 中核的機能(「意味」の付与 vs. 「真理」の生産)
ディルタイ (「意味」の付与):
世界観の中核的機能は、「価値論的 (axiological)」かつ「目的論的 (teleological)」である 12。それは、主体が自らの「生」の「謎」3 に直面したとき、「私は何を知り、何を望み、何を為すべきか?」12 という問いに答え、それによって「生」に「意味 (Meaning)」「価値 (Value)」「目的 (Purpose)」8 を与えるための、統一的な「意味の体系」である。それは「意味ある」一貫性への希求である。
フーコー (「真理」の生産):
ディスコースの中核的機能は、「政治的 (political)」かつ「手続き的 (procedural)」である。それは「真理の体制」5 として、「意味」ではなく「真理 (Truth)」を生産する。それは「何が有意味か?」とは問わず、「何が『真』として認可され、何が『偽』として排除されるか?」5 という「手続き」を管理する。それは「手続き的な」管理(コントロール)への意志である。
この対立は、「哲学(Philosophy)」と「批判理論 (Critical Theory)」4 の対立と言い換えることができる。ディルタイにとって、ある世界観が他の世界観と「矛盾」14 し、「証明不可能」12 であっても、それは「生」の「真正な (authentic)」表現でありえた。しかしフーコーにとって、ディスコースは「真正」ではありえず、常に「権力」の「道具 (instrument)」5 である。
3.4. 相違点 (異) 3: 分析方法(解釈学 vs. 系譜学)
ディルタイ (解釈学):
ディルタイの方法は「解釈学 (Hermeneutics)」1 である。その目的は「理解 (Verstehen)」である。この方法は、分析対象(テクスト、世界観)の「表層」の下に、それを生み出した「作者」や「時代」の「内面的な生」という「深層」が存在することを前提とする。解釈学は、その「深層」にある統一的な「生の連関」を「客観的に」1 再構成(追体験)しようと試みる。
フーコー (系譜学・考古学):
フーコーの方法は「系譜学 (Genealogy)」20 および「考古学 (Archaeology)」6 である。その目的は「権力関係の分析」である。この方法は、意図的に「表層」に留まる。ディスコース分析は、テクストの背後にある「作者の意図」や「時代の精神(生)」といった「深層」を探求しない。それは、そのような「深層」こそが「主体」という近代的フィクションであるとみなし、言説(ステートメント)がどのように配置され、どのような「権力」の「戦術」19 として機能し、どのような「規則」に従って「真理」を生産しているかを、即物的に記述・分析する。
3.5. 相違点 (異) 4: 射程(全体論的な「視点」 vs. 遍在的な「ネットワーク」)
ディルタイ (全体論的な「視点」):
世界観は、その定義からして「全体論的 (Totalizing)」である。それは「世界全体 (the whole world)」9 についての「統一的・組織的な」11 見方である。それは、ある一つの「主観的」な中心(「生」)から発せられる、同心円的な「視点(View)」としての全体性である。
フーコー (遍在的な「ネットワーク」):
フーコーの分析手法は、しばしば「局所的 (local)」である(監獄、臨床医学、性など)18。しかし、彼が分析する「権力」と「ディスコース」は、「遍在的 (pervasive)」であり、「あらゆる場所に (everywhere)」存在する 5。ここにも「全体性」があるが、それはディルタイ的な「中心」を持つ「視点」としての全体性ではない。それは、「メタパワー」5 と呼ばれるような、中心も主権者も持たない、局所的な戦術が相互に連結しあう「ネットワーク」としての全体性(=管理)である。
表1:世界観(ディルタイ)とディスコース(フーコー)の比較分析
これまでの詳細な分析を、以下の比較表に集約する。
| 比較項目 (Comparative Axis) | 世界観 (Weltanschauung) (ディルタイ) | ディスコース (Discourse) (フーコー) |
| 主要思想家 | ヴィルヘルム・ディルタイ (Wilhelm Dilthey) | ミシェル・フーコー (Michel Foucault) |
| 中心的基盤 | 「生 (Leben)」 3 (体験される統一的な生の連関) | 「権力/知 (Power/Knowledge)」 4 (生産的な権力と知の複合体) |
| 主体との関係 | 主体が世界観を**「表現」**する 6 (主体は「起源」であり「中心」) | ディスコースが主体を**「生産」**する 19 (主体は「産物」であり「脱中心化」される) |
| 機能 | **「意味」「価値」「目的」**の付与 [8, 12] (価値論的・目的論的) | **「真理の体制」**の生産 5 (政治的・手続き的) |
| 権力の役割 | 副次的・闘争的 12 (世界観同士が「闘争」する) | 構成的・生産的 [5, 19] (権力が「現実」と「主体」を生産する) |
| 分析方法 | 解釈学 (Hermeneutics) 1 (「深層」の「理解 (Verstehen)」) | 系譜学・考古学 (Genealogy / Archaeology) [6, 20] (「表層」の「権力分析」) |
