
エグゼクティブ・サマリー
2025年7月、日本は人工知能(AI)を国家戦略の中核に据えるための重要な転換点を迎えた。この1ヶ月間の一連の政策決定、法整備、そして戦略的イニシアチブは、日本のAIに対する野心的なビジョンと、その実現に向けた具体的な実行計画を明確に示している。本レポートは、この重要な時期における日本のAI政策動向を多角的に分析し、その戦略的意義と将来的な影響を考察するものである。
日本のAI戦略は、イノベーションを促進する「ライトタッチ」な規制哲学と、公共部門における厳格なガバナンス体制の構築という、二つの柱によって特徴づけられる。2025年5月に成立した初の包括的なAI法は、罰則よりも自主的な協力を促すことで「世界で最もAIフレンドリーな国」を目指す姿勢を明確にした 1。一方で、政府は自らの調達力を通じて市場に強力な影響力を行使する。デジタル庁が策定した詳細な「生成AI調達・利活用ガイドライン」は、政府と取引する企業に対し、安全性、セキュリティ、倫理に関する高い基準を事実上課すものであり、柔軟な法制度と厳格な実務運用を組み合わせた独自のガバナンスモデルを形成している 2。
産業競争力の強化においては、国産の基盤モデル開発を支援する「GENIAC」プロジェクトの継続 3 や、半導体・データセンターといったハードウェアとAIソフトウェアが連携するエコシステム構築を目指す法改正 4 など、供給サイドへの大規模な投資が際立っている。これは、外国技術への依存を低減し、AIにおける国家主権を確立しようとする強い意志の表れである。特に、日本の伝統的な強みであるロボティクスとAIを融合させる「フィジカルAI」への注力は、純粋な言語モデルの競争とは一線を画し、日本の産業構造に根差した長期的な戦略的賭けと言える 5。
しかし、この野心的な供給戦略は、国内のAI活用が依然として低水準であるという厳しい現実に直面している。総務省が7月に公表した情報通信白書は、日本の生成AI利用率が米中に大きく遅れをとっていることを示しており 6、同じく総務省が公表した自治体におけるAI導入状況調査では、大都市と中小自治体の間に深刻な「デジタルデバイド」が存在することが明らかになった 8。この需要サイドの課題を克服することが、日本のAI戦略全体の成否を分ける最大の鍵となる。
国際的には、日本は米国(市場主導)、EU(権利ベース)、中国(国家管理)のいずれとも異なる「第三の道」を模索している。AIセーフティ・インスティテュート(AISI)による技術的な安全性研究と、「広島AIプロセス」を軸とした国際的なルール形成への積極的な関与は、日本が責任あるイノベーションの旗手として、グローバルなAIガバナンスにおいて主導的な役割を果たそうとする戦略的意図を示している 9。
結論として、2025年7月は、日本がAI分野におけるグローバルリーダーを目指すための包括的な政策パッケージを完成させ、実行段階へと移行した月として記憶されるだろう。その戦略は、独自のガバナンスモデル、国産技術への集中投資、そして国際協調を通じたソフトパワーの行使という三位一体のアプローチに基づいている。成功は、供給サイドの野心的な計画と、国内の需要喚起および人材育成という地道な取り組みとの間のギャップをいかに埋めるかにかかっている。
1. 国家AIフレームワークの確立:イノベーションとガバナンスの均衡
2025年7月、日本のAI政策は、これまで個別に進められてきた戦略や構想が、実行可能な統治機構へと統合・具体化される決定的な局面を迎えた。この時期の動向は、単なる技術振興策にとどまらず、経済安全保障、社会課題解決、そして国際的なルール形成における日本の立ち位置を規定する、国家レベルのガバナンス・アーキテクチャの構築を意図したものである。
1.1. 「統合イノベーション戦略2025」:哲学的な礎石
日本のAI政策全体の方向性を定める最上位文書が、2025年6月に改訂された「統合イノベーション戦略2025」である 5。この戦略は、AIを単なる一技術分野としてではなく、日本の未来を左右する基盤技術と位置づけ、その導入と活用に関する国家的な哲学を提示している。
戦略の核心は、「イノベーションの促進」と「リスクへの対応」という二つの要請を両立させることにある。人間中心、人権尊重、法令遵守といった基本原則を掲げつつ、偽・誤情報の拡散、犯罪の巧妙化、差別や偏見の助長といったAIがもたらしうる多様なリスクへの対処を明確に課題として認識している 5。これは、技術の便益を最大化すると同時に、社会的な受容性を確保するための基本的なスタンスを示すものである。
さらに、応用分野として医療・ヘルスケア、ロボット、インフラ・防災といった重要分野を特定し、特に介護や農林水産業など人手不足が深刻な分野での活用を推進することで、日本の喫緊の社会課題である人口減少・高齢化への対応策としてAIを明確に位置づけている 5。この戦略文書は、以降に続く個別の法制度や施策の「なぜ」を説明する、まさにAI国家戦略の礎石となっている。
