脳の記憶システムに関する神経科学的分類とその動作機序

脳における「記憶」は、単一の機能として存在するのではなく、情報の保持時間、内容の性質、そして意識的な想起の可否といった複数の軸に基づき分類される、極めて複雑かつ高度に専門化された複数の認知システムの複合体である。本報告書は、これらの記憶システムを、まず主要な二つの分類軸、すなわち「時間軸(保持期間)」と「内容(意識の関与)」に基づいて体系的に整理し、それぞれのサブタイプについて詳述する。さらに、各記憶タイプを支える神経解剖学的基盤(脳部位)と、記憶が形成され、永続化し、そして想起されるプロセスを説明する神経生物学的メカニズムについて、最新の科学的知見に基づき詳細に解説する。
これらの分類軸は並列的な関係ではなく、明確な階層構造を形成している。情報はまず時間軸に沿ったプロセス(感覚記憶から短期記憶へ)を経由し、その情報が永続的なものへと変化する(長期記憶への固定化)。そして、その「長期記憶」というカテゴリの内部が、情報の「内容」と「意識的想起の可否」によって、陳述記憶と非陳述記憶へと分岐する 1。本報告書は、この情報処理の階層的アーキテクチャに従い、記憶の全体像を解明する。
I. 記憶の時間的分類:情報のフローと保持
記憶の第一の分類軸は、情報が保持される「時間」である。この分類は、情報が脳内で処理され、フィルタリングされていく一連のフローを示す 2。
A. 感覚記憶 (Sensory Memory)
感覚記憶は、時間的に最も保持期間が短い記憶であり、その持続時間はミリ秒から長くとも数秒程度である 1。視覚情報(アイコニック・メモリ)や聴覚情報(エコイック・メモリ)など、各感覚器官に特有の形で存在し、外界から入力された膨大な刺激情報を、極めて忠実に、一時的なバッファとして保持する。
感覚記憶の最も重要な特性は、その情報が通常は意識に上らないことである 1。この感覚バッファに保持された情報のうち、特定の情報のみが次段階の記憶システムへと送られる。この選別プロセスは自動的・受動的に行われるのではなく、「注意 (Attention)」という能動的な認知プロセスによって能動的に選別される 1。したがって、感覚記憶は「意識への登竜門」として機能し、注意がその「門番(ゲートキーパー)」の役割を担う。意識的な記憶プロセスは、この注意によるフィルタリングから始まると言える。
B. 短期記憶 (Short-Term Memory)
短期記憶は、感覚記憶から注意によって選別された情報を、数十秒程度保持する記憶システムである 1。短期記憶は、その保持時間が限られているだけでなく、一度に保持できる情報の「容量」にも厳格な限界があることが特徴とされる 1。これは、単なる情報の一時的な「貯蔵庫 (Storage)」としての機能に焦点を当てた、古典的な記憶の概念である。この段階の情報は、時間の経過とともに忘却されるか、あるいは後述する長期記憶へと転送される 2。
C. ワーキングメモリ(作動記憶) (Working Memory)
短期記憶の概念をさらに発展させ、より能動的な情報処理の側面を強調したのが「ワーキングメモリ(作業記憶、作動記憶)」である 3。ワーキングメモリとは、外部からの情報を単に一時的に「記憶(貯蔵)」するだけでなく、その情報を認知的な課題遂行のために能動的に「処理 (Processing)」または「操作 (Manipulation)」する能力を指す 3。
「脳のメモ帳」とも比喩されるように 3、ワーキングメモリは、会話の文脈を理解したり、文章を読んだり、暗算を行ったりするなど、日常生活における様々な高次の認知活動の基盤となる。例えば、会話においては、相手の発言を一時的に保持し、それに関連する自分の知識を引き出し、応答を組み立てるといった一連の処理がワーキングメモリ上で行われる。
アラン・バッデレイらによって提唱されたワーキングメモリモデルは、このシステムが単純な貯蔵庫ではなく、「中央実行系(注意の制御)」、「音韻ループ(言語情報の保持・リハーサル)」、「視空間スケッチパッド(視覚・空間情報の保持・操作)」といった複数のコンポーネントから成る複合的なシステムであることを示している。現代の認知神経科学において、単純な「短期記憶」という受動的な概念よりも、この能動的な「ワーキングメモリ」の概念が、特に前頭前野の機能と関連して、より重視されている。
II. 長期記憶の主要分岐:陳述記憶(宣言的記憶)
感覚記憶や短期記憶の段階を経た情報のうち、重要な情報や反復された情報は、脳内で物理的・化学的な変化を伴う「固定化 (Consolidation)」を経て、数分から生涯にわたって保持される「長期記憶」となる。この長期記憶は、その「内容」と「意識的な想起の可否」によって、まず「陳述記憶」と「非陳述記憶」の二つに大別される 1。
