今昔物語集

『今昔物語集』の世界:日本最大の説話集に関する総合的研究

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第I部 巨大なコレクションの創生

本報告書は、日本文学史上最大級の説話集である『今昔物語集』について、その成立背景、構造、文学的特徴、社会的・文化的価値、そして後世への影響を包括的に分析するものである。

1.1 平安時代末期における『今昔物語集』の位置づけ

『今昔物語集』の成立は、平安時代後期、具体的には保安年間(1120年)から1140年代にかけての院政期と推定されている 1。この時代は、藤原摂関家の権勢が陰りを見せ、上皇が政務を執る「院政」という新たな政治形態が確立し、地方では武士階級が台頭するなど、社会が大きく変動した過渡期であった 2。このような社会の流動性とそれに伴う人々の不安は、本作に収められた説話の内容を理解する上で極めて重要な背景となる 4

この時期の精神世界を支配していたのが、仏教の終末論的史観である「末法思想」である 1。釈迦の入滅後、時代が下るにつれて仏法が衰退し、やがて救いのない暗黒時代が到来するというこの思想は、人々の間に深い不安を植え付け、浄土信仰への傾倒を促した 1。『今昔物語集』が仏教説話、特に因果応報譚を数多く収録しているのは、この末法思想を背景に、仏法の教えや霊験譚を収集・保存し、混沌としつつあると認識された時代に対する精神的な防塁を築こうとする意図の表れと解釈できる 4

1.2 編纂の謎:作者と目的

『今昔物語集』をめぐる最大の謎の一つは、その編者が誰であるか全く不明であるという点である 3。古くから宇治大納言と称された源隆国や、鳥羽僧正覚猷といった人物が編者として推測されてきたが、いずれも決定的な証拠はなく、今日に至るまで定説は存在しない 7

しかし、現代の学術的研究においては、仏教界に属する僧侶たちによって編纂されたという見方が有力なコンセンサスとなっている 4。その根拠として、以下の点が挙げられる。第一に、収録された1040話のうち663話が仏教説話で占められているという圧倒的な内容の偏りである 8。第二に、物語の多くが教訓的であり、僧侶が民衆に向けて法を説く際の「ネタ本」として編まれた可能性が指摘されていることである 4。そして第三に、漢字片仮名交じりの文体や、助詞などを小さく書き添える宣命書(せんみょうがき)という表記法が、当時の僧侶たちが講義を筆記したり経典を読解したりする際に用いた形式と一致することである 4

さらに、本作が一個人の著作ではなく、大規模な寺院などの組織内で複数の人間が関与した共同事業であった可能性も考えられる 4。全31巻のうち巻八、巻十八、巻二十一が欠巻となっていることや 8、本文が欠けている説話が39話存在することから 8、『今昔物語集』は最終的に完成を見ることなく、また当時は広く流布することもなかった未定稿の集成であったという説も有力である。

1.3 構造的設計:形式上の特徴

『今昔物語集』は、その巨大な規模にもかかわらず、極めて整然とした形式的特徴を持っている。

第一に、収録された1000以上の説話が、例外なく「今ハ昔(いまはむかし)」という句で始まり、「トナム語リ傳へタルトヤ」という句で結ばれるという厳格な枠物語形式を採用している点である 10。この定型句の反復は、個人の創作ではなく、古くから語り継がれてきた伝統を忠実に伝達しているのだという、語り手の権威ある立場を確立する効果を持つ。

第二に、「二話一類様式」と呼ばれる構成原理が挙げられる 10。これは、類似した主題を持つ説話を二つ(時には三つ)一組として配列する手法であり、特定のテーマや教訓を比較対照させながら読者に提示することで、その教訓的効果を増幅させることを意図している。例えば、法華経の功徳に関する説話が二つ続けて語られることで、その霊験の確かさがより強く印象付けられる。

そして第三に、その圧倒的な規模である。全31巻、1000話を超える説話を収める本書は、現存する日本の説話文学作品としては最大のものであり、その網羅性と体系性において他に類を見ない 1