1.2. 日本の「ライトタッチ」規制アプローチ:戦略的選択
2025年5月28日に成立した日本初の包括的なAI法、「人工知能関連技術の研究開発及び活用の促進に関する法律」は、日本のAIガバナンスにおける独自のアプローチを象徴している 1。この法律の最大の特徴は、EUの「AI法」が採用するような厳格で罰則を伴う規制とは一線を画し、自主的な協力を重視する「ライトタッチ」な姿勢を貫いている点にある。
この法律には、違反に対する直接的な罰則規定は設けられておらず、代わりに権利侵害が確認された場合に政府が調査を行い、その結果を公表する「ネーム・アンド・シェイム(名指し・公表)」アプローチが採用されている 1。この手法は、企業のレピュテーションリスクに訴えかけることで自主的な是正を促すものであり、イノベーションを阻害しかねない過度な規制を避けつつ、実効性を担保しようとする狙いがある。
このアプローチは、日本のAI分野における現状認識に基づいた戦略的な選択である。国内のAI投資は世界的に見て低水準にあり、個人の生成AI利用率も9%(2024年時点)、企業の導入率も47%にとどまるなど、普及が遅れているという危機感が背景にある 1。このような状況下で、厳しい規制を導入することは、さらなる萎縮効果を生みかねない。「世界で最もAIを開発・活用しやすい国」を目指すという目標 10 の下、規制のハードルを低く設定することで、国内外からの投資と人材を呼び込み、まずは国内のAIエコシステムを活性化させることを最優先する戦略が取られている。
1.3. ガバナンスの構造:戦略から実行へ
ライトタッチな法制度を補完し、実質的なガバナンスを確保するために、政府は精緻な実行体制を構築した。これは、トップダウンの戦略的意思決定と、各省庁における実務的な監督、そして外部の専門的知見を組み合わせた三層構造となっている。
第一層として、AI法に基づき、首相を議長とし全閣僚で構成される「AI戦略本部」が設置される 1。これは、AI政策を省庁横断的な国家戦略として推進するための最高司令塔であり、基本的な方針を定める「AI基本計画」の策定などを担う 10。
第二層として、各府省庁には「AI統括責任者(CAIO: Chief AI Officer)」が設置される 5。CAIOは、それぞれの省庁内でのAIの導入・利活用とリスク管理を一元的に監督する責任を負う。これにより、AI戦略が各行政分野の現場レベルで着実に実行され、説明責任が明確化される。デジタル庁は各省庁のCAIOと連携し、政府全体のAI利活用状況を把握・管理する役割を担う 5。
第三層として、首相が議長を務めるデジタル社会推進会議の下に、「先進的AI利活用アドバイザリーボード」が設置される計画である 11。この組織は、AIに関する高度な知見を持つ外部の有識者で構成され、特にリスクが高い、あるいは前例のないAIの利活用案件について、専門的な助言を行う。
この三層構造は、AIという急速に進化する技術に対して、政府全体として一貫性を保ちつつ、機動的かつ専門的に対応するための統治機構である。このような官僚機構の内部にAIガバナンスを専門とする新たな役職や組織を体系的に組み込む動きは、AIが一時的な技術トレンドではなく、国家運営の恒久的な要素となったことを示している。この新しい「AI官僚機構」は、今後の日本のAI政策の方向性を左右する重要なアクターとなり、企業が公共部門のAI市場に参入する際には、各省庁のCAIOの意向やリスク許容度を理解することが不可欠となるだろう。
1.4. デジタル庁の権限:調達による規制
日本のAIガバナンス戦略の真髄は、デジタル庁が主導する政府調達の仕組みにある。2025年5月27日、デジタル庁は経済産業省や総務省と協力し、「行政の進化と革新のための政府における適切な生成AIの調達・利活用に係るガイドライン」を決定した 2。このガイドラインは、政府機関がAIシステムを調達する際の詳細なルールを定めたものであり、事実上の規制として機能する。
この文書は、AIの利活用促進とリスク管理を「表裏一体」で進めることを目的としており 2、AIを提供する事業者に対して、ガバナンス体制の構築、情報セキュリティインシデントへの対応手順、データの適切な取り扱い、バイアスや差別的出力の抑止措置、説明可能性の確保など、多岐にわたる要求事項を課している 2。事業者は、これらの要求事項を満たしていることを示すための詳細なチェックシートへの対応を求められる。
このアプローチは、日本のAIガバナンスにおける「ガバナンス・ピンサー(挟撃)戦略」と分析できる。一方では、産業界全体を対象とするAI法を意図的にライトタッチに保ち、イノベーションの自由度を確保する。しかしもう一方では、政府という巨大な買い手が、その調達力を通じて、市場で取引されるAIサービスの品質、安全性、倫理基準に強力な影響を及ぼす。政府調達の基準を満たすことは、多くの企業にとって重要なビジネスチャンスであり、結果として、このガイドラインが国内AI市場全体のデファクトスタンダード(事実上の標準)を形成していくことになる。これは、厳格な法律を制定することなく、市場メカニズムを利用して望ましいAIガバナンスを実現しようとする、非常に洗練された戦略である。
