
Executive Summary
2025年、日本の人工知能(AI)政策は、慎重な審議から緊急性の高い実行へとパラダイムシフトを遂げた。この変革の中核をなすのが、新たに設置された「人工知能戦略本部」であり、総理大臣の強力なリーダーシップの下、日本のAI国家戦略を策定・実行する法的権限が付与されている。本レポートは、2025年10月時点における日本の国家AI戦略、特に年内に閣議決定を目指す「人工知能基本計画」の骨子を包括的に分析し、その戦略的意図、具体的な施策、そして国際的な文脈における位置づけを詳述するものである。
同計画は、「世界で最もAIを開発・活用しやすい国」を目指すという野心的なビジョンを掲げている。このビジョンを実現するため、「AIを使う(利活用の加速的推進)」「AIを創る(開発力の戦略的強化)」「AIの信頼性を高める(ガバナンスの主導)」「AIと協働する(社会制度の変革)」という4つの戦略的柱が設定された。これらの柱は、政府自身が率先してAIを導入することから始まり、国産基盤モデルの開発支援、国際的なルール形成の主導、そしてAI時代に対応した人材育成と社会システムの変革に至るまで、多岐にわたる施策を網羅している。
本レポートの中心的な論点は、日本の新戦略が、国内に存在する深刻な「野心と導入のギャップ」を克服するためのハイリスクな試みであるという点にある。日本は、イノベーションを最優先する「ライトタッチ」な規制アプローチを採用することで、米国のイノベーション主導モデルとEUの規制主導モデルの中間に、独自のポジションを築こうとしている。この戦略は、国内のAI活用を飛躍的に促進する可能性を秘める一方で、EUのAI法がグローバルスタンダードとなる中で、日本企業が国際的なコンプライアンスの課題に直面するリスクも内包している。本戦略の成否は、中央集権化された新たな司令塔が、日本の伝統的な官僚機構や産業構造の壁を打ち破り、計画に盛り込まれた野心的な目標を迅速かつ効果的に実行できるかどうかにかかっている。
第1章 2025年AI基本計画:世界をリードするための国家目標
2025年は、日本のAI戦略史において画期的な年として記憶されるだろう。生成AIの急速な進化がもたらす地政学的・経済的な衝撃を受け、日本政府はこれまでの漸進的なアプローチを抜本的に見直し、国家の存亡をかけた戦略的課題としてAIに取り組む新体制を構築した。本章では、この新体制の中核をなす「人工知能戦略本部」の設立背景、国家目標として掲げられた壮大なビジョン、そして戦略全体を貫く3つの基本原則について詳細に分析する。
1.1 審議から実行へ:人工知能戦略本部の設立
日本のAI政策は2025年、決定的な転換点を迎えた。それは、専門家主導の諮問機関であった「AI戦略会議」(2023年~2025年)から、法的権限を持つ新たな司令塔「人工知能戦略本部」への移行によって象徴される 1。この新組織は、石破茂総理大臣を本部長とし、国家AI戦略である「人工知能基本計画」を策定し、その実行を強力に推進する権限を持つ 2。この移行の背景には、日本のAI開発・活用が世界的に見て遅れをとっているという深刻な危機感があった 2。
この組織改編は、単なる官僚機構上の変更ではない。それは、AIを各省庁が個別に取り組むべき技術課題ではなく、国家の経済安全保障と成長戦略の中核に据えるという、根本的な意思決定の変化を示すものである。2025年5月に「人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律(AI法)」が成立し、9月1日に全面施行、そしてわずか11日後の9月12日には戦略本部の第1回会合が開催されるという異例のスピード感は、日本政府が直面する課題の緊急性を物語っている 2。
過去のAI戦略が各省庁の縦割り構造の中で十分に機能しなかったという反省が、この中央集権的な司令塔の創設につながった。総理大臣直轄の組織とすることで、省庁間の利害調整を乗り越え、国家として一貫性のある、迅速な意思決定とリソース配分を目指す。生成AIの登場以降、AI開発のスピードとスケールは国家の競争力を直接的に左右する要素となった。このような新たな競争環境において、従来の審議中心のアプローチでは対応できないという認識が、この「実行」を最優先する新体制への移行を促したのである。この戦略本部の設立は、日本のAI政策が議論の段階を終え、国家的な総力戦のフェーズに入ったことを明確に宣言するものと言える。
1.2 ビジョン:「世界で最もAIを開発・活用しやすい国」を目指して
2025年のAI基本計画が掲げる国家目標は、極めて明確かつ野心的である。それは、日本を「世界で最もAIを開発・活用しやすい国」にすることだ 3。このスローガンは、単なる願望の表明ではない。日本のAI活用率と投資額が欧米や中国に比べて著しく低いという厳しい現状認識から生まれた、国家的な「反転攻勢」の狼煙である 4。
このビジョンは、国内外の企業、研究者、投資家に対して、日本の規制環境がイノベーションを阻害するものではなく、むしろそれを促進するものであるという強力なメッセージを発信する意図がある。特に、厳格な規制を先行させる欧州連合(EU)のアプローチとは一線を画す姿勢を明確にすることで、日本をAI開発の新たなハブとして位置づけようとしている 8。政府は、国内のAI導入の遅れを弱点と認める一方で、これを好機と捉えている。日本が保有する質の高いデータや、特定の産業分野における強みを活かすことで、新たなAIイノベーションの「好循環」を生み出せると考えているのだ 2。