このコレクションの構造は、単なる整理術以上の意味を持っている。天竺(インド)から始まり、震旦(中国)を経て、本朝(日本)に至るという構成は、仏教伝来の道筋を地理的・歴史的に再現するものであり、意図的に構築された世界観の表明である 1。この壮大な物語配置は、仏教という普遍的な文明・宗教体系の正統な継承者として、その東端に位置する日本を位置づけるという、文化的な自己規定の行為に他ならない。また、編者の匿名性と定型的な語り口は、個人の創造性を意図的に消去し、物語を個人の作品から「伝承」そのものへと昇華させる。語り手が誰であるかよりも、何が語り継がれてきたかという内容の権威性を際立たせるための、高度な修辞的戦略と見なすことができるのである 7

第II部 三つの世界:天竺、震旦、本朝

『今昔物語集』の壮大な構造は、天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)という三部構成によって特徴づけられる。この地理的区分は、各部の内容と目的に深く関わっている。

2.1 信仰の源流:天竺部(巻第一〜第五)

天竺部は、仏教発祥の地インドを舞台とする説話群で構成される 13。巻頭には、教主釈迦の誕生から成道、説法、入滅に至るまでの生涯が体系的に語られ、仏教信仰の根幹が示される 15。続いて、釈迦の弟子や帰依した王侯、さらには釈迦の前世の物語であるジャータカ(本生譚)や、インドの仏教経典に由来する様々な説話が収められている 15

天竺部の目的は、物語集全体の基盤となる仏教の正統な教義と権威を確立することにある。ここに語られる因果応報や慈悲といった仏教の基本理念が、続く震旦・本朝部の説話を解釈する上での規範となる。また、イソップ寓話を彷彿とさせる動物譚が含まれていることは、編者たちがインドの広範な物語伝統にアクセスしていたことを示唆している 14

2.2 文化の伝播:震旦部(巻第六〜第十)

震旦部は、仏教が中国へ伝来し、その文化に根付いていく過程を描く 13。しかし、その内容は仏教説話に留まらない。秦の始皇帝や項羽と劉邦の争いといった中国の正史、孔子や荘子などの諸子百家の逸話など、世俗的な物語も豊富に含まれている 14

注目すべきは、この震旦部において、仏法に関する説話(巻六〜九)と世俗に関する説話(巻十)という区分が初めて導入される点である 16。この「仏法部」と「世俗部」の二分法は、続く本朝部でさらに大規模に展開されることになる。震旦部の役割は、仏教が異文化圏である中国という高度な文明社会に見事に受容されたことを示すと同時に、当時の日本の知識人にとって必須の教養であった中国の歴史や思想に関する膨大な説話群を導入することにあった。

2.3 日本の世界:本朝部(巻第十一〜第三十一)

本朝部は、物語集全体の三分の二以上を占める最大かつ最も独創的な部分であり、中世日本の社会と精神世界を映し出す比類なき資料となっている。

2.3.1 仏法の領域(本朝仏法部、巻第十一〜第二十)

この部分は、日本における仏教の歴史と霊験を詳述する。法華経をはじめとする経典の功徳、著名な寺社の創建にまつわる縁起、高僧が極楽往生を遂げた伝記(往生伝)、そして善悪の行いに応じて現世で報いを受ける因果応報譚などが数多く語られる 6。ここでは、仏教がもはや外来の思想ではなく、日本の風土に深く根ざし、人々の生活の中で生き生きと作用する力として描かれている。

2.3.2 世俗の世界(本朝世俗部、巻第二十一〜第三十一)

本朝世俗部は、本作の中で最も文学的評価が高く、後世に多大な影響を与えた部分である 6。物語の主役は僧侶や貴族から、より広い社会階層へと移る 18

  • 武士:新たに台頭しつつあった武士階級の武勇、名誉、そしてしばしば残酷な生き様が描かれ、彼らの価値観が浮き彫りにされる 5
  • 庶民:農民、商人、職人、そして盗人といった庶民たちの、時にユーモラスで、時に過酷な日常が、彼らのしたたかな生命力や知恵と共に活写される 18
  • 怪異・奇譚:鬼、霊、天狗といった超自然的な存在との遭遇譚や、恋愛、復讐、犯罪にまつわる物語が豊富に収められており、芥川龍之介の『羅生門』や『鼻』の原作となった説話もこの部分に含まれる 11