2. 産業競争力の醸成:国産AI能力への挑戦
日本政府は、AI分野における国際競争の激化と経済安全保障上のリスクを強く認識し、国内のAI産業基盤を抜本的に強化するための具体的な政策を強力に推進している。その戦略は、AIモデルという「ソフトウェア」の開発支援と、それを支える半導体やデータセンターという「ハードウェア」の確保を一体的に進める、垂直統合的なアプローチを特徴としている。
2.1. 「GENIAC」プロジェクト:国産基盤モデルの育成
日本の「AI主権」戦略の中核をなすのが、経済産業省が主導する「GENIAC(Generative AI Accelerator Challenge)」プロジェクトである。このプロジェクトは、大規模な基盤モデルの開発に不可欠な膨大な計算資源の利用コストを国が支援することで、国内企業や研究機関による独自のAIモデル開発を促進することを目的としている 3。
2025年7月15日、経済産業省はGENIACの第3期支援対象として、新たに24件のAI基盤モデル開発テーマを採択したことを発表した 3。これは、第1期(10件)、第2期(20件)に続くものであり、政府がこの分野へ継続的かつ大規模な投資を行っていることを示している。この動きは、米国の巨大テック企業や中国の国家主導プロジェクトによって開発された少数の外国製基盤モデルに、日本の産業全体が依存することへの強い危機感の表れである。
政府は、特定の「ナショナルチャンピオン」を選抜するのではなく、多様なアプローチを持つ24ものプロジェクトを同時に支援することで、リスクを分散し、健全な競争を通じて国内に幅広いAI開発エコシステムを醸成しようとしている。これは、特定の技術に固執するのではなく、多様な可能性に賭けるポートフォリオ戦略と言える。
2.2. 基盤の構築:ハードウェアとインフラの重要性
日本政府は、AIの競争力がモデルのアルゴリズムだけでなく、それを動かす物理的なインフラによって決定されることを深く理解している。この認識に基づき、ハードウェアとソフトウェアを連携させて強化するための法整備が進められた。
2025年7月29日に閣議決定され、8月4日の施行が予定されている「情報処理の促進に関する法律」の改正は、この戦略を具現化するものである 4。この改正法は、生成AIの利用拡大に伴う計算需要の爆発的な増加に対応するため、半導体やデータセンターといったハードウェアと、生成AIなどのソフトウェアが相互に連携し、高度化していくエコシステムを構築することを目的としている 4。具体的には、高性能なAI半導体の国内生産基盤の確保や、電力供給や災害リスクを考慮したデータセンターの地方分散などが盛り込まれている 5。
この政策は、日本の伝統的な強みである製造業、特に半導体技術や精密加工技術を、最先端のAI競争における戦略的資産として再活用しようとするものである。単にAI研究に資金を提供するだけでなく、シリコンチップからアルゴリズム、そしてそれを動かすデータセンターまで、AI技術スタック全体を国内で完結させることを目指す野心的な試みである。
2.3. データと人材の不足:戦略のアキレス腱か
政府が供給サイド(技術開発)に強力なテコ入れを行う一方で、日本のAI戦略には構造的な脆弱性が存在する。それは、質の高いデータと高度なAI人材の不足、そして社会全体のAI受容性の低さである。
国家戦略文書自体も、AIモデルの性能向上に不可欠な質の高い日本語データセットの整備・拡充が急務であることを認めている 5。また、初等中等教育段階からのAIリテラシー教育の推進や、社会人のスキルアップ支援など、人材育成策も盛り込まれている 5。
しかし、2025年7月に総務省が公表した「情報通信白書」が示す現実は厳しい。日本の個人の生成AI利用率は26.7%にとどまり、米国や中国に大きく水をあけられている 6。この低い導入率は、日本のAI普及における根深い課題であり、政府が直面する最大の挑戦の一つである 1。
この状況は、日本のAI戦略における「供給サイドと需要サイドの乖離」という深刻な問題を浮き彫りにする。政府はGENIACや半導体支援を通じて、高性能な国産AIという「製品」を生産するための「工場」を建設している。しかし、国内の消費者や多くの企業は、まだその製品を積極的に購入する段階には至っていない。この需要の喚起に失敗すれば、GENIACで開発された高度なAIモデルが国内市場で十分な実用データを得られず、性能向上も商業的成功も果たせないまま、世界から孤立した「ガラパゴスAI」と化すリスクがある。