| 射程 | 全体論的・統一的な「視点」 [9, 11] (中心を持つ同心円的全体) | 遍在的・ネットワーク的な「管理」 5 (中心を持たない網状的全体) |
| 「知」へのスタンス | 相対的だが、「生」から**「理解可能」** 14 (精神科学の客観性を希求) | 常に**「歴史的に偶発的」**かつ政治的 4 (「客観性」自体が権力の効果) |
結論:思想史的意義と現代的射程
A. 二つのプロジェクトの総括
本レポートは、「世界観」と「ディスコース」という二大概念の「異同」を、ディルタイとフーコーの思想的対決として分析してきた。
**「世界観 (Weltanschauung)」**は、19世紀の歴史主義がもたらした「相対主義」14 の荒波の中で、いかにして「主体」の「意味」ある「生」を救出するか、という「解釈学(Hermeneutic)」の壮大なプロジェクトであった。それは、「人間」を「知」の揺るぎない中心に据え、その「内面性」から「歴史」を「理解」しようとする、近代ヒューマニズムの頂点であり、その最後の砦でもあった。
**「ディスコース (Discourse)」**は、その「人間」や「主体」や「内面性」といった「砦」そのものが、実は「権力」によって構築された「監獄(パノプティコン)」19 に他ならなかったことを暴露する、20世紀の「批判(Critical)」プロジェクトである。それは、「意味」を「権力の効果」として deconstruct(脱構築)し、「知」の「客観性」の仮面を剥ぎ、その背後にある「政治」を摘発する「系譜学(Genealogy)」である。
B. 現代的射程:「アイデンティティ」という名の戦場
この19世紀と20世紀の思想的対立は、単なる過去の学説史に留まらない。それは、「アイデンティティ (Identity)」をめぐる現代の我々の自己認識において、現在進行形の「緊張」として存在し続けている 21。
ディルタイ的な「アイデンティティ体験」:
我々は、自らの「アイデンティティ」を、ディルタイ的な「世界観」として「体験」している。我々は、自らの「自己の価値観や信念、文化的背景」21 が「内側」から湧き上がる「真正な」自己表現であると信じ、その「人生の方向性や目標」21 に「意味」を見出そうとする。我々は皆、「世界観」を持つ「ディルタイ的主体」として生きている。
フーコー的な「アイデンティティ分析」:
しかし同時に、我々は(特に社会科学や批判理論の洗礼を受けた我々は)、「アイデンティティ」がフーコー的な「ディスコース」によって「構築」されることを「分析」的に知っている。「社会的アイデンティティ理論」が示すように、個人が「所属するグループやコミュニティ(=制度)」が自己認識に影響を与え、人は「集団の特性や価値観を取り入れる」ことでアイデンティティを「形成」する 21。
さらに、「デジタル社会」や「ソーシャルメディア」21、「マスメディアが社会の力関係から受ける影響」22 といった、まさに「権力/知」の「ディスコース」が、我々の「自己表現」21 を日々「生産」し、「監視」し、「規律訓練」していることを、我々は痛感している。
C. 最終的洞察
「世界観」と「ディスコース」の「異同」とは、単に解決済みの思想史的マターなのではない。それは、現代の主観性(Subjectivity)が引き裂かれている、まさにその「断層」そのものである。
我々は、「私には固有の『世界観』がある」と感じる「ディルタイ的主体」であると同時に、「私の『アイデンティティ』は『ディスコース』によって構築されている」と分析する「フーコー的主体」でもある。
この二つの概念の「異同」を徹底的に分析することは、したがって、この近代的自己意識の「アンチノミー」14 の中で我々が自らを位置づけ直し、現代という「主体の危機」をナビゲートするために不可欠な、最も強力な哲学的ツールキットを提供することに他ならない。
引用文献
- ディルタイにおける世界観学と解釈学の関係について ガダマー解釈 … https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/2001086/files/nagpj_2021_163.pdf
- 世界観と歴史理論 – 法政大学出版局 | https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-12104-3.html
- ディルタイの世界観学と解釈学について – 金城学院大学リポジトリ https://kinjo.repo.nii.ac.jp/record/1116/files/10_Haruka%20TSUJI.pdf
- Power-knowledge – Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Power-knowledge
- Foucault: power is everywhere – Powercube home template https://www.powercube.net/other-forms-of-power/foucault-power-is-everywhere/
- N. 14/2014 (I) https://www.losguardo.net/wp-content/uploads/2017/01/LoSguardo-Abstract-n14.pdf
- Michel Foucault and the world of discourse https://ueaeprints.uea.ac.uk/77443/1/Accepted_Manuscript.pdf