しかし、この「AIフレンドリー」というビジョンは、諸刃の剣となる可能性を秘めている。イノベーションを加速させるために規制を緩和するアプローチは、国内のAIエコシステムを活性化させるかもしれない。だがその一方で、国際的な潮流、特にEUのAI法が持つ域外適用性との整合性が問われることになる。EU市場で事業を展開する日本企業は、国内の緩やかなルールとは別に、EUの厳格な基準への準拠を求められる。このため、国内での成功が必ずしもグローバルな競争力に直結しない「コンプライアンス・ギャップ」を生み出すリスクを内包している。したがって、この野心的なビジョンは、日本のAI産業を飛躍させる起爆剤となるか、あるいは国際社会から孤立させる罠となるか、その運用が極めて重要となる。
1.3 指導理念:3つの基本原則の分析
AI基本計画は、その野心的なビジョンを支える土台として、AI法に由来する3つの基本原則を定めている。これらの原則は、技術開発、社会実装、国際協調という多岐にわたる政策領域において、日本が目指すべき方向性を示す羅針盤の役割を果たす。
- 人間中心の原則 (Human-Centricity): AIはあくまで人間を支援するためのツールであり、その開発と利用は人間の尊厳と幸福に貢献するものでなければならない、という理念である 6。最終的な意思決定は人間が行うことを前提とし、AIとの協働を通じて人間が持つ創造性や能力を最大限に発揮できる社会を目指す 4。これは、技術の暴走や非人間的な応用に対する社会的な不安に応え、AI技術の社会受容性を高めるための倫理的な基盤となる。
- アジャイルなガバナンス (Agile Governance): AI技術の進化は非連続的かつ予測困難である。この現実に鑑み、本計画は硬直的な長期計画を排し、柔軟かつ迅速なPDCA(Plan-Do-Check-Act)サイクルを導入する 2。具体的には、基本計画自体を当面は毎年見直す方針が示されており、技術動向や社会の変化に即応できる政策運営を目指す 9。この原則は、従来の日本の政策決定プロセスに対する挑戦でもある。前例踏襲や省庁間の合意形成を重んじる官僚文化の中で、この「アジャイル」な精神をいかに具現化できるかが、新設されたAI戦略本部の真価を問う試金石となるだろう。
- 内外一体の政策展開 (Integrated Domestic/International Policy): 国内政策と国際戦略を不可分一体のものとして捉え、有機的に連携させるアプローチである 2。国内で「AIフレンドリー」な環境を整備すると同時に、「広島AIプロセス」などを通じて国際的なルール形成を主導する 3。これにより、日本の国内基準が国際的な議論に影響を与え、逆に国際的な潮流を国内政策に迅速に反映させることが可能となる。最終的な目標は、日本を単なるAI技術の利用国ではなく、世界中の多様なAIイノベーションが集積し、交流する「結節点(ハブ)」へと昇華させることにある。
これら3つの原則は、イノベーションの促進、倫理・安全性の確保、そして国際的なリーダーシップの発揮という、時に相反しうる目標を両立させようとする日本独自のバランス感覚を反映している。
表1: 日本の2025年人工知能基本計画の概要
| 項目 | 内容 |
| ビジョン | 「世界で最もAIを開発・活用しやすい国」となり、開発、活用、社会変革の好循環を創出する。 |
| 指導原則 | 1. 人間中心: 人間の尊厳と創造性を尊重し、AIとの協働社会を実現する。 2. アジャイルなガバナンス: 技術変化に即応するため、PDCAサイクルを回し、計画を毎年見直す。 3. 内外一体の政策展開: 国内政策と国際戦略を連携させ、日本をグローバルなAIイノベーションのハブとする。 |
| 戦略の柱 | 1. AIを使う (利活用の加速的推進) 2. AIを創る (開発力の戦略的強化) 3. AIの信頼性を高める (ガバナンスの主導) 4. AIと協働する (社会制度の変革) |
| 各柱の主要目標 | 使う: 政府が率先垂範し、重要な社会課題解決分野への全国的な導入を推進する。 創る: 国産基盤モデル、フィジカルAI、AI for Scienceを重点領域とし、国家主権に資する開発力を確保する。 信頼性を高める: 広島AIプロセスを軸に国際ルール形成を主導し、イノベーションとリスク対応を両立させる。 協働する: AIリテラシー教育と「人間力」向上を両輪とし、包摂的な社会・産業構造の変革を実現する。 |
第2章 実行のための4つの柱:戦略的アクションの詳細分析
日本のAI基本計画は、その壮大なビジョンを具体的な行動に落とし込むため、4つの戦略的な柱を立てている。これらの柱は相互に連携し、AIの「利用」から「創造」、そして「信頼性」の確保と「社会」との協働まで、AIエコシステム全体を包括的に強化することを目指す。本章では、それぞれの柱に盛り込まれた具体的な施策を深掘りし、その背景にある戦略的意図と将来的な影響を分析する。
2.1 第1の柱 – 「AIを使う」:全国的な導入の推進
AI基本計画の第一の、そして最も緊急性の高い柱は、AIの利用を社会全体で加速させることである。その基本思想は「まず使ってみる」という文化を醸成することにあり、理論よりも実践を優先する姿勢が鮮明に打ち出されている 6。この背景には、日本のAI活用が諸外国に比べて著しく遅れているという危機感がある。
政府が最初の利用者となる「隗より始めよ」