一方で、この包括的なハードウェア・ソフトウェア戦略は、より長期的な視点から解釈することも可能である。日本の国家戦略が特に「フィジカルAI」、すなわちロボット技術との融合を重視している点に注目すべきである 5。日本は、対話型AIや創造性AIの分野で米国勢と正面から競争することは困難かもしれないが、ロボティクス、ファクトリーオートメーション、精密製造といった物理世界におけるAI応用では、世界有数の産業基盤と技術的蓄積を有している。したがって、政府の垂直統合的な投資は、単にChatGPTの競合を作ることだけが目的ではない。AIによる価値創造の次なる大きな波が、サイバー空間と物理空間を繋ぐ領域で起こるという長期的な予測に基づき、日本が真にグローバルリーダーシップを発揮できる分野に戦略的に資源を集中させている、という見方もできる。
3. 公共部門の変革:「ガバメントAI」構想と地方自治体の導入実態
日本政府は、AIの社会実装を加速させるため、自らが率先してAIを導入し、その有効性を示す「リード・バイ・イグザンプル」のアプローチを取っている。その中核となるのが、政府全体で利用可能な統一AI基盤「ガバメントAI」の構築構想である。2025年7月に公表された地方自治体におけるAI導入実態調査は、この構想の必要性を裏付けると同時に、その実現に向けた課題を浮き彫りにした。
3.1. 「ガバメントAI」のビジョン
デジタル庁は、政府のクラウド基盤(ガバメントクラウド)上に、中央省庁および地方自治体が共同で利用できる統一的なAI基盤、通称「ガバメントAI」を構築する計画を主導している 11。このプロジェクトは2025年度から2026年度にかけて開発が進められる予定で、将来的には「デジタル・マーケットプレイス」を通じて、各自治体が容易にAIサービスを調達・利用できる環境を目指している 11。
この構想の目的は多岐にわたる。第一に、各省庁や自治体が個別にAIを導入することによる非効率やコストの重複をなくし、スケールメリットを活かすこと。第二に、政府統一のセキュリティ基準を適用することで、サイバーセキュリティや情報漏洩のリスクを低減すること。そして第三に、特に技術力や財政力に乏しい小規模な自治体に対して、自力では導入が難しい高度なAIツールへのアクセスを提供することである。これは、行政サービスの質の全国的な標準化と向上を目指す、野心的なデジタル・インフラ整備計画と言える。
3.2. 詳細分析:総務省による2025年7月の地方自治体AI導入レポート
2025年7月31日、総務省は「自治体におけるAIの利用に関するワーキンググループ報告書」を公表した 14。この報告書は、全国の自治体におけるAI導入の現状を詳細に明らかにし、日本の公共部門におけるデジタルトランスフォーメーションの光と影を映し出している。
報告書が示すデータは、自治体の規模による深刻な格差、いわゆる「二階層化」の実態を明確にした。都道府県の87.2%、政令指定都市の90.0%が既に生成AIを導入しているのに対し、その他の一般市区町村では導入率がわずか29.9%にとどまっている 8。これは、技術、人材、予算といったリソースを持つ大規模自治体と、そうでない中小規模自治体との間に、AI活用の面で決定的な差が生じていることを示唆している。
活用事例を見ると、導入済みの自治体においても、その利用は議事録の要約、挨拶文やメール文案の作成といった、比較的リスクの低い定型的なバックオフィス業務に集中している 8。これは、AIの導入がまだ本格的な行政サービスの変革には至っておらず、業務効率化の補助ツールとしての利用が主であることを示している。
AIを導入していない自治体が挙げる障壁は、「専門人材の不足」「AI生成物の正確性への懸念」「導入効果が不明確であること」が上位を占めた 8。これらの課題は、中小規模の自治体が単独で乗り越えるには困難なものであり、国による包括的な支援の必要性を強く示唆している。
この総務省の報告書は、単なる現状分析にとどまらない。報告書が明らかにした中小自治体の課題(人材・コスト・リスクへの懸念)は、デジタル庁が進める「ガバメントAI」構想が解決すべき問題そのものである。つまり、この報告書は、「ガバメントAI」という数千億円規模の国家プロジェクトの必要性を裏付ける、政治的・実務的な根拠(マンデート)を提供するものと言える。今後のプロジェクトの成否は、この報告書で示された90%対30%という導入率の格差を、どれだけ是正できるかによって測られることになるだろう。
3.3. ケーススタディ:「東京都AI戦略」
国全体の動向とは別に、先進的な自治体は独自の取り組みを加速させている。その代表例が、2025年7月25日に東京都が策定・公表した「東京都AI戦略」である 9。
この戦略は、都がAIと向き合う際の基本理念として、「透明性」や「公平性」といった厳格な倫理原則を掲げている 16。さらに、AIを活用する業務をリスクに応じて3段階に分類し、リスクレベルに応じた管理を行う「リスクベース・アプローチ」を導入するなど、先進的なガバナンス体制を構築している 16。