天竺から本朝へと物語が展開するにつれて、単なる舞台の移動以上の、質的な変化が見られる。天竺部の物語が普遍的・教義的であるのに対し、震旦部では歴史や国家統治の側面が加わり、そして本朝部に至ると、物語は日本の具体的な地名や社会に根ざした、極めてローカルで生々しい現実味を帯びてくる。この変化は、仏教という普遍的宗教が、日本の文化風土の中で受容され、変容していく「日本化」のプロセスそのものを物語っている。

また、膨大な本朝世俗部の存在は、この説話集の世界観にとって不可欠な要素である。仏法部が「人は(仏法の教えに従って)いかに生きるべきか」という理想を提示するのに対し、世俗部は「人は(混沌とした現実世界で)いかに生きているか」という現実を赤裸々に描き出す。この理想と現実の対置は、両者の間に強烈な弁証法的関係を生み出す。世俗の物語が描き出す無秩序や非情さが、仏法による救済の必要性を逆説的に際立たせるのである。したがって、『今昔物語集』は単なる仏教説話集ではなく、宗教的理想と世俗的現実の相克を通して人間存在の全体像を捉えようとした、壮大な試みであったと言える。

第III部 物語の言語:文学的革命

『今昔物語集』は、その内容のみならず、用いられている言語においても日本文学史上の画期をなす作品である。

3.1 和漢混淆文の確立

本作は、日本語の文体史において、「和漢混淆文(わかんこんこうぶん)」の最初期の本格的な実例として極めて重要である 25。和漢混淆文とは、伝統的な日本語の文体である「和文」の要素と、漢文訓読から生じた「漢文訓読体」の要素を融合させた文体を指す 27

具体的には、名詞や概念語に漢語を多用しつつ、動詞の活用や助詞・助動詞は日本語の文法体系に従うという特徴を持つ。これにより、『源氏物語』に代表される優美で情緒的な和文とは対照的に、より簡潔で力強く、ダイナミックな散文表現が可能となった。この新しい文体は、平安後期の複雑化する社会を描写するための、必然的な文学的革新であった。

3.2 コレクション全体に見られる文体の階層性

『今昔物語集』の文体は、全編を通じて均一ではない。むしろ、各部の内容に応じて文体が使い分けられており、明確な階層性が認められる 28

  • 天竺部・震旦部:これらの部分は、漢文の原典を日本語として読み下す際の文体である「漢文訓読体」に極めて近い、硬質で格調高い文体で書かれている。漢語の語彙や構文が多用され、原典である漢籍の雰囲気を色濃く残している 28
  • 本朝仏法部:この部分は、漢文訓読体の格調と和文の柔らかさを併せ持つ、中間的な文体で記述される 28
  • 本朝世俗部:この部分の文体は最も躍動的で、口語的要素を多く含んでいる。文章のテンポは速く、俗語も交えられ、当時の話し言葉に近い生き生きとした表現が多用される 21。この文体が、本朝世俗部の説話に特有のエネルギーと臨場感を与えている。

表記法も特徴的であり、漢字と片仮名を用い、助詞や活用語尾を本文より一回り小さい文字で記す「宣命書(せんみょうがき)」という特殊な書法が採用されている 8。これは天皇の詔勅などに用いられた公的な書式であり、国語史の資料としても極めて貴重である 19

このような文体の階層性は、偶然の産物ではなく、機能的な要請に基づいている。天竺部・震旦部の荘重な文体は、その典拠である経典や史書の権威性を反映している。それに対し、本朝世俗部でより口語に近い和文脈が用いられるのは、その説話の多くが文字資料だけでなく、民間の口承文芸に由来することと無関係ではないだろう 10。編者たちは、物語の出自や内容にふさわしい文体を意識的に選択、あるいは使い分けていたと考えられる。