この戦略の中核をなすのが、「隗より始めよ」の精神に基づく政府自身の率先的なAI活用である 6。具体的には、行政業務の効率化や国民向けサービスの向上を目指す「ガバメントAI」の導入が推進される 3。これを支えるのが、デジタル庁が策定した政府機関統一の「生成AIの調達・利活用ガイドライン」である 8。このガイドラインの画期的な点は、単に調達基準を定めただけでなく、適切なリスク管理を前提に、これまでタブー視されてきた政府の機密情報をAIモデルの学習に利用することを許可したことにある 8。この決定は、汎用的なAIではなく、日本の行政実務に特化した高精度なAIシステムの開発を可能にするものであり、行政効率の飛躍的な向上をもたらす潜在力を秘めている。この取り組みは、単なる内部の効率化に留まらない。政府がAIの巨大な需要家となり、明確な調達基準を示すことで、国内のAI市場を創出し、育成する「需要側からの産業政策」という側面を持つ。政府の厳格なセキュリティ基準を満たし、その保有する質の高いデータで学習したAIを開発できる企業は、国内市場で強力な競争優位性を築くことができる。これは、将来的にグローバル市場で戦える「GovTech(ガブテック)」分野の日本企業を育てるための戦略的な布石と解釈できる。
社会課題解決への重点的導入
政府の取り組みと並行して、国民生活に直結し、かつ人手不足が深刻な分野へのAI導入が重点的に推進される 10。計画では、医療・介護(診断支援AI、介護ロボット)、防災(災害予測、被害状況分析)、農業(自動収穫、病害虫検知)、そして重要インフラの維持管理といった領域が具体的に挙げられている 2。これらの分野では、単なるソフトウェアとしてのAIだけでなく、ロボットなど物理的な実体とAIを組み合わせた「フィジカルAI」や、自律的にタスクをこなす「AIエージェント」の実証・導入が加速される 3。
中小企業への普及支援
日本の産業構造の根幹をなす中小企業へのAI導入支援も、この柱の重要な要素である 2。多くの中小企業が資金、人材、ノウハウの不足からAI導入に踏み出せずにいる現状を踏まえ、政府は補助金制度の拡充や相談窓口の設置などを通じて、導入のハードルを下げるための支援策を強化する 11。これにより、日本経済全体の生産性向上を目指す。
2.2 第2の柱 – 「AIを創る」:国家主権に資する開発力の強化
AIを「使う」だけでなく、自ら「創る」能力を確保することは、技術主権と経済安全保障の観点から極めて重要である。この第二の柱は、日本のAI開発力を戦略的に強化し、海外の特定技術への過度な依存から脱却することを目指す。
国産基盤モデル開発支援「GENIAC」
その象徴的な取り組みが、経済産業省と新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が主導する「GENIAC(Generative AI Accelerator Challenge)」プロジェクトである 12。基盤モデルの開発には、膨大な計算資源(GPU)が必要不可欠だが、その確保はコスト面でも物理面でも大きな障壁となっている。GENIACは、国内の企業や研究機関に対し、この貴重な計算資源へのアクセスを支援することで、国産の大規模言語モデル(LLM)開発を直接的に後押しする 12。これは、米国の巨大テック企業が開発したモデルに匹敵するものを目指すというよりは、日本の文化や商習慣、そして機微なデータに対応できる、信頼性の高い独自のAIエコシステムを構築するための基盤づくりと位置づけられる 6。
日本の強みを活かす非対称戦略:「AI for Science」と「フィジカルAI」
本計画の慧眼は、欧米や中国が圧倒的な資金力で先行する汎用LLMの分野で正面から競争するのではなく、日本の比較優位を活かせる領域に資源を集中させる「非対称戦略」を採用している点にある。
その一つが、文部科学省が強力に推進する**「AI for Science」**である 6。これは、AIを科学研究のプロセスそのものに適用し、創薬、新材料開発、生命科学といった分野で研究開発を加速させる取り組みだ 15。日本が持つ世界トップレベルの基礎研究力と、そこから生み出される質の高い研究データを活用することで、汎用AIとは異なる「科学基盤モデル」を開発し、新たなイノベーションの源泉とすることを目指す 17。
もう一つの柱が、日本の伝統的な強みであるロボット工学とAIを融合させる**「フィジカルAI」**である 6。これは、デジタル空間内での情報処理に留まらず、センサーやアクチュエーターを通じて物理世界と相互作用し、現実空間でタスクを実行するAIを指す 1。製造業の現場や介護、物流、災害対応など、日本が直面する社会課題の多くは物理空間における労働力の不足に起因しており、フィジカルAIはこれらの課題に対する直接的な解決策となりうる。この二つの領域への注力は、単なる技術開発戦略ではなく、日本の産業構造と研究基盤に根差した、長期的な国家生存戦略と評価できる。
データとインフラの整備
これらの開発を支えるため、質の高い日本語データや、多様なモダリティ(テキスト、画像、音声など)に対応した学習用データセットの整備が進められる 3。また、次世代スーパーコンピュータ「富岳NEXT」やAIデータセンターといった計算インフラへの投資も継続される 3。
2.3 第3の柱 – 「AIの信頼性を高める」:ガバナンス・アーキテクチャの構築
イノベーションのアクセルを踏むと同時に、信頼というブレーキを確保することは、AI技術の健全な社会実装に不可欠である。この第三の柱は、イノベーションを阻害することなく、AIがもたらす多様なリスクを管理するためのガバナンス・アーキテクチャを構築することを目指す。
法的基盤とソフトローによるアプローチ
戦略全体の法的根拠となるのが、2025年に施行された「AI法」である 2。しかし、日本のガバナンス・モデルの特徴は、EUのような厳格な事前規制(ハードロー)ではなく、事業者による自主的な取り組みを促す「ソフトロー」を基本としている点にある。その中核をなすのが、総務省と経済産業省が共同で策定した「AI事業者ガイドライン」であり、AI開発・提供・利用の各段階における望ましい行動指針を示している 20。このアプローチは、技術の急速な変化に柔軟に対応し、過剰な規制がイノベーションの芽を摘むことを避ける狙いがある。