A. 陳述記憶 (Declarative / Explicit Memory) の定義
陳述記憶は、その記憶内容を意識的に想起することが可能であり、イメージや言語を通じて他者に「陳述(宣言)」できる記憶である 1。「宣言的記憶」あるいは「明示的記憶 (Explicit Memory)」とも呼ばれる 1。この種の記憶は、私たちが「知っている」と自覚できる知識や経験であり、その形成(記銘)の初期段階において、脳の「海馬 (Hippocampus)」が決定的に重要な役割を果たすことが知られている。陳述記憶は、さらに「エピソード記憶」と「意味記憶」という二つの主要なサブタイプに分類される 4。
B. エピソード記憶 (Episodic Memory)
エピソード記憶は、個人の自伝的な出来事や経験に関する記憶である 4。例として、「昨日の夕食に何を食べたか」 5 や、「(過去の旅行で)フランスのパリでエッフェル塔に登った」 4 といった記憶が挙げられる。エピソード記憶の核心的な特徴は、「いつ(時間的文脈)」、「どこで(空間的文脈)」、そして「何が起こったか(出来事)」といった、その経験に付随する豊かな文脈情報を詳細に含んでいる点にある。
神経基盤(形成):海馬 (Hippocampus)
エピソード記憶の形成、すなわち新しい出来事を記憶として符号化し、それを長期記憶として固定化するプロセスにおいて、「海馬」と呼ばれる側頭葉の内側部にある脳領域が、不可欠な役割を果たす 6。海馬は、短期記憶から長期記憶へと移行すべき情報を選別し、出来事を構成する多様な情報(視覚、聴覚、場所、感情など)を一つのまとまった記憶として関連付ける、いわば「必殺仕分け人」のような機能を持つと形容される 6。
神経基盤(貯蔵):前頭葉 (Frontal Lobe)
一方で、海馬で形成されたエピソード記憶が、最終的にどこに保存されるかについては、異なる見解が存在する。近年の研究では、長期的に保存されるエピソード記憶は、主に「前頭葉」に保存されることが示唆されている 5。
システムレベルの固定化:海馬と前頭葉の動的な関係性
エピソード記憶の神経基盤として「海馬」 6 と「前頭葉」 7 が挙げられることは、一見すると矛盾しているように見えるかもしれない。しかし、これは矛盾ではなく、記憶が固定化される「時間的経過」における、これら二つの脳領域の役割分担と連携(システムレベルの固定化)を示している。
このプロセスは、近年の理化学研究所などによる「エングラム(記憶痕跡)細胞」の研究によって、神経細胞レベルで詳細に解明されつつある 7。この知見によれば、エピソード記憶(特に恐怖記憶など)が学習される際、記憶痕跡(エングラム)は「海馬」と「前頭前皮質(前頭葉の一部)」に同時に形成される。しかし、学習直後(例:1日後)の記憶想起では、海馬のエングラムが「アクティブ」な状態にあり想起に必須であるのに対し、前頭前皮質のエングラムは「サイレント」な状態(存在はするが想起には使われない)にある 7。
しかし、学習から時間が経過する(例:2週間後)と、海馬から前頭前皮質への持続的な神経入力(一種の「教育」プロセス)によって、サイレントであった前頭前皮質のエングラムが構造的・機能的に「成熟」し、想起において「アクティブ」な状態へと移行する。逆に、それまで教師役であった海馬のエングラムは「サイレント」化し、想起への直接的な関与を停止する 7。
結論として、海馬はエピソード記憶の「形成」と、大脳皮質(特に前頭葉)への「転送・成熟」に不可欠な一時的な仲介者であり、十分に固定化され成熟した長期エピソード記憶は、前頭葉の神経回路網に保存されると考えられる。この動的なプロセスについては、セクションIVでさらに詳述する。
C. 意味記憶 (Semantic Memory)
意味記憶は、陳述記憶のもう一つのサブタイプであり、言葉の意味、一般的な知識、事実、概念に関する記憶である 4。例として、「イタリアの首都はローマである」 4 といった地理的な事実や、「法律家が憲法や民法の条文を記憶している」 5 といった専門知識がこれに該当する。
意味記憶は、エピソード記憶とは対照的に、その知識を「いつ、どこで」学んだかといった個人的・自伝的な文脈情報が欠落している(あるいは重要視されない)点で区別される。
神経基盤:側頭葉 (Temporal Lobe)
意味記憶は、主に「側頭葉」の大脳皮質領域に保存されるとされている 5。
陳述記憶内での解剖学的分離