和漢混淆文の発展は、歴史的な必然であった。宮廷貴族の洗練された世界を描くために発達した和文は、武士の台頭や庶民社会の拡大といった新しい現実を描写するには、語彙や表現力の面で限界があった。和漢混淆文は、この新しい社会のダイナミズムを捉えるために必要な、力強さ、簡潔さ、そして豊富な語彙を提供する文体であった。その意味で、『今昔物語集』は単なる説話の集成であるだけでなく、後の『平家物語』などの軍記物語で全盛期を迎えることになる新しい散文の文体を鍛え上げた、言語史上の実験工房としての役割を果たしたのである 25

第IV部 時代を映す鏡:社会、信仰、人間性

『今昔物語集』は、文学作品であると同時に、それが生み出された時代の社会、文化、信仰を映し出す貴重な歴史資料でもある。

4.1 社会の織物

『源氏物語』や『枕草子』といった宮廷中心の文学が平安時代の主流であったのに対し、『今昔物語集』は、宮廷の外に広がるより広範な社会の姿をパノラマ的に描き出している 18。貴族文学では周縁的な存在であった地方の武士、困窮する農民、機知に富んだ盗人、そして名もなき庶民たちが、ここでは物語の主役として躍動する 5

説話が描き出すのは、旧来の秩序が崩壊しつつあった過渡期の社会の姿である。没落した貴族、中央の権威を脅かす地方武士の勢力、そして京の都で横行する盗賊の物語は、当時の社会不安を如実に反映している 5。特に本朝世俗部は、力ある者が弱い者を食い物にする、中世的な実力主義社会の様相を伝える第一級の史料と言える。

4.2 超自然的存在の浸透

『今昔物語集』の世界では、現実と超自然との境界は極めて曖昧である。鬼、幽霊、物の怪、天狗といった存在は、単なる比喩ではなく、人間社会に直接介入し、影響を及ぼす実体として描かれる 23

これらの怪異譚は、そのほとんどが仏教的な因果律と結びついている。奇跡的な出来事は篤い信仰への褒賞であり、悪霊との遭遇は過去の罪に対する応報として語られる。説話は、抽象的な「業(カルマ)」の教義を、具体的で、時に恐ろしい物語として提示することで、聴衆や読者にとってそれを身近で現実的なものとした。

4.3 テクスト間の対話:『今昔物語集』とその周辺

『今昔物語集』は、同時代の他の説話集と複雑な関係を持っている。特に、鎌倉時代初期に成立した『宇治拾遺物語』や、現存しない『古本説話集』とは、多くの説話を共有しており、中には一言一句違わないほど酷似した話も存在する 10。この事実から、これらの説話集が、現在では散逸してしまった共通の原典、おそらくは源隆国作と伝えられる『宇治大納言物語』から取材したのではないかという仮説が立てられている 9。奇しくも、『宇治大納言物語』の名が歴史的記録から姿を消すのと時を同じくして、『今昔物語集』が文献上に現れるという事実は、この謎を一層深めている 10

『今昔物語集』と『宇治拾遺物語』は、多くの説話を共有しつつも、その編纂方針や文学的性格において明確な差異が見られる。

表 4.3.1: 『今昔物語集』と『宇治拾遺物語』の比較分析

特徴『今昔物語集』『宇治拾遺物語』
成立時期平安後期 (1120年頃)鎌倉初期 (1221年頃)
規模全31巻 (現存28巻)、1000話以上全15巻、197話
構成体系的:天竺・震旦・本朝の三国構成、各部に仏法・世俗の区分あり雑纂的:特定の分類なく説話を収録
文体和漢混淆文主に和文体
表記漢字片仮名交じり、宣命書主に平仮名と漢字
共有説話『宇治拾遺物語』と約81話を共有「こぶとりじいさん」等の有名な昔話を含む
定型句厳格:「今は昔…」で始まり「…とナム語リ伝ヘタルトヤ」で終わる比較的柔軟:「今は昔…」で始まることが多いが、一貫性は低い