国際的なルール形成の主導:「広島AIプロセス」
日本は、この国内のソフトロー・モデルを国際的な舞台に展開し、グローバルなルール形成を主導しようとしている。そのための主要な外交ツールが、G7広島サミットで立ち上げられた「広島AIプロセス」である 6。このプロセスを通じて、日本はAI開発者向けの国際的な行動規範や原則を提唱し、安全で信頼できるAIのための国際的な協調体制の構築を目指している 3。これは、米国の市場主導型アプローチとEUの規制主導型アプローチの間に、日本が「第三の道」を提示しようとする地政学的な戦略と見ることができる。このモデルがアジア諸国など、両極端なアプローチをためらう国々からの支持を得ることができれば、日本は国際的な規範形成において重要な影響力を持つことになるだろう。
安全性評価機関「AIセーフティ・インスティテート(AISI)」
ソフトロー・アプローチを補完するのが、2024年2月に設立された「AIセーフティ・インスティテート(AISI)」である 22。この専門機関は、国内外の先進的なAIモデルの性能や安全性を客観的に評価・検証し、その知見を政策立案やガイドラインの改定に活かす役割を担う 3。また、米英をはじめとする各国の同様の機関との連携を通じて、安全性評価手法の国際的な標準化にも貢献する。
2.4 第4の柱 – 「AIと協働する」:社会全体の変革
最後の柱は、AI革命を技術的な側面だけでなく、人間と社会の側面から捉え、円滑な移行を促すための取り組みである。AIが真に社会に浸透するためには、産業構造、雇用、教育、そして人々の価値観そのものが変革を迫られるという認識に基づいている。
人材育成:AIリテラシーと「人間力」の両輪
本計画は、AI時代を生き抜くための人材育成に並々ならぬ重点を置いている。そのアプローチは二つの側面を持つ。一つは、国民全体のAIリテラシーの底上げである。小学校でのプログラミング教育の必修化から、大学における「数理・データサイエンス・AI教育プログラム」の推進、そして社会人のリスキリング支援に至るまで、あらゆる世代を対象とした包括的な教育体系の構築を目指す 24。政府は、年間数十万人規模でAIスキルを持つ人材を育成するという具体的な数値目標を掲げている 26。
もう一つの側面は、AIには代替できない**「人間力(人間ならではの能力)」**の涵養である 2。計画では、創造性、批判的思考、コミュニケーション能力、共感性といったスキルを磨くことの重要性が明確にうたわれている 2。これは、AIによる自動化が進む中で、人間の役割が単純作業から、より高度で創造的な領域へとシフトすることを見越したものである。AIを使いこなす技術的スキルと、AIにはない人間独自の価値を発揮する能力。この両輪を育てることで、人とAIが真に協働できる社会の実現を目指す。この二元的なアプローチは、技術的失業への社会的不安を和らげ、AIとの共生に向けた前向きなビジョンを提示しようとする、日本独自の社会文化的配慮を反映している。
包摂的な社会・産業構造への変革
AIの導入は、必然的に既存の産業構造や雇用のあり方に大きな変化をもたらす。この変革から誰も取り残されることがないよう、計画はセーフティネットの拡充や、労働移動を円滑化するための制度改革を継続的に進めることを求めている 3。AIの恩恵を社会全体で分かち合い、包摂的な成長を実現することが、この柱の最終的な目標である。
第3章 リソース配分:日本のAI関連予算とインフラ投資の検証
いかなる国家戦略も、その実効性は具体的なリソース配分、すなわち予算とインフラへの投資によって裏付けられる。日本の2025年AI基本計画が単なる絵に描いた餅で終わるのか、それとも国家的な変革を駆動するエンジンとなるのかを判断する上で、資金と物的基盤の分析は不可欠である。本章では、2025年度のAI関連予算の内訳を精査し、日本の戦略的優先順位を明らかにするとともに、AI開発の生命線である計算資源と半導体への投資状況を検証する。
3.1 2025年度AI関連予算の分析:優先順位と配分
2025年度の政府予算案におけるAI関連予算は、総額約1,641億円に達し、前年度から約44%増という大幅な伸びを示している 26。この予算配分は、日本政府がAI戦略に賭ける強い意志の表れであるが、その内訳を詳細に見ると、現在の戦略的優先順位がより鮮明に浮かび上がる。
予算の主要な配分先は以下の通りである 26。
- AIの利用促進: 約601.2億円
- AI開発力の強化: 約568.4億円
- 計算資源の整備・拡充: 約164.8億円
- 高品質データの整備・拡充: 約40.5億円
- リスクへの対応: 約10.6億円
- 国際的なルール形成への貢献: 約3.0億円
この配分から読み取れる最も重要な点は、「使う(利用促進)」と「創る(開発力強化)」という二大柱に予算の約71%(合計約1,169.6億円)が集中していることである。これに対し、「信頼性を高める」に関連する「リスク対応」と「国際ルール形成」の合計は約13.6億円に過ぎない。この約86倍にも達する予算規模の差は、日本政府の現在の哲学が「まず開発し、応用せよ。ガバナンスはその後だ」というものであることを明確に示している。これは、国内のAI導入・開発の遅れを取り戻すという国家的要請が、リスク管理やルール形成といった課題よりも喫緊の優先事項とされていることの具体的な証左である。この資金配分は、第1章で述べた「世界で最もAIを開発・活用しやすい国」を目指すというビジョンを、財政面から強力に裏付けている。
3.2 エンジンの構築:計算資源への投資
現代のAI、特に基盤モデルの開発競争は、計算資源の保有量とアクセス性によって勝敗が決すると言っても過言ではない。日本政府はこの点を戦略的なボトルネックと認識し、計算インフラの強化に多額の投資を行っている。