このように、意識的に想起できる「陳述記憶」という大きなカテゴリは、「エピソード記憶」と「意味記憶」という二つのサブシステムに分類され、これらは脳内での主要な保存場所が異なる(エピソード記憶→前頭葉、意味記憶→側頭葉) 5。これは、両者が単に記憶の「内容」が異なるだけでなく、神経解剖学的に分離可能な、独立しつつも相互に関連する記憶システムであることを強く示唆している。
III. 長期記憶のもう一つの柱:非陳述記憶(非宣言的記憶)
長期記憶のもう一つの主要な分岐は、非陳述記憶である。
A. 非陳述記憶 (Non-Declarative / Implicit Memory) の定義
非陳述記憶は、陳述記憶とは対照的に、その内容を意識的に想起することができず、言語などを介して「陳述」することが困難な記憶である 1。「非宣言的記憶」 1 または「潜在記憶 (Implicit Memory)」 10 とも呼ばれる。
非陳述記憶は、「何を覚えているか」を言葉で説明することはできないが、過去の経験による学習の成果が、その後の行動やパフォーマンスの変化(例:より速く、より正確に、あるいは特定の反応が自動的に生じる)として「暗黙的」に現れる。非陳述記憶もまた、単一のシステムではなく、複数の異なる学習・記憶メカニズムの総称である。
B. 手続き記憶 (Procedural Memory)
手続き記憶は、非陳述記憶の代表的なものであり、スキル(技能)、習慣、運動技能など、「体で覚える」記憶を指す 11。例として、「自転車の乗り方」や「泳ぎ方」、「楽器の演奏」 11、あるいは「家から最寄り駅までの道を無意識的に歩く」 10 といった動作の記憶がこれに該当する。
手続き記憶は、反復練習によって徐々に形成され、一度獲得されると、非常に長期間(時には一生涯)保持され、忘却されにくいという顕著な特徴を持つ 11。また、一度習熟すると、その動作の一つ一つを意識しなくても自動的に行えるようになる 10。
神経基盤:大脳基底核 (Basal Ganglia) と小脳 (Cerebellum)
手続き記憶の神経基盤は、陳述記憶の基盤である海馬とは全く異なる。手続き記憶の形成と貯蔵において中心的な役割を果たすのは、脳の深部にある「大脳基底核」と、後頭部の下にある「小脳」である 9。
大脳基底核は、体の筋肉を「動かしたり止めたりする」といった運動の開始・停止の制御に関与し、小脳は、筋肉の動きを「細かく調整してスムーズに動く」ための微調整(協調運動)に関与する 11。私たちが何度も失敗を繰り返しながら練習するうちに、これら大脳基底核と小脳のニューロンネットワークが、正しい運動パターンを学習し、記憶として刻み込んでいくのである 11。
記憶システムの二重解離
手続き記憶が「海馬ではなく」、「大脳基底核」と「小脳」に依存しているという事実は 11、記憶神経科学における最も重要な知見の一つである「二重解離 (Double Dissociation)」を示す。例えば、海馬を重度に損傷した健忘症患者(H.M.が有名)は、新しいエピソード記憶(例:昨日何をしたか)を全く作ることができないが、新しい運動技能(例:鏡映描写)を練習によって上達させること(手続き記憶の学習)は可能である。
これは、脳内に「意識的に知る」ための記憶システム(海馬—前頭葉系)と、「無意識的に行う」ための記憶システム(大脳基底核—小脳系)が、解剖学的に明確に分離され、並列して存在していることの強力な証拠である。
C. プライミング (Priming)
プライミングは、先行する刺激(プライマー)の経験が、後続の刺激の処理(例:認知、判断、同定)に対して、無意識的に影響を与える現象である 10。例えば、ある単語を事前に見ておくと、後でその単語(あるいは関連する単語)を認識する速度が速くなるといった効果である。被験者は、先行刺激を「記憶している」という意識的な想起を伴わずに、その影響(パフォーマンスの向上)だけが現れる。これは非陳述記憶の一形態であり、大脳皮質の各感覚処理領域が関与すると考えられている。
D. 古典的条件付け (Classical Conditioning) と情動記憶 (Emotional Memory)
古典的条件付け(パブロフ型条件付け)は、非陳述記憶のもう一つの形態であり、本来は中性的な刺激(例:ベルの音)が、生物学的に意味のある刺激(例:餌や電気ショック)と繰り返し対提示されることによって、中性刺激が意味のある刺激の「予測信号」として学習される連合学習のプロセスである 10。
神経基盤:扁桃体 (Amygdala)
特に、恐怖やストレスといった強い「情動」が関わる記憶(情動記憶)の形成と固定化において、「扁桃体」と呼ばれる脳領域が決定的な役割を果たす 9。