この比較から明らかなように、『今昔物語集』が壮大な構想の下に体系的に編纂された百科全書的なコレクションであるのに対し、『宇治拾遺物語』は、その名の通り、興味深い話を拾い集めた、より小規模で雑纂的な性格を持つ作品である 29

『今昔物語集』は、宮廷文学が描く世界とは根本的に異なる日本の姿を提示している。貴族たちが「もののあはれ」という洗練された美意識や恋愛の機微に心を砕いていた一方で、宮廷の外では、人々が生き残りをかけて知恵を絞り、時に暴力をふるい、仏の慈悲にすがるという、より生々しく過酷な現実が存在した。『今昔物語集』は、この宮廷の外に広がっていたもう一つの日本の姿を我々に伝え、平安時代という一時代を複眼的に理解させてくれる、不可欠な文化的遺産なのである 18

第V部 物語の永続的な生命

『今昔物語集』は、成立から数世紀の間、広く読まれることはなかったが、近代に入って再発見され、日本の文学・文化に絶大な影響を与え続けている。

5.1 芥川龍之介との接続:近代的再創造

『今昔物語集』の現代的価値を決定づけたのは、作家・芥川龍之介の存在である。彼はその初期の代表作である「羅生門」「鼻」「芋粥」において、本作の説話を題材として用いた 11

芥川の功績は、単に古い物語を現代語に書き直したことにあるのではない。彼は、原作の簡潔で非情とも言える物語の骨格を借りながら、そこに近代的な心理描写と哲学的な問いを注入し、全く新しい文学作品を創造した。

  • 「羅生門」:原作「羅城門の上層に登りて死人を見る盗人の語」は、盗人が羅城門で死人の髪を抜く老婆に遭遇し、その着物を奪い去るという、簡潔で道徳的判断を差し挟まない客観的な話である 39。芥川は、この主人公を、生きるために盗人になるべきか葛藤する失業した「下人」に設定し直した 30。そして、老婆の「生きるために仕方なく悪事を働く」という論理に直面した下人が、自らもその論理を内面化して老婆から衣を剥ぎ取るという結末を通して、極限状況における人間のエゴイズム、善悪の相対性という普遍的なテーマを鋭く描き出した。
  • 「鼻」:原作「池尾の禅珍内供の鼻の語」は、並外れて長い鼻を持つ高僧をめぐる、やや滑稽な逸話である 12。芥川は、この奇抜な設定を、人間の自尊心と他者の不幸を喜ぶ心理(シャーデンフロイデ)を分析するための実験室として用いた 44。鼻が短くなってかえって笑われるようになった内供の苦悩を通して、芥川は「傍観者の利己主義」という、人間の心の暗部を冷徹に描き出している。
  • 「芋粥」:原作は、身分の低い五位の侍が「芋粥を飽きるほど食べたい」という素朴な夢を、豪放な武士・藤原利仁によって現実離れしたスケールで叶えてもらうという、どこか大らかな物語である 47。芥川は、この物語を、願望の心理学に関する省察へと変貌させた 37。夢見ている間の期待や喜びが、いざその夢が現実となった瞬間に色褪せてしまうという、人間の欲望の本質を鋭く突いた作品となっている。

芥川は、『今昔物語集』の飾り気のない物語群を、単なる物語の素材としてではなく、近代的な自我や心理を探求するための「症例」として捉え、そこに内面性というメスを入れることで、古典に新しい生命を吹き込んだのである 51

5.2 古代の巻物から大衆文化へ

『今昔物語集』の影響は、純文学の世界に留まらない。夢枕獏のベストセラー小説『陰陽師』シリーズは、平安京を舞台に活躍する陰陽師・安倍晴明と貴族・源博雅の物語であるが、その世界観や個々のエピソードの多くは、『今昔物語集』に描かれた怪異譚や人物像に深く依拠している 52。このシリーズの成功は、『今昔物語集』が内包する魔術的で神秘的な世界観が、現代の読者をも魅了する力を持っていることを証明した。