そのアプローチは、国が主導するフラッグシップ・プロジェクトと、民間活力を引き出す支援策を組み合わせたハイブリッド・モデルを特徴とする。前者の中核となるのが、理化学研究所が運用するスーパーコンピュータ「富岳」の後継機となる「富岳NEXT」の開発である 3。富岳NEXTは、従来の科学技術計算能力に加え、優れたAI処理性能を持つシステムとして設計されており、日本のAI研究開発の新たな中核拠点となることが期待されている。
一方で政府は、産業技術総合研究所(産総研)が運用するAI橋渡しクラウド「ABCI」の継続的な増強や、民間データセンターの整備支援も行っている 22。特に、前述のGENIACプロジェクトは、これらの公的・民間計算資源を、資金力に乏しいスタートアップや大学が利用しやすくするための重要な架け橋となっている 12。この官民連携によるハイブリッド・アプローチは、中国のような国家が計算資源を完全に統制するモデルとは異なり、国家戦略としての方向性を維持しつつも、市場のダイナミズムとイノベーションを最大限に活用しようとするものである。これにより、多様なプレイヤーがAI開発に参加できる、柔軟で強靭な計算基盤エコシステムの構築を目指している。
3.3 半導体という至上命題
AIの性能は、それを駆動する半導体の性能に直接的に依存する。近年の世界的な半導体不足や地政学的緊張は、AI用半導体の国内供給能力を確保することが、単なる産業政策ではなく、国家安全保障そのものであることを浮き彫りにした。
この認識に基づき、AI基本計画はAI半導体および光ネットワークといった関連基盤技術の開発支援を明確に盛り込んでいる 3。これは、より広範な経済安全保障戦略の一環であり、設計から製造、実装に至るまで、AIを支えるハードウェアのサプライチェーンを国内で完結させることを長期的な目標としている 27。これにより、21世紀の最も戦略的な技術であるAIの基盤を、海外の政治的・経済的変動から守り、日本の技術主権を確立することを目指している。
表2: 日本の主要AIイニシアチブと2025年度関連予算
| イニシアチブ/プログラム | 主導省庁/機関 | 主要目的 | 2025年度関連予算額(判明分) |
| GENIACプロジェクト | 経済産業省 / NEDO | 国産基盤モデル開発のための計算資源提供支援 | ポスト5G情報通信システム基盤強化研究開発事業(助成)の一部として実施 12 |
| AI for Science | 文部科学省 / 理化学研究所 / JST | AIを活用した科学研究の加速、科学基盤モデルの開発 | 科学研究向けAI基盤モデル開発(理研):25億円AIPネットワークラボ(JST):75億円その他関連事業多数 18 |
| AIセーフティ・インスティテート(AISI) | 内閣府 / 総務省 / 経済産業省 | AIモデルの安全性評価、リスク調査、国際連携 | AI関連予算「リスクへの対応」約10.6億円の一部 22 |
| 政府データのAI学習への提供 | 内閣府 / デジタル庁 | 政府保有データをAI学習用に整備・提供し、国内開発を支援 | AI関連予算「高品質データの整備・拡充」約40.5億円の一部 26 |
| 数理・DS・AI教育の推進 | 文部科学省 | 全ての大学・高専生がリテラシーレベルの知識を習得 | 私立大学等における数理・データサイエンス・AI教育の充実等、人材育成関連予算約10億円の一部 24 |
| 次世代計算基盤の開発 | 文部科学省 | 「富岳NEXT」など、優れたAI性能を持つ次世代スパコンの開発・整備 | 「富岳」を中核とするHPCIの運営・高度化、次世代計算基盤の開発・整備等 3 |
第4章 批判的評価:野心と導入のギャップと内在する課題
日本の2025年AI基本計画は、その野心的な目標と包括的な施策において高く評価されるべきものである。しかし、戦略の成功は計画の美しさではなく、現実の課題をいかに克服できるかにかかっている。日本が直面する最大の課題は、政府や一部の先進企業が抱く高い「野心」と、社会全体、特に企業部門におけるAI導入の遅れという「現実」との間に存在する深刻なギャップ、すなわち「野心と導入のギャップ」である。本章では、このギャップをデータで定量化し、その根底にある構造的・文化的な障壁、そして戦略の根幹をなす「ライトタッチ」アプローチが内包するジレンマについて批判的に考察する。
4.1 遅れの定量化:日本のAI活用率
日本のAI戦略全体を突き動かす根源的な問題は、統計データに明確に表れている。総務省の2025年7月の発表によると、2024年度に国内で生成AIを利用した経験のある個人の割合は26.7%であった。これは前年度の9.1%から約3倍に増加したものの、米国の68.8%や中国の81.2%といった主要国とは依然として埋めがたい差が存在する 4。
この遅れは企業部門においてより深刻である。PwCの調査によれば、米国企業の92%が生成AIを利用中または利用予定であるのに対し、日本企業は54%に留まっている 22。さらに、AI投資の効果実感という点でも大きな隔たりがある。米国企業では「顧客体験の創出」や「生産性の向上」といった多くの分野で5割以上が投資効果を実感しているのに対し、日本企業で効果を実感しているのは3割以下に過ぎない 22。
これらのデータは、日本のAI戦略が、強者の立場からさらなる高みを目指すものではなく、危機的な状況から脱却するための必死のキャッチアップ戦略であることを示している。計画に盛り込まれた「まず使ってみる」というスローガンや、利用促進に偏重した予算配分は、この憂慮すべき統計に対する直接的な処方箋なのである。
4.2 構造的な障壁:官僚主義、データサイロ、リスク回避文化