扁桃体は、側頭葉の内側に位置し、大脳辺縁系の一部として感情(特に恐怖)の処理に深く関与している 12。扁桃体は、恐怖やストレスに関連した記憶の固定化(恐怖条件付け)において中心的な役割を担う 12。
扁桃体による記憶の「修飾(モジュレーション)」
扁桃体は、単独で情動記憶を保存するというよりも、他の主要な記憶システム(特に海馬が関わるエピソード記憶)を「修飾」または「増強」するモジュレーターとして機能すると考えられている。
扁桃体は「海馬と広範囲に相互作用」し、「感情的記憶の暗号化、検索、統合に寄与」する 12。これは、なぜ情動を強く伴う出来事(例:恐怖体験、事故、あるいは非常に喜ばしい瞬間)が、中立的な出来事よりも鮮明かつ永続的に記憶されるのか(フラッシュバルブ記憶など)を説明する神経基盤である。扁桃体は、その出来事の「顕著性(Salience)」や「重要性」を評価し、海馬や大脳皮質に対して「この記憶は生存に重要であるため、強く保存せよ」というシグナル(ストレスホルモンの放出などを介して)を送り、記憶の固定化プロセスを強力に促進すると考えられる 12。
また、セクションII-Bで触れたエングラム研究においても、恐怖記憶の想起回路として、初期は「海馬→扁桃体」、時間が経過した後は「前頭前皮質→扁桃体」という神経回路が使われることが示されており 7、扁桃体がエピソード記憶と情動を結びつける不可欠なハブとして機能していることがわかる 7。
IV. 記憶の形成、固定化、転送の動的メカニズム
記憶は、単に脳の特定の場所に「保存」される静的なものではなく、時間と共にその性質と神経基盤を変化させていく動的なプロセスである。このプロセスは、ミクロなシナプスレベルと、マクロな脳領域(システム)レベルの二つのスケールで理解される。
A. シナプスレベルの固定化 (Synaptic Consolidation)
短期記憶(数十秒)から長期記憶(数分以上)への移行は、神経細胞間の接続部位である「シナプス」のレベルで生じる。短期記憶は、既存のシナプスタンパク質の化学修飾による一時的なシナプス伝達効率の変化(例:短期増強)で説明されるが、長期記憶として安定化するためには、新たなタンパク質の合成と、それに伴うシナプスの構造的な変化(例:シナプス結合の新生や増強、長期増強現象 (LTP) の固定)が必要である 13。このタンパク質合成を必要とするプロセスが「シナプス固定化」である。
さらに、一度固定化された長期記憶であっても、それが「想起」されると、一時的に不安定な状態に戻ることが知られている。この不安定化は、シナプス伝達を担う既存のタンパク質の分解に起因する 13。そして、その記憶を再び安定化させるためには、新たなシナプスタンパク質の合成を必要とする「再固定化 (Reconsolidation)」というプロセスが必要となる。この再固定化のメカニズムが、記憶が想起されるたびに「更新」されたり、場合によっては変容・強化されたりする可能性を説明するものと考えられている 13。
B. システムレベルの固定化:エングラム理論の最前線
シナプスレベルの変化と並行して、記憶の痕跡は、より長い時間スケール(数日から数年)で、脳領域間(システム)レベルでの再編成を経る。これが「システムレベルの固定化」であり、特に海馬に依存する陳述記憶において顕著である。
このプロセスは、記憶の物理的実体である「記憶痕跡(エングラム)」を担う特定の神経細胞群(エングラム細胞)を標識・操作する近年の革新的な技術によって、その詳細なメカニズムが解明され始めている 7。
前述(セクションII-B)の通り、従来の「記憶が海馬から大脳皮質へ徐々に転送され、最終的に海馬が不要になる」という「標準モデル」 7 は、近年の研究によって大きく精緻化されている。7で詳述された研究成果は、より動的な「成熟と役割交替」の新モデルを提示している 7。
この新モデルの核心は以下の通りである:
- 同時形成: 記憶(エングラム)は、学習時に「海馬」と「前頭前皮質 (PFC)」に同時に生成される 7。
- 非対称な状態: しかし、初期状態において、海馬エングラムは想起に使われる「アクティブ」状態であるのに対し、PFCエングラムは存在するが使われない「サイレント」状態にある 7。
- 海馬による「教育」: その後の数日〜数週間にわたり、アクティブな海馬エングラムが、サイレントなPFCエングラムに対して持続的な神経入力を送る 7。
- 成熟とサイレント化: この海馬からの「教育的」入力こそが、PFCエングラムの構造的・機能的な「成熟」(例:樹状突起の数の増大)を引き起こすトリガーとなる。その結果、PFCエングラムが想起において「アクティブ」な役割を担うようになると、教師役であった海馬のエングラムは「サイレント」化し、想起への直接的な関与を停止する 7。