さらに、黒澤明監督の映画『羅生門』(芥川の「羅生門」と「藪の中」を原作とする)をはじめ、漫画、アニメ、演劇など、様々なメディアで『今昔物語集』に由来する物語が繰り返し翻案され、現代の文化に豊潤な物語の源泉を提供し続けている 32

5.3 総括的評価:未完の記念碑

本報告を通じて明らかになったように、『今昔物語集』は、その多面的な価値において、日本文学史上、特異な位置を占める作品である。

それは、力強く簡潔な文体を持つ文学的傑作であると同時に、和漢混淆文という新しい文語体を確立した言語史的遺産でもある。また、貴族から庶民まで、中世日本の社会を広範かつ克明に記録した比類なき歴史資料であり、そして現代に至るまで繰り返し再解釈され続ける文化的アーキタイプの宝庫でもある。

その成立の謎や、おそらくは未完であるというそのあり方は、この作品に特別な魅力を与えている。それは、洗練され尽くした完成品というよりも、一個の民族が語り継いできた物語の巨大な集積地、あるいは鉱脈そのものである。その飾り気のない、直接的で力強い声は、時代を超えて我々に語りかけ、日本文化の深層を照らし出し続けているのである。

引用文献

  1. 今昔物語集 | 書物で見る日本古典文学史 – 国文学研究資料館 https://www.nijl.ac.jp/etenji/bungakushi/contents/detail/detail02-03_009.html
  2. 今昔物語集 | 生徒の広場 – 浜島書店 https://www.hamajima.co.jp/kokugo/aichi_bungaku/koten/29.html
  3. 今昔物語|日本の文学史いちらん|国語の部屋 – BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/bungaku/konzyakumonogatari.htm
  4. 今昔物語:作品解説 – – 日本語 WaiWai https://nihongo.voce.gr.jp/?p=302
  5. 今昔物語集 杉本 苑子(著) – 講談社 – 版元ドットコム https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784062827591
  6. 日本人なら知っておきたい文学作品!平安時代に成立した日本最大の説話集『今昔物語』 https://testea.net/chugaku-juken/konnzyakumonogatari/
  7. 今昔物語集 – 古典文学 – ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=110
  8. 今昔物語集 – ArtWiki https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86
  9. 『今昔物語集』成立の一仮説 – 吉田たかおのよしだッシュブログ https://yoshidash-blog.com/blog-entry-1500.html?sp
  10. 今昔物語集 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86
  11. 京都大学所蔵資料でたどる文学史年表: 今昔物語集 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000125/explanation/konjaku
  12. 『今昔物語集』ってどんな話? 日本最大の説話集は、不思議な話、恋愛話なんでもあり!【5分で古典】 – HugKum https://hugkum.sho.jp/498462
  13. 鑑真和尚従震旦渡朝戒律語第八(今昔物語) – 古典文学 – ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=279
  14. 今昔物語集 天竺・震旦部/池上 洵一 – 岩波書店 https://www.iwanami.co.jp/book/b245766.html
  15. 今昔物語集の説話一覧 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86%E3%81%AE%E8%AA%AC%E8%A9%B1%E4%B8%80%E8%A6%A7
  16. 欠巻 – 今昔物語集 現代語訳 https://hon-yak.net/8-1/
  17. 説話と説話文学 – CORE https://core.ac.uk/download/pdf/286929157.pdf
  18. 今昔物語集 本朝世俗部(上) – 丸善ジュンク堂書店ネットストア https://www.maruzenjunkudo.co.jp/products/9784044006037
  19. 今昔物語集(コンジャクモノガタリシュウ)とは? 意味や使い方 – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86-67264
  20. 今昔物語集の意味 – 古文辞書 – Weblio古語辞典 https://kobun.weblio.jp/content/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86
  21. 今昔物語集 – e-Live https://www.e-live-online.com/member/kobungendaigoyaku/konjaku/
  22. 芥川龍之介と『今昔物語』のこと|Kent Nishihara – note https://note.com/kent248/n/n67ec05bd10af
