I. エグゼクティブサマリー
本報告書は、「人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律案」(以下「AI推進法案」または「本法案」という。)について、その背景、目的、主要な規定、国会審議の状況、専門家の意見、予想される影響、そして国際的な位置づけに至るまで、包括的な分析を提供するものである。
本法案は、日本のAI分野における研究開発及び活用の遅れを取り戻し、国際競争力を強化することを主眼とした振興策としての性格が強い。そのアプローチは、罰則を伴う厳格な規制(ハードロー)を避け、ガイドラインや自主的な取り組みを重視する「ソフトロー」を基本とし、イノベーションの促進とリスク対応のバランスを追求するものである。
主要な柱として、内閣総理大臣を本部長とし全閣僚を構成員とする「人工知能戦略本部」の設置、及び同本部が策定する「人工知能基本計画」が挙げられる。これらは、省庁横断的なAI戦略の策定と推進、そして技術の進展に合わせた柔軟な政策変更を可能にするための枠組みを提供する。
本法案は、2025年2月28日に国会に提出され、衆議院での審議を経て同年4月24日に可決、参議院に送付された。第217回国会(2025年6月22日会期末)中に成立する見込みである。審議過程では、軍事利用やAI生成物による権利侵害など、具体的なリスクへの懸念も示された。
専門家からは、法案の理念や方向性について概ね評価する声が聞かれる一方で、ソフトローアプローチの実効性、特に知的財産権(とりわけ生成AIと著作権)の問題や、海外事業者との競争条件の公平性、人材育成といった課題に対する具体的な解決策の必要性が指摘されている。
本法案の施行は、日本の経済社会に多大な影響を及ぼすと予想される。生産性の向上、新産業の創出、国民生活の質の向上といった恩恵が期待される一方、雇用構造の変化、倫理的課題、プライバシー侵害、情報セキュリティといったリスクへの適切な対応が求められる。日本は、本法案を通じて、EUの包括的規制や米国の市場主導型アプローチ、中国の国家主導型戦略とは異なる、独自のAIガバナンスモデルを模索し、国際社会におけるリーダーシップの発揮を目指している。本法案の成否は、今後の「人工知能基本計画」の具体的内容と、それを実行する「人工知能戦略本部」の指導力、そして社会全体の協力体制にかかっていると言えよう。
II. はじめに:AI推進法案の文脈
A. 立法の背景と根拠
人工知能(AI)技術、特に生成AIの急速な進展は、社会経済に革命的な変化をもたらす潜在力を秘める一方で、新たなリスクも顕在化させている 1。このような状況下で、「人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律案」(以下「AI推進法案」または「本法案」という。)が策定された背景には、いくつかの重要な要因が存在する。
第一に、日本におけるAIの研究開発及び活用の遅れに対する強い危機感がある。2023年のAIへの民間投資額において、日本は約7億ドルと、米国の約672億ドル、中国の約78億ドルと比較して著しく低い水準に留まっている 4。この「デジタル敗戦」とも評される状況 6 を克服し、国際競争力を回復・強化することが喫緊の課題と認識された。本法案は、この遅れを取り戻し、AI分野での日本のプレゼンスを高めるための国家戦略の一環として位置づけられる。
第二に、AI技術がもたらす恩恵を最大限に享受しつつ、潜在的なリスクを適切に管理する必要性が高まったことである。AIの悪用による偽情報の拡散、プライバシー侵害、著作権問題、さらには安全保障上の脅威など、多岐にわたる課題への対応が求められている 1。本法案は、イノベーションを阻害しない範囲で、これらのリスクに対応するための基本的な枠組みを定めることを意図している。
第三に、国際的なAIガバナンスの潮流も影響している。欧州連合(EU)が包括的かつ拘束力のある「AI法(AI Act)」を制定したのに対し 1、日本はソフトローを中心とした柔軟な制度構築を目指しつつも、国際的な調和を意識した法整備の方向へと舵を切った。政府は「世界で最もAIの研究開発、実装がしやすい国になることを目指す」2 と表明しており、これは潜在的により厳格な規制環境を持つ他国との差別化を図り、国際的なAI開発競争において有利な立場を築こうとする戦略的意図の表れと解釈できる。この「AIフレンドリー」という方針は、国内の「デジタル赤字」6 の解消を目指し、海外からのAI関連投資や高度人材を誘致するための魅力的な環境を提供するという狙いも含まれていると考えられる。日本のAI投資額や活用状況が他国に比べて遅れているという認識 4 や、EUのAI法のような国際的な動向 1 が、この法案策定の推進力となったことは明らかであり、本法案は、ある意味で外部環境の変化に対応する形で策定された側面も持つ。