これは、記憶の「コピー&ペースト」のような単純な転送ではなく、海馬(短期的な教師役)からPFC(長期的な保存場所)への、時間のかかる「教育と権限移譲」のプロセスである。このモデルは、なぜ海馬が損傷すると新しい記憶が作れなくなるのか(教師がいないため)、そしてなぜ非常に古い記憶(既にPFCに移譲・成熟済み)は海馬の損傷の影響を受けにくいのか(健忘症におけるリーボットの勾配)を、極めて精緻に説明する。
C. メカニズムの統合的仮説
13で示されたミクロな「シナプスタグ」理論と、7で示されたマクロな「エングラム成熟」理論は、同一の現象を異なるスケールで記述している可能性がある。
「シナプスタグ(Synaptic Tagging)」仮説とは、LTPなどを誘導する刺激がシナプスに「タグ(目印)」を付け、そのタグが、細胞体で合成された新たなタンパク質(可塑性関連タンパク質)を「捕捉」することによってのみ、LTPが長期的に安定化(=長期記憶)するという理論である 13。
この二つの理論を統合すると、以下のような仮説が導き出される。7でいう「サイレントなPFCエングラム」とは、13でいう「シナプスタグ」が設定された(つまり、記憶の潜在的な痕跡はあるが、タンパク質合成による構造的固定化が未完了の)状態に対応するのではないか。そして、7でいう「海馬からの持続的な入力」こそが、このPFCのタグ付けされたシナプスにおいて、新たなタンパク質合成(13)を駆動し、構造的な成熟(7の樹状突起の伸展)を完了させるための決定的な「トリガー」として機能しているのではないか。この仮説は、分子レベルのメカニズムとシステムレベルのダイナミクスをエレガントに結びつける。
V. 総合考察:記憶システムの解離と相互作用
本報告書で概観したように、「脳の記憶の種類」は、それぞれ異なる特性と神経基盤を持つ、高度に専門化・モジュール化された複数のシステムとして理解される。
システムの解離 (Dissociation)
脳の記憶システムは、以下のように明確に「解離」可能である。
- 時間軸: 短期的な保持(ワーキングメモリ)と長期的な保存(長期記憶)。
- 意識: 意識的な想起(陳述記憶)と無意識的な想起(非陳述記憶) 1。
- 陳述記憶内: 文脈に依存するエピソード記憶(主に前頭葉に貯蔵) 5 と、文脈から独立した意味記憶(主に側頭葉に貯蔵) 5。
- 長期記憶システム間: 海馬に依存する陳述記憶と、海馬に依存しない手続き記憶(大脳基底核・小脳) 11。
システムの相互作用 (Interaction)
しかし、これらのシステムは完全に独立して機能しているわけではなく、実際の記憶体験は、これらの独立したモジュールが複雑に「相互作用」した結果として成立する。
- 情動とエピソードの結合: 7で示された恐怖記憶は、純粋な情動記憶(扁桃体)でも純粋なエピソード記憶(海馬・PFC)でもなく、両者が不可分に結合したものである。成熟した恐怖記憶の想起回路が「PFC→扁桃体」 7 であることは、この緊密な連携を象徴している。
- 情動による増強: 扁桃体(情動)が海馬(エピソード)と広範囲に相互作用し、記憶の暗号化と固定化を増強する(モジュレートする) 12。
結論
「脳の記憶の種類」を理解するとは、第一に、これらの「解離可能なシステム」の個別の特性と、それを支える神経基盤(海馬、大脳基底核、小脳、扁桃体、大脳皮質の各領域)を特定することである。
第二に、それらのシステムが、記憶の形成、固定化、想起という「動的なプロセス(Synaptic/Systems Consolidation)」において、時間経過と共にどのように「相互作用」し、その役割を変化させていくのか(例:海馬からPFCへの役割の移行 7)を解明することに他ならない。脳の記憶は、静的な「分類リスト」ではなく、動的に変化し続ける「システム群の相互作用」そのものである。
表1:脳の記憶分類体系と神経基盤の概要
| 主要分類 | サブ分類 | 具体的タイプ | 意識の関与 | 主要な神経基盤(脳部位) | 関連資料 |
| 時間軸による分類 | 感覚記憶 | (アイコニック/エコイック等) | 意識されない | 各感覚器官、初期感覚皮質 | 1 |
| 短期記憶 | (貯蔵) | 意識される | (特定困難、分散的) | 1 | |
| ワーキングメモリ | (貯蔵と処理) | 意識される | 前頭前野(PFC)など | 3 | |
| 長期記憶 | 陳述記憶 (宣言的/明示的) | エピソード記憶 (自伝的記憶) | 意識的想起 | 形成:海馬 貯蔵:前頭葉(前頭前野) | 1 |