- Wilhelm Dilthey (Stanford Encyclopedia of Philosophy) https://plato.stanford.edu/entries/dilthey/
- 11月 5, 2025にアクセス、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3#:~:text=%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3%EF%BC%88%E3%81%9B%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%8B%E3%82%93,%E3%81%8C%E9%87%8D%E8%A6%81%E8%A6%96%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
- 11月 5, 2025にアクセス、 https://gssc.dld.nihon-u.ac.jp/e-magazine/032/essey4.html#:~:text=%E3%81%A4%E3%81%BE%E3%82%8A%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3%E3%81%A8%E3%81%AF,%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8A%E8%80%83%E3%81%88%E6%96%B9%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
- 電マガ32号「哲学と世界観について」 https://gssc.dld.nihon-u.ac.jp/e-magazine/032/essey4.html
- Dilthey’s Dream and the Struggle of Worldviews (Chapter 9 … https://www.cambridge.org/core/books/interpreting-dilthey/diltheys-dream-and-the-struggle-of-worldviews/5676DD4AFBF804B1F1FFBD85D89D27DA
- 世界観 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3
- The University of Osaka Institutional Knowledge Archive : OUKA https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/8371/mp_35b_005.pdf
- 世界観の研究(せかいかんのけんきゅう)とは? 意味や使い方 – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6-86662
- M. ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提 – 立命館大学 https://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf
- 談話分析 https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/teach/tsushin/bn/dw_pdfs/tushin29_p14-15.pdf
- In the simplest terms possible, what does Foucault mean by ‘discourse’ – Reddit https://www.reddit.com/r/AskAnthropology/comments/j816hb/in_the_simplest_terms_possible_what_does_foucault/
- On Michel Foucault: Power/Knowledge, Discourse, and … – e-Journal https://ejournal.iainmadura.ac.id/index.php/okara/article/download/9749/3650/
- Can someone explain Foucault’s concept of power-knowledge to me (with examples)? : r/askphilosophy – Reddit https://www.reddit.com/r/askphilosophy/comments/arpgzt/can_someone_explain_foucaults_concept_of/
- アイデンティティの正しい理解と意義 – 顧問のチカラ|KENJINS[ケンジンズ] https://kenjins.jp/magazine/president/54137/
- メディアディスコース分析論-2009 | Course – 名大の授業 https://ocw.nagoya-u.jp/courses/0075-%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%88%86%E6%9E%90%E8%AB%96-2009/