「野心と導入のギャップ」は、単なる技術的な問題ではなく、日本の社会経済システムに深く根差した構造的・文化的な課題に起因している。
第一に、伝統的な官僚機構の意思決定の遅さや縦割り行政が、迅速な政策実行の足かせとなる可能性がある 30。AI戦略本部という強力な司令塔の設置は、この課題を克服するための試みであるが、長年にわたって形成された組織文化を変革するには時間を要する。
第二に、データの利活用に関する障壁である。日本は質の高いデータを保有しているとされるが、それらは各企業や組織内に「サイロ化」され、横断的な活用が進んでいない。特に、機密性の高いデータを扱うことへのセキュリティ上の懸念や、プライバシー保護に関する過度な萎縮が、データの価値を最大限に引き出すことを妨げている 22。政府が「政府データのAI学習への提供アクションプラン」を策定したものの、実際のデータ提供に関する相談件数は依然として低水準に留まっている 22。
第三に、日本企業、特に大企業に根強く存在するリスク回避的な文化である。AI導入は、短期的なROI(投資収益率)が不透明な場合が多く、既存の業務プロセスを大きく変更する必要がある。失敗を許容し、試行錯誤を繰り返すことが求められるが、日本の伝統的な経営スタイルはこうした変革と相性が悪い場合がある。政府が補助金やインフラを提供しても、最終的に投資と導入の意思決定を行うのは個々の企業であり、そのマインドセットの変革なくして、真の社会実装は進まない。
4.3 「ライトタッチ」アプローチのジレンマ
この「野心と導入のギャップ」を埋めるための切り札として、日本政府が選択したのが、イノベーションを最優先する「ライトタッチ」な規制アプローチである 6。自主的なガイドラインを基本とし、厳格な法的規制を避けることで、企業が萎縮することなくAIの開発・活用に挑戦できる環境を整えようとしている 20。
しかし、このアプローチは深刻なジレンマを抱えている。国内のイノベーションを促進するために採用した政策が、結果的に日本企業の国際競争力を削ぐ可能性があるからだ。現在、グローバルなAIガバナンスの潮流は、EUが主導するリスクベースの包括的な法規制「AI法」に大きく傾いている。このAI法は域外適用を規定しており、EU市場でAIサービスを提供するすべての企業に遵守義務を課す。
これにより、EUのAI法が事実上のグローバル・スタンダード(デファクト・スタンダード)となる可能性が高い。その場合、日本の「AIフレンドリー」な環境で育った企業も、製品やサービスをEUに輸出するためには、結局のところEUの厳格な基準に準拠せざるを得なくなる。国内の緩やかなルールは、グローバル市場においては意味をなさなくなり、むしろEU基準への対応の遅れが競争上の不利にさえなりかねない。これが「コンプライアンス・トラップ」である。日本のライトタッチ戦略は、国内の「導入ギャップ」を埋める特効薬となるか、それとも国際的な「コンプライアンス・ギャップ」を生み出す劇薬となるか、その岐路に立たされている。
第5章 グローバルAIアリーナ:国家戦略の比較分析
日本の2025年AI戦略は、真空状態で策定されたものではない。それは、AIの覇権をめぐり激しい競争を繰り広げる米、中、欧、英といった主要国・地域の動向を強く意識した、地政学的な文脈の中に位置づけられる。各々が異なる理念、強み、そして目標に基づき、独自の国家戦略を推進している。日本の戦略の独自性と妥当性を評価するためには、このグローバルな競争環境を理解することが不可欠である。本章では、主要プレイヤーのAI戦略を体系的に比較分析し、その中で日本がどのようなニッチを確立しようとしているのかを明らかにする。
5.1 イノベーション第一モデル:米国の「AI行動計画」
2025年7月に発表された米国の「America’s AI Action Plan」は、「スピード」と「競争」を至上命題とする、典型的なイノベーション第一モデルである 31。その戦略は、①AIイノベーションの加速、②AIインフラの構築、③国際外交・安全保障という3つの柱で構成される 31。規制緩和を徹底し、データセンターや半導体工場の建設許認可を迅速化する「Build, Baby, Build!」のスローガンの下、AI開発の障壁を徹底的に取り除くことを目指す 33。さらに、NVIDIA製のGPUからOpenAIの基盤モデル、クラウド基盤までを一体化した米国製AI技術スタックを同盟国に提供することで、技術的な「ゴールドスタンダード」を確立し、中国に対抗する狙いを持つ 34。これは、市場原理と技術的優位性を最大限に活用し、AI時代においても米国の覇権を維持しようとする、明確な国家戦略である。
5.2 規制第一モデル:欧州連合の「AI法」
欧州連合(EU)の戦略は、米国とは対照的に「規制」と「信頼」を基盤とする。その核心は、2024年8月に発効した世界初の包括的なAI規制法「AI法(AI Act)」である 35。この法律は、AIシステムをリスクのレベルに応じて4段階(許容できない、高、限定的、最小)に分類し、リスクに応じた義務を課す「リスクベース・アプローチ」を採用している 36。EUの狙いは、倫理性、透明性、安全性を確保した「信頼できるAI(Trustworthy AI)」という概念を確立し、それをグローバルな規制スタンダードとして輸出することにある 35。規制という「ブレーキ」を整備した上で、2025年10月発表の「Apply AI Strategy」を通じて、巨額の公的・民間投資を呼び込み、域内でのAI活用という「アクセル」を踏む。この「ブレーキを整備してからアクセルを踏む」という慎重かつ戦略的なアプローチは、EUの価値観と経済安全保障を両立させようとするものである 35。
5.3 国家主権能力モデル:英国の「AI機会行動計画」