| 意味記憶 (知識・事実) | 意識的想起 | 側頭葉(主に大脳皮質) | 1 | ||
| 非陳述記憶 (非宣言的/潜在的) | 手続き記憶 (スキル・習慣) | 無意識的想起 | 大脳基底核、小脳 | 1 | |
| プライミング | 無意識的想起 | 大脳皮質(各モダリティ領域) | 10 | ||
| 古典的条件付け (情動記憶) | 無意識的想起 | 扁桃体(情動)、小脳(運動性) | 9 |
引用文献
- 記憶の分類 – 脳科学辞典, https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E8%A8%98%E6%86%B6%E3%81%AE%E5%88%86%E9%A1%9E
- 記憶の概要 – 心理学事典 – 三京房, https://www.sankyobo.co.jp/dickio.html
- ワーキングメモリとは – 武田薬品工業 – 大人の発達障害ナビ, https://www.otona-hattatsu-navi.jp/how/working-memory/
- 意味記憶とエピソード記憶の違いは? : r/Mcat – Reddit, https://www.reddit.com/r/Mcat/comments/ee6bw6/difference_bw_semantic_and_episodic_memory/?tl=ja
- 脳と記憶|実熊 秀史 – note, https://note.com/hmjm292709/n/n194808fc78f5
- https://yumenavi.info/vue/lecture.html?gnkcd=g008534#:~:text=%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%89%E8%A8%98%E6%86%B6%E3%81%A8%E6%B7%B1%E3%81%84%E9%96%A2%E3%82%8F%E3%82%8A,%E8%A8%98%E6%86%B6%E3%82%92%E6%8B%85%E3%81%86%E5%99%A8%E5%AE%98%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82
- 海馬から大脳皮質への記憶の転送の新しい仕組みの発見 | 理化学研究所, https://www.riken.jp/press/2017/20170407_1/
- 「海馬」は記憶の必殺仕分け人? ~脳科学で記憶の仕組みを解明 …, https://yumenavi.info/vue/lecture.html?gnkcd=g008534
- https://note.com/hmjm292709/n/n194808fc78f5#:~:text=%E5%85%B7%E4%BD%93%E7%9A%84%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%80%81%E4%B8%8B%E5%9B%B3,%E4%BF%9D%E5%AD%98%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82
- https://uxdaystokyo.com/articles/glossary/implicit-memory/#:~:text=%E6%BD%9C%E5%9C%A8%E8%A8%98%E6%86%B6%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%A7%E3%82%82%E3%80%81%E3%80%8C%E5%AE%B6,%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E5%A0%B4%E5%90%88%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
- 手続き記憶 – 日本学術会議_おもしろ情報館, https://www.scj.go.jp/omoshiro/kioku3/kioku3_2.html
- 【2025年版】扁桃体の役割とは?:情動、記憶への影響と鎮める …, https://www.stroke-lab.com/news/40495
- 記憶固定化 – 脳科学辞典, https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E8%A8%98%E6%86%B6%E5%9B%BA%E5%AE%9A%E5%8C%96