また、都内の中小企業に対する最大1,500万円規模の導入補助金や、都が抱える行政課題を解決するAIスタートアップを公募するオープンイノベーションの推進、都が保有するデータの積極的な公開(オープンデータ化)など、都独自の産業振興策も盛り込まれている 16。
東京都の戦略は、他の大規模自治体が追随する可能性のあるモデルケースとなる。しかし、これは同時に、将来的な課題も示唆している。国が「ガバメントAI」による標準化と中央集権化を進める一方で、東京都のような先進的な自治体は、独自のニーズに合わせたオーダーメイドのシステムや戦略を既に構築し始めている。将来、「ガバメントAI」が本格稼働した際に、これらの先進自治体が自らのシステムを放棄して中央のプラットフォームに移行するのか、あるいは中央のプラットフォームが先進自治体の高度な要求を満たせるのか、という「中央集権化と地方自治の間の緊張関係」が顕在化する可能性がある 17。
表1:日本の地方自治体におけるAI導入状況(2025年7月)
| 自治体種別 | 導入済み比率 (%) | 主な活用事例 | 主な導入障壁(トップ3) | |
| 都道府県 | 87.2% | 議事録の要約挨拶文・答弁案の作成企画書・メール文案の作成 | (導入済み団体が多いため、未導入団体の障壁データが中心) | |
| 政令指定都市 | 90.0% | 議事録の要約挨拶文・答弁案の作成企画書・メール文案の作成 | (導入済み団体が多いため、未導入団体の障壁データが中心) | |
| その他市区町村 | 29.9% | (導入済み団体における活用事例は上記と同様) | 専門人材の不足AI生成物の正確性への懸念導入効果・費用対効果が不明確 | |
| 出典:総務省「自治体におけるAIの利用に関するワーキンググループ報告書」8 |
4. 信頼基盤の構築:AIの安全性、倫理、ルール形成
日本のAI戦略は、イノベーションの促進と同時に、技術に対する国民の信頼を確保することを極めて重視している。この「リスク管理」の側面を担うのが、AIセーフティ・インスティテュート(AISI)を中心とした専門機関の活動、既存法の適用に関する解釈の明確化、そして「広島AIプロセス」を軸とした国際的なルール形成への貢献である。
4.1. AIセーフティ・インスティテュート(AISI)の活動
日本のAIセーフティ・インスティテュート(AISI)は、AIの安全性に関する技術的な研究と国際連携を担う中核機関として、2025年7月も活発な活動を展開した。その活動は、国内の技術コミュニティへの貢献と、国際的なガバナンス議論への影響力行使という二つの側面を持つ。
国内では、AISIの所長や技術統括が「JAPAN AI SAFETY WORKSHOP」などの学術的な会合で講演を行い、最新の知見を共有した 9。特に重要な成果として、AISIはAIシステムに対する既知のセキュリティ攻撃手法とその影響を体系的に整理した詳細な学術レポートを公開した 9。これは、AIの脆弱性に関する具体的な技術的リスクを分析し、対策の基礎となる科学的知見を提供するものであり、AISIの技術的な専門性の高さを国内外に示すものである。
国際的には、AISIはスイスで開催された国連専門機関主催の「AI for Good Global Summit」に参加したほか、カナダ・バンクーバーで開催されたAISI国際ネットワーク会合では、カナダAISIと共同でサイドイベントを主催した 9。このイベントは、日本が主導する「広島AIプロセス」の進展と普及を目的としており、日本の取り組みを国際的なベストプラクティスとして発信する戦略的な場となった。
これらの活動は、日本が「技術外交」とでも言うべき戦略を推進していることを示している。まず、AISIを通じてAIの安全性に関する高度な技術的研究を行い、科学的な信頼性と専門性を確立する。そして、その技術的な信頼性を背景に、「広島AIプロセス」のようなガバナンスの枠組みを国際社会に提唱する。これは、単に政治的な交渉によって自国の主張を通そうとするのではなく、技術的な裏付けをもって国際的なルール形成を主導しようとする、より巧妙で説得力のあるアプローチである。
4.2. 法的フロンティアの航海:知的財産権とデータプライバシー
生成AIの急速な普及は、著作権や個人情報保護といった既存の法制度に新たな課題を突きつけている。政府は、新たな包括的規制を設けるのではなく、既存法の解釈を明確化し、事業者や国民への周知・啓発を通じて対応するアプローチを取っている。
2025年7月には、特許庁などが「生成AIと知的財産権」をテーマにしたセミナーを複数回開催し、企業が直面するリスクや現行法下での考え方について情報提供を行った 18。これは、AIによる著作権侵害のリスクなど、法的なグレーゾーンに対する事業者の不安を和らげ、適切なAI利用を促すことを目的としている。