  23. 『今昔物語集』から平安朝の人々の生き方をさぐる 003 講座詳細 … https://g-sakura-academy.jp/course/detail/2024/C/003/
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  34. 宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり) – 説話百景 https://setsuwa-hyakkei.com/chronology/%E5%AE%87%E6%B2%BB%E6%8B%BE%E9%81%BA%E7%89%A9%E8%AA%9E%EF%BC%88%E3%81%86%E3%81%98%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%82%8A%EF%BC%89
  35. 芥川龍之介、『今昔物語集』を語る https://hon-yak.net/20171221-2/
  36. 羅生門・鼻・芋粥・偸盗/芥川 竜之介 – 岩波書店 https://www.iwanami.co.jp/book/b270628.html
  37. 芋粥 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%8B%E7%B2%A5
  38. を果たした大正四年の『羅生門』、翌五年の『鼻』(漱石の絶賛を得る)以来、大正十一年の『藪の中』・『六の宮の姫 https://kougei.repo.nii.ac.jp/record/1341/files/KJ00002356838.pdf
  39. 羅城門の上層に登りて死人を見る盗人の語・今昔物語集 – プロ家庭教師タカシ むかしの文学 https://uqtakashi.com/%E7%BE%85%E5%9F%8E%E9%96%80%E3%81%AE%E4%B8%8A%E5%B1%A4/
  40. 羅城門の上層に登って死人を見た盗人の話 – 説話百景 https://setsuwa-hyakkei.com/archives/1048
  41. 芥川龍之介「羅生門」はどんなお話?「善と悪」をテーマとした本作のあらすじや作者が伝えたいこと、感想文の書き方までを徹底解説 – HugKum https://hugkum.sho.jp/537553
  42. 校二、三年「古典探究」でその原話を学習し、その上で比べ読みを行う授業実践を提案するものである。 https://fukujo.repo.nii.ac.jp/record/2000913/files/jinbun035002.pdf
  43. 巻二十八第二十話 高僧の長い長い鼻の話(芥川龍之介『鼻』元話) | 今昔物語集 現代語訳 https://hon-yak.net/28-20/
  44. 鼻 (芥川龍之介) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%BB_(%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B)
  45. 二人の内供(ないぐ)―芥川龍之介『鼻』と今昔物語集 – note https://note.com/momoko1726/n/n66c80ac1a1cf
  46. 2年 現代文B 芥川龍之介「鼻」 https://www.pen-kanagawa.ed.jp/yamatominami-h/taraju/tarajyu2021/documents/taraju2021_kokugo-hana.pdf
  47. 『宇治拾遺物語』「利仁暑預粥事(利仁、芋粥の事)」を読む | ものがたりする平安 https://heianmagazine.com/literature/ujisyuuimonogatari-imogayu
  48. 巻二十六第十七話 狐を使者にした話(芥川龍之介『芋粥』元話) | 今昔物語集 現代語訳 https://hon-yak.net/26-17/
  49. 今昔物語集「利仁将軍が五位の侍に芋粥をご馳走する話」を読んで|たらばがに – note https://note.com/tarabagani64/n/n7c9f7900212f
  50. 芥川龍之介 芋粥 – 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/55_14824.html
  51. 本の紹介『羅生門・鼻・芋粥・偸盗』 – 逍遊ゼミナール https://shoyu-seminar.com/archives/4469
  52. 陰陽師シリーズ 9冊セット 夢枕獏 – メルカリ https://jp.mercari.com/item/m54162400240
  53. 第1回 陰陽師ブームは少女小説の平安ブームから? | 『陰陽師』の夢枕獏が語る 38年間愛されつづける 物語のつくり方 – ほぼ日 https://www.1101.com/n/s/baku_yumemakura/2024-07-30.html
  54. 『陰陽師』作家・夢枕獏の“常人離れ”したバイタリティー「この1冊あれば他はいらない」“最終小説”を求めて | 週刊女性PRIME https://www.jprime.jp/articles/-/33438?display=b
  55. 今昔物語集の世界/小峯 和明 – 岩波書店 https://www.iwanami.co.jp/book/b271194.html
  56. 陰陽師 (小説) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E5%B8%AB_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)