英国の「AI Opportunities Action Plan」(2025年1月発表)は、国家主権に資するAI能力(Sovereign Capability)の構築に重点を置く 38。データ、計算資源、人材といったAIの基盤を国内で確保し、官民連携を強力に推進する 40。英国の戦略が特徴的なのは、イノベーション促進を掲げつつも、「安全性(Safety)」よりも「安全保障(Security)」のリスクを強く意識している点である。その象徴として、2025年2月、国の「AI Safety Institute」は「AI Security Institute」へと改称された 41。これは、AIの倫理的な課題よりも、サイバー攻撃や化学・生物兵器への悪用といった国家安全保障上の脅威への対策を優先する姿勢の表れである。米国とEUの中間に位置し、プラグマティックに自国の強みと安全保障を追求する戦略と言える。
5.4 国家主導モデル:中国の「新一代人工智能発展計画」
中国のAI戦略は、国家が全ての資源を動員するトップダウン型の国家主導モデルの典型である。「中国製造2025」や「AI+行動」といった国家計画の下、2030年までに世界のAI分野で主導的な地位を確立するという明確な目標を掲げている 43。その強みは、①政府による巨額の資金援助、②世界最大規模の人口がもたらす圧倒的なデータ量、③顔認証やスマートシティで許容される広範なデータ活用環境、そして④民間の最先端技術を軍事応用する「軍民融合」戦略にある 45。バイドゥ(自動運転)、アリババ(スマートシティ)、テンセント(医療画像)といったテックジャイアントを「国家隊」として指定し、各分野での技術開発を牽引させる手法は、国家目標達成のための強力な実行体制を構築している 45。
5.5 日本のニッチの定義:グローバルな影響力を目指すハイブリッド戦略
これらの大国の戦略と比較すると、日本の2025年AI戦略は、いずれかのモデルを単純に模倣するのではなく、各々の要素を戦略的に取り入れた独自の「ハイブリッド戦略」であることがわかる。米国の「イノベーションフレンドリー」な思想を取り入れつつ(ライトタッチ規制)、EUのように国際的な規範形成を主導しようと試み(広島AIプロセス)、英国のように国家主権に資する能力(国産基盤モデル)の確保を目指す。そして、中国のように国家が重点分野(フィジカルAI、AI for Science)を定めて資源を集中投下する側面も持つ。
このハイブリッド・アプローチは、日本の限られたリソースの中で最大限の効果を狙う、現実的かつプラグマティックな選択である。しかし、それは同時に、各モデルが持つ思想的な一貫性を欠き、矛盾を内包するリスクも伴う。例えば、米国のイノベーション至上主義とEUの人間中心の価値観は、本質的に相容れない部分がある。日本がこの複雑で、時に矛盾した戦略を巧みに舵取りし、独自のニッチを確立できるかどうかが、今後の国際社会における日本の影響力を大きく左右することになるだろう。
表3: 世界の国家AI戦略比較マトリクス(2025年時点)
| 国/地域 | 戦略名 | 規制アプローチ | 主要な資金投入先 | 重点戦略産業 | 地政学的目標 |
| 日本 | 人工知能基本計画 | ライトタッチ、ソフトロー | 利用促進 & 開発力強化 | フィジカルAI、AI for Science | AIフレンドリーな国際ハブ化 |
| 米国 | AI行動計画 | イノベーション第一、規制緩和 | インフラ & 研究開発 | 基盤モデル、防衛 | 米国製技術スタックの国際標準化 |
| EU | AI法 / Apply AI Strategy | リスクベース、ハードロー | 投資誘発 & 導入支援 | 医療、製造業、公共サービス | 規制モデル(信頼できるAI)の輸出 |
| 英国 | AI機会行動計画 | 安全保障重視、官民連携 | 国家主権能力(計算資源等) | 公共サービス、研究 | 国家主権能力の確保と安全保障 |
| 中国 | 新一代人工智能発展計画 / AI+行動 | 国家統制、データ活用重視 | 大規模な国家投資 | スマートシティ、自動運転 | 2030年までのグローバルAI覇権確立 |
第6章 戦略的展望と提言
日本の2025年AI基本計画は、国家の未来を左右する壮大な実験である。その成否は、単に技術開発の進展だけでなく、国内の構造的課題の克服と、激動する国際環境への巧みな適応にかかっている。本章では、これまでの分析を総括し、日本が今後たどる可能性のある複数のシナリオを提示するとともに、計画の成功に不可欠な要因を特定し、政策立案者および産業界のステークホルダーに対する具体的な提言を行う。
6.1 将来のシナリオ:日本のAI戦略がたどる軌跡
本計画の実行結果として、主に3つのシナリオが想定される。
- 成功シナリオ:ニッチ・リーダーとしての地位確立
このシナリオでは、「AIフレンドリー」な環境が国内外の投資と人材を惹きつけ、国内の「野心と導入のギャップ」が着実に縮小する。特に、戦略的重点分野である「AI for Science」と「フィジカルAI」において、日本の既存の強みとAIが見事に融合し、世界的に競争力のある独自の技術・サービス群が生まれる。国際的には、「広島AIプロセス」が米欧の対立を緩和する調整役として機能し、日本はグローバルなAIガバナンスにおいて独自の存在感を発揮する。結果として、日本は汎用AIの覇権を握ることはないものの、高付加価値な特定領域における「ニッチ・リーダー」としての地位を確立し、経済成長と技術主権を両立させる。 - 停滞シナリオ:構造的課題の克服失敗