同時に、個人情報保護委員会(PPC)は、AIとビッグデータの時代における新たなプライバシー課題に対応するため、専門知識を持つ人材の募集を開始した 19。これは、技術の進展に合わせて個人情報保護のルールを継続的にアップデートしていくという委員会の強い意志を示している。また、政治レベルでは、個人のデータを本人がコントロールする権利、いわゆる「自己情報コントロール権」を法的に保障すべきだという議論も続いている 20。
これらの動きは、政府がAI時代の法的課題に対し、トップダウンの硬直的な規制ではなく、対話とガイダンスを通じて漸進的に対応しようとしていることを示している。
4.3. 広島AIプロセス:日本の「ソフトパワー」戦略
G7広島サミットを契機に日本が提唱した「広島AIプロセス(HAIP)」は、今や日本のAI外交における最も重要な資産となっている。これは、AI開発者向けの国際的な行動規範や原則を定めるもので、国境を越えて活動するAI企業に対する、相互運用可能なガバナンスの枠組みを目指すものである。
日本の国家戦略は、HAIPをさらに前進させることを明確な目標として掲げている 5。前述の通り、2025年7月のAISIの国際活動も、HAIPの普及を主目的としていた 9。
HAIPは、日本のAI政策における「ソフトパワー」の中核である。日本は、自国が推進するイノベーション重視の「ライトタッチ」なアプローチと整合性の取れた国際ルールを形成することで、グローバルなAIガバナンスの議論を主導しようとしている。これは、EUの規制中心のアプローチや、米中のより国益を重視したアプローチとは異なる、協調的でオープンなモデルを提示するものであり、国際社会における日本の影響力を高めるための重要な外交ツールとなっている。
5. グローバルコンテクスト:変動する国際AI情勢の航海
日本のAI政策は、国内の事情だけで形成されているわけではない。それは、米国、欧州連合(EU)、中国といった主要プレイヤーが繰り広げる、技術覇権とルール形成をめぐる熾烈な国際競争に対する、計算された戦略的応答である。2025年7月の動向は、このグローバルなAIガバナンスの潮流の中で、日本が独自の立ち位置をいかに築こうとしているかを浮き彫りにした。
5.1. 規制哲学の比較分析
2025年7月、世界のAI政策は大きな動きを見せた。米国では、トランプ政権が「AI行動計画」を発表。これは、イノベーションの加速、規制緩和、そして安全保障の観点からの輸出管理強化を三本柱とする、市場原理と国家安全保障を優先するアプローチである 9。
一方、EUは、個人の権利保護を最優先し、AIのリスクレベルに応じて義務を課す包括的な「AI法」の施行を着実に進めている 1。英国は、特定の規制枠組みよりも、OpenAIのような先進企業との戦略的パートナーシップを通じて、インフラ投資や公共サービスの高度化を優先する、より実利的なアプローチを取っている 9。そして中国は、国家がAI開発とガバナンスを強力に主導する「グローバルAIガバナンス行動計画」を推進し、国際的な枠組み作りにおいてもその影響力を行使しようとしている 9。
このように、世界のAIガバナンスは、米国(市場・安全保障優先)、EU(権利・規制優先)、中国(国家・管理優先)という、それぞれ異なる哲学を持つブロックへと分極化しつつある。
5.2. 日本の戦略的ポジショニング:「第三の道」
このグローバルな規制のスペクトルの中で、日本は意図的に独自のポジションを築こうとしている。日本の「ライトタッチ」なAI法は、EUの包括的な規制とは明確に一線を画す 1。同時に、広島AIプロセスやAISIの活動を通じて、安全性や倫理、国際協調を重視する姿勢を示すことで、米国の純粋な市場主義とも、中国の国家管理モデルとも異なる姿勢を打ち出している。
日本が目指しているのは、イノベーションを促進する自由な環境と、予測可能で責任あるガバナンスを両立させる「第三の道」である。これは、グローバルに事業を展開する多国籍企業にとって、非常に魅力的な提案となりうる。EUの複雑なコンプライアンスコストを懸念しつつも、無法地帯での事業リスクは避けたいと考える企業にとって、日本は安定し、かつビジネスフレンドリーな開発拠点として映る可能性がある。
この戦略的ポジショニングは、地政学的・経済的なヘッジ戦略としても機能する。世界のAIエコシステムが異なる規制ブロックに分断されつつある中で、多国籍企業はそれぞれの規制への対応という複雑な課題に直面している。日本が推進する広島AIプロセスが目指す「相互運用性」は、まさにこの分断を乗り越えるためのブリッジとなりうる。日本は、米国、欧州、アジアの企業が、共通の理解と合理的なルールの下で協力し、共同開発を行える「中立的なグラウンド」としての地位を確立しようとしている。これは、日本のAI政策が単なる国内産業政策にとどまらず、国際的な地政学の変動を見据えた高度な国家戦略であることを示している。
