経済・金融における再帰性 ― 思考が現実を創造する市場の動態

これまでの論考で探求してきた物理的、知的、意味論的、そして認知的な再帰性は、すべてあるシステムが自己を参照し、自己を変化させるプロセスでした。この構造が、人間の集合的な認知と社会システムそのものとの相互作用において最も劇的に現れる舞台が、経済・金融システムです。ここでは、投資家ジョージ・ソロスが自身の哲学的考察と実践的経験から提唱した再帰性(Reflexivity) の理論を軸に、市場の動態を読み解きます。

1. 理論的基盤:ソロスの再帰性モデルと伝統的経済学への挑戦

伝統的な経済学、特に効率的市場仮説(Efficient Market Hypothesis) は、市場価格が利用可能な全ての情報を常に合理的に反映しており、市場は情報を処理して均衡に向かうと考えます。このモデルでは、市場参加者の思考や期待は、市場のファンダメンタルズ(企業の収益力や資産価値などの客観的現実)を受動的に反映するに過ぎません。

ソロスは、この見方を根本から覆します。彼の再帰性理論は、市場参加者の思考と市場の現実が独立しておらず、相互に影響を与え合う二重のフィードバックループを形成していると主張します。このループは、二つの関数によってモデル化できます。

  1. 認知関数 (Cognitive Function): y=f(x)これは、参加者が現実のファンダメンタルズ(x)を認識し、それに基づいて市場価格などへの期待(y)を形成するプロセスです。しかし、人間の認知は完全ではなく、常にバイアス、誤解、単純化といった可謬性(Fallibility) を伴います。したがって、期待 y は現実 x の完璧な写像ではなく、常に歪んだ像となります。
  2. 参与関数 (Participating Function): x=ϕ(y)これは、参加者の歪んだ期待(y)が、実際の投資行動(買いや売り)を引き起こし、その行動が現実のファンダメンタルズ(x)そのものを変化させるプロセスです。例えば、株価への強気な期待は大量の買いを呼び、株価を上昇させます。そして、上昇した株価は企業の資金調達コストを低下させ、設備投資を促進し、実際の企業価値(ファンダメンタルズ)を向上させることがあります。

この二つの関数が同時に作用することで、「期待が現実を形成し、その形成された現実が新たな期待を裏付ける」という、強力な再帰的フィードバックループが生まれるのです。市場は均衡に向かうどころか、本質的に均衡から逸脱し続ける動的なプロセスであると、ソロスは喝破しました。

2. 再帰性の発現:ブーム・バスト・サイクル

この再帰的ループが最も顕著に現れるのが、市場におけるブーム・バスト・サイクル(Boom-Bust Cycle) です。

  • ブーム(正のフィードバック・ループ):サイクルは、ある支配的なトレンド(例:インターネットの普及、住宅価格の上昇)と、それに対する参加者の支配的なバイアス(Prevailing Bias)(例:新技術への過大な期待)から始まります。
    1. 認知関数: 参加者は、このトレンドとバイアスに基づき、将来への楽観的な期待を形成します。
    2. 参与関数: この期待が投資行動を促し、資産価格を押し上げます。価格上昇は、企業の信用力を高め、消費者の資産効果を通じて支出を刺激するなど、ファンダメンタルズ自体を改善させます。
    3. 自己強化: 改善したファンダメンタルズは、当初の楽観的な期待が正しかったかのような錯覚を生み出し(認知関数の強化)、さらなる投資を呼び込みます(参与関数の強化)。このループが自己強化的に繰り返されることで、期待と現実は互いを追いかけるように乖離しながら上昇し、バブル(Boom)が形成されます。
  • バスト(負のフィードバック・ループ):しかし、現実からの乖離は無限には続きません。やがて信頼を揺るがす出来事(金融引き締め、規制強化、予期せぬ倒産など)が訪れると、トレンドとバイアスは反転します。
    1. 認知関数: 参加者は、悲観的な期待を形成し始めます。
    2. 参与関数: 期待の反転はパニック的な売りを誘発し、資産価格を暴落させます。価格下落は、企業の資金繰りを悪化させ、信用収縮を引き起こし、ファンダメンタルズを急激に悪化させます。
    3. 自己強化: 悪化したファンダメンタルズは、当初の悲観が正しかったことを裏付け、さらなる売りを呼び込みます。この破壊的な負のループが、市場を崩壊(Bust)へと導きます。2000年のITバブル崩壊や2008年の世界金融危機は、このブーム・バスト・サイクルの典型例です。

3. 課題と「基底条件」としての信頼

再帰性が支配する市場は、我々にいくつかの重要な課題を突きつけます。

  • 予測不可能性: 再帰的プロセスは、参加者の信念という測定不可能な要素に駆動される非線形システムであり、その帰結を正確に予測することは原理的に不可能です。市場は、合理的な計算機ではなく、集合的な心理が渦巻く劇場なのです。
  • モラルハザードの再帰性: 政府や中央銀行による市場介入は、それ自体が再帰的ループに組み込まれます。「危機が起きても中央銀行が救済してくれる」という期待(いわゆる「中銀プット」)は、参加者に過剰なリスクテイクを促す参与関数として機能し、結果としてより大きなバブルと、より深刻な危機を生み出すという、メタレベルでの再帰性を生み出します。

では、この終わりのないループにおける基底条件(停止条件) とは何でしょうか。物理的な限界や計算リソースの枯渇ではありません。それは、極めて人間的な概念、すなわち信頼(Credit/Trust)の崩壊です。ブームを支えていた支配的な「物語(Narrative)」が信じられなくなった瞬間、参加者の信念が臨界点を超えた瞬間、再帰的プロセスは逆回転を始めるのです。

4. 結論:社会科学における観察者効果としての再帰性

経済・金融における再帰性は、物理学における「観察者効果」の社会科学的アナロジーと見なせます。自然科学では、観察者は対象から独立した存在ですが、社会科学、とりわけ市場においては、観察者(参加者)の思考そのものが、観察対象(市場)を創造し、破壊するのです。

この洞察は、経済学に留まりません。政治における世論調査の結果が選挙結果自体に影響を与える現象、国際関係における「安全保障のジレンマ」(一国の防衛努力が他国の脅威認識を高め、軍拡競争を招く)など、人間の認知と期待が関わるあらゆる社会現象に、この再帰性の構造は見出せます。

ソロスの再帰性理論は、世界を静的な均衡状態としてではなく、常に変動し、決して予測通りにはならない、人間の思考と現実が織りなす複雑なタペストリーとして捉えることを我々に教えます。それは、我々が世界をどう認識するかが、我々が生きる世界そのものを変容させるという、深遠かつ実践的な真実を突きつける、強力な知的フレームワークなのです。