このシナリオでは、政府が巨額の予算を投じ、インフラを整備したにもかかわらず、国内の構造的・文化的障壁が変革を阻む。官僚機構の縦割りや意思決定の遅さがアジャイルな政策運営を妨げ、民間企業のリスク回避的な文化がAIへの本格的な投資と導入を躊躇させる。結果として、「野心と導入のギャップ」は埋まらず、多くの施策が実証実験の段階で終わり、社会実装へと繋がらない。日本はAI技術の消費者(テクノロジー・テイカー)に留まり、生産性の向上も限定的で、国際競争力はさらに低下する。 - コンプライアンス・トラップ・シナリオ:国際標準からの乖離
このシナリオでは、国内のAI導入は一定の成功を収めるが、国際的な規制環境の変化に対応できない。EUの「AI法」が事実上のグローバル・スタンダードとなり、世界中の企業がその基準への準拠を求められる。日本の「ライトタッチ」な国内環境は、グローバル市場でビジネスを行う企業にとってはほとんど意味をなさなくなり、むしろEU基準への対応準備の遅れが足かせとなる。日本企業は、後追いで高コストなコンプライアンス対応に追われ、国内向けに最適化されたAIシステムは海外で通用しない「ガラパゴス」化に陥る。結果として、国内のイノベーション促進策が、国際競争力を損なうという皮肉な結末を迎える。
6.2 「野心と導入のギャップ」を埋めるための成功要因
どのシナリオが現実となるかは、以下の要因をいかに達成できるかにかかっている。
- AI戦略本部の実行力: 新設された司令塔が、省庁間の壁を打ち破り、計画に盛り込まれた施策を迅速かつ強力に実行できるか。特に、「アジャイルなガバナンス」の理念を形骸化させず、毎年実効性のある計画見直しを行えるかが鍵となる。
- 民間部門のマインドセット変革: 補助金やインフラ整備といった「外堀」を埋める政府の努力に対し、民間企業がリスクを恐れず、AIを経営の中核に据える「内堀」を埋める覚悟を持てるか。失敗を許容し、試行錯誤から学ぶ文化の醸成が不可欠である。
- 国際的な規制動向への戦略的対応: 「ライトタッチ」という国内方針を維持しつつも、EUのAI法など国際的な規制動向を常に監視し、国内ガイドラインとの相互運用性を確保する方策を講じることができるか。国際ルール形成への積極的な関与を通じて、日本の立場を反映させ続ける外交努力が求められる。
6.3 政策立案者および産業界への提言
上記の分析に基づき、以下の提言を行う。
- 政策立案者への提言:
- 実行と成果の可視化: 計画の策定だけでなく、KPI(重要業績評価指標)を設定し、その進捗を定期的に公開することで、政策の実効性を担保し、国民の理解を得るべきである。
- 中小企業向け支援の高度化: 単なる補助金の提供に留まらず、具体的な導入事例の共有、専門家派遣、データ整備支援など、中小企業が直面する個別の課題に寄り添った、より実践的な支援プログラムへと進化させるべきである。
- 「コンプライアンス・トラップ」の回避: 広島AIプロセスなどを通じ、EUとの対話を継続し、日本のソフトロー・アプローチとEUのハードロー・アプローチの間のブリッジとなるような共通原則や技術標準の策定を主導すべきである。これにより、日本企業の海外展開における規制障壁を低減する。
- 産業界への提言:
- 政府支援の積極的活用: GENIACや各種補助金制度は、日本のAI開発・導入におけるまたとない機会である。これを最大限に活用し、実証実験(PoC)の段階を脱して、基幹業務への本格的なAI導入を加速させるべきである。
- 戦略的ニッチへの集中: 自社の強みを分析し、政府が重点分野として掲げる「フィジカルAI」や「AI for Science」に関連する領域で、独自の競争優位を築くことに注力すべきである。
- 人材への投資: AI時代に最も重要な経営資源は「人」である。技術的なスキルを持つ人材の育成・確保と同時に、AIには代替できない創造性や課題解決能力を持つ人材を育てるための社内教育・研修への投資を惜しむべきではない。
日本の2025年AI戦略は、大きなリスクを伴うが、それ以上に大きな可能性を秘めている。この国家的な挑戦の成功は、政府の強力なリーダーシップと、産業界の果敢な挑戦、そして社会全体の変革への意志が一体となった時にのみ、実現可能となるだろう。
引用文献
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- うさぎでもわかる 内閣府AI基本計画 – 日本のAI戦略4つの柱を徹底解説|taku_sid エージェント https://note.com/taku_sid/n/n6b3b4a7a7e99
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- 内閣府「人工知能戦略専門調査会(第1回)」を読み解く:国のAI戦略策定の全体像と今後の展望 https://oregin-ai.hatenablog.com/entry/2025/10/02/210307
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- 【経済産業省へインタビュー】総額約8億円の懸賞金活用型プロジェクト「GENIAC-PRIZE」とは? https://qasso.org/expert-blog/dx-gx-productivity/1487/
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- 【2025年最新】EU AI法を徹底解説!日本の新法との比較から今後の影響まで – NOB DATA https://nobdata.co.jp/report/chatgpt/46/
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- 【2025年最新】なぜ強い?データで紐解く中国AI研究の最前線と … https://sigmabrain.co.jp/insight/%E7%9F%A5%E8%A6%8B3/