表2:世界の主要なAIガバナンス・アプローチ比較(2025年7月時点)
| 国・地域 | 中核となる哲学 | 主要な法制度・政策 | 主な執行メカニズム | |
| 日本 | イノベーション主導、ガバナンスによる誘導 | AI法 / 広島AIプロセス | 自主協力 / 政府調達ルール | |
| 米国 | 市場主導、安全保障重視 | AI行動計画 / 大統領令 | 輸出管理 / 各省庁の指令 | |
| 欧州連合 | 権利ベース、リスク階層型 | AI法 | 罰金 / 適合性評価 | |
| 中国 | 国家中心、社会統制 | グローバルAIガバナンス行動計画 | 国家指令 / 中央政府による監督 | |
| 出典:1 |
6. 戦略的展望と提言
2025年7月の動向を総合的に分析した結果、日本のAI戦略は、明確なビジョンと精緻な実行計画を持つ一方で、克服すべき重大な課題にも直面していることが明らかになった。本セクションでは、これらの課題と機会を整理し、各ステークホルダーに対する具体的な提言を提示する。
6.1. 主要課題の整理
- 導入の遅れ(Adoption Deficit):最大の課題は、政府が推進する供給サイドの野心的な計画(国産モデル開発、インフラ整備)と、国内の企業や国民における需要サイドの低いAI導入率との間に存在する深刻なギャップである。このままでは、最先端技術を開発しても、その活用が進まず、国際競争から取り残される危険性がある。
- 人材パイプラインの脆弱性:政府は人材育成策を打ち出しているものの、高度なAIエンジニアやデータサイエンティストの不足は依然として深刻なボトルネックである。特に、中小企業や地方自治体において、AIを導入・運用できる人材が決定的に不足している。
- 実行の格差(Implementation Gap):地方自治体におけるAI導入率が示す「二階層化」問題は、国のトップダウン戦略が、必ずしも全国津々浦々まで均一に浸透していない現実を物語っている。この格差を放置すれば、行政サービスの質の地域間格差がさらに拡大する恐れがある。
6.2. 戦略的機会の特定
- グローバル・ガバナンスにおけるリーダーシップ:日本は、AISIによる「技術外交」と広島AIプロセスの推進を通じて、国際的なAIルール形成において主導的な役割を果たす絶好の機会を有している。責任あるイノベーションの旗手としての地位を確立できれば、日本の国際的な影響力は大きく向上するだろう。
- 「第三の道」ハブとしての魅力:米国、EU、中国とは異なる独自の規制アプローチは、安定し、かつイノベーションを阻害しない事業環境を求めるグローバル企業にとって、日本を魅力的な研究開発拠点として位置づける可能性がある。
- フィジカルAIにおける主導権:日本の深い産業的知見と製造業の強みを活かせるロボティクスやファクトリーオートメーションといった「フィジカルAI」の分野は、日本が真に世界をリードできる戦略的な機会である。
6.3. ステークホルダーへの実践的提言
- 政策立案者へ:
- 需要サイドへの政策シフト:供給サイドへの投資とバランスを取る形で、需要サイドを刺激する政策を強力に推進すべきである。具体的には、中小企業向けのAI導入補助金の大幅な拡充、AI活用に関する税制優遇措置、成功事例の共有を促進するプラットフォームの構築などが考えられる。
- 「AI導入支援隊」の創設:中小規模の自治体が抱える人材不足とノウハウ不足を解消するため、専門家からなる「ナショナルAIインプリメンテーション・コープス(全国AI導入支援隊)」を組織し、各自治体に専門家を派遣して、ハンズオンでの導入支援を行うべきである。
- 企業経営者へ(国内外問わず):
- 「フィジカルAI」への研究開発投資:日本の戦略的重点分野である「フィジカルAI」領域に研究開発リソースを集中させるべきである。これは、政府の支援を受けやすく、かつ日本の産業構造上の強みを活かせる分野である。
- 政府調達ガイドラインの徹底研究:政府の調達ガイドラインは、事実上の国内市場標準となる。AIサービスを提供するベンダーは、このガイドラインを深く理解し、自社製品やサービスを準拠させることが、公共部門市場での成功に不可欠である。
- 戦略的R&D拠点としての日本活用:国際企業は、日本を米国とEUの規制環境の架け橋となる戦略的な研究開発拠点として検討すべきである。日本の「第三の道」アプローチは、グローバルな製品開発におけるリスクヘッジとなりうる。
- 投資家へ:
- B2Bおよび産業用AIへの注目:消費者向けAIだけでなく、日本が持続的な競争優位を持つB2Bおよび産業用AIセクターに注目すべきである。特に、製造、物流、医療、介護といった分野でのAI応用は大きな成長が見込まれる。
- 「AI官僚機構」への対応能力の評価:企業を評価する際、技術力だけでなく、新たに形成されつつある政府の「AI官僚機構」と効果的に連携し、公共部門の契約を獲得する能力も重要な評価軸とすべきである。
引用文献
- 日本のAI政策:2025年5月-6月の動向 – note https://note.com/yoshiyuki_hongoh/n/n3345c0bb7221
- 「行政の進化と革新のための生成AIの調達・利活用に係る … https://www.digital.go.jp/news/3579c42d-b11c-4756-b66e-3d3e35175623
- 生成AIの開発力強化に向けたプロジェクト「GENIAC」において … https://www.meti.go.jp/press/2025/07/20250715001/20250715001.html
- 「情報処理の促進に関する法律及び特別会計に関する法律の一部を … https://www.meti.go.jp/press/2025/07/20250729001/20250729001.html
- 統合イノベーション戦略 2025 – 内閣府 https://www8.cao.go.jp/cstp/tougosenryaku/togo2025_zentai.pdf
- 生成AI「個人利用」26.7%に上昇 それでも米中との差は歴然【総務省・情報通信白書】 https://ledge.ai/articles/generative_ai_personal_use_japan_2025
- 【2025年最新データ】生成AI利用率:日本は26.7%、中国・米国に大きく遅れ|総務省・情報通信白書から読み解く課題と世代差 – note https://note.com/brave_avocet318/n/n661e71eb399f
- 自治体における AI の利用に関するワーキンググループ 報告書 – 総務省 https://www.soumu.go.jp/main_content/001022758.pdf
- AI政策動向マンスリー情報 – AISI Japan https://aisi.go.jp/activity/activity_information/250819/
- 今後の科学技術・イノベーション政策の方向性について https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/kaigi/dai33/shiryou15.pdf
- 「ガバメントAI」を基盤に行政サービスを高度化 デジタル庁主導で構築へ https://dempa-digital.com/article/668014
- デジタル・ニッポン2025 – 自由民主党 https://storage2.jimin.jp/pdf/news/policy/210615_2.pdf
- 平大臣記者会見(令和7年6月17日)【第11回デジタル行財政改革会議の開催とデジタル社会の実現に向けた重点計画の改定等】 – YouTube https://www.youtube.com/watch?v=UfJeF8Z6x3U
- 報道資料一覧:2025年7月 – 総務省 https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/2507m.html
- 生成AI利活用ガイドラインの策定支援を提言、「自治体におけるAIの利用に関するワーキンググループ」が報告書を公表 総務省 – ニュートン・コンサルティング株式会社 https://www.newton-consulting.co.jp/itilnavi/flash/id=8632
- 2025年7月15日-31日のAI関連ニュース – 九州・福岡のYENGIMON(株)(えんぎもん) https://www.yengimon.com/2025_08_01/
- ガバメントAIの導入に思うこと | 墨田区議会議員 | 井上ひろき公式サイト https://www.gorisan.tech/2025/08/19/govai/
- 2025年度イベントカレンダー | 経済産業省 特許庁 https://www.jpo.go.jp/news/shinchaku/event/cal/2025/index.html
- 個人情報保護委員会 https://www.bizreach.jp/job-feed/public-advertising/siicc1j/
- 63、デジタル化問題、個人情報保護、マイナンバー – 日本共産党 https://www.jcp.or.jp/web_policy/12593.html
- トランプ米政権、AI行動計画を発表、規制緩和や輸出管理厳格化など表明(米国) – ジェトロ https://www.jetro.go.jp/biznews/2025/07/795a9288d3eb6871.html
- AI最新ニュース(2025年7月22日振り返り)|sato – note https://note.com/sato_yoko/n/n5b916c6ffc57