B. 法案の目的(第1条)
本法案の第1条は、その目的を明確に規定している。すなわち、「人工知能関連技術が我が国の経済社会の発展の基盤となる技術であることに鑑み、人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する施策について、基本理念並びに人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する基本的な計画の策定その他の施策の基本となる事項を定めるとともに、人工知能戦略本部を設置することにより、科学技術・イノベーション基本法(平成七年法律第百三十号)及びデジタル社会形成基本法(令和三年法律第三十五号)その他の関係法律による施策と相まって、人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図り、もって国民生活の向上及び国民経済の健全な発展に寄与すること」である 1。
この目的規定は、AIを単なる技術の一つとしてではなく、国家の発展を支える基盤技術と捉え、その研究開発と社会実装を国家戦略として推進する意志を示している。国民生活の質の向上と経済発展という二つの目標を掲げることは、多くの国のAI戦略に共通する特徴である。
特筆すべきは、本法案が既存の重要な法律である「科学技術・イノベーション基本法」や「デジタル社会形成基本法」との連携を明示している点である 10。これは、AI推進施策を孤立したものとしてではなく、より広範な国家のイノベーション戦略やデジタル化政策の中に位置づけ、政策的整合性を図ろうとする意図の表れである。このようなアプローチは、既存の枠組みやリソースを活用し、AI施策を効率的に推進する上で有効である一方、AI固有の倫理的課題やリスクへの対応が、より大きな国家目標(イノベーション促進やデジタル社会形成)とのバランスの中で調整される可能性も示唆しており、今後の具体的な政策運営において注視が必要となる。
III. 立法概要と現在の状況
A. 正式名称と主要な期日(提出、審議、成立)
本法案の正式名称は「人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律案」である 10。
本法案は、2025年(令和7年)2月28日に第217回通常国会に提出された 3。その後、衆議院での審議が同年4月に開始され 5、4月24日には衆議院本会議で可決され、参議院に送付された 18。現在の会期末である2025年6月22日までに成立する見通しであると報じられている 5。
このように、法案提出から衆議院通過まで約2ヶ月という比較的短期間で審議が進んでいることは、本法案に対する政府・与党の強い推進意志と、主要野党を含む広範な政治的コンセンサス、あるいはAI分野における国際競争の激化を受けた喫緊の対応の必要性が背景にあると考えられる。日本が「AIフレンドリー」な国としての地位を確立し、AI分野での遅れを取り戻すためには、迅速な法整備が不可欠であるとの認識が共有されていることがうかがえる 4。
B. 国会における立法過程
本法案は、2025年2月28日の閣議決定を経て国会に提出された 5。衆議院では、内閣委員会を中心に審議が行われ、2025年4月18日には、自由民主党、公明党、立憲民主党、日本維新の会などの賛成多数で可決された。一方、日本共産党、れいわ新選組は反対した 21。その後、4月24日の衆議院本会議でも可決され、参議院での審議へと移行した 18。
審議過程においては、専門家からの意見聴取も行われた。例えば、2025年4月16日の衆議院内閣委員会では、松尾豊東京大学教授や生貝直人一橋大学教授らが参考人として意見を陳述した 6。質疑では、AIの軍事利用に関する懸念 21、AIがもたらすリスクへの対応策 23、そして本法案自体の必要性 23 などが議論された。特に、AIによって生成される精巧なポルノ画像・動画(いわゆるAIディープフェイク)への対策強化を求める附帯決議が衆議院内閣委員会で採択されたことは注目に値する 18。これは、本法案自体が主に振興を目的としたソフトロー的性格を持つ一方で、社会的に関心の高い特定のリスクに対しては、立法府としてより具体的な政府の対応を求める強い意志があることを示している。この附帯決議は、法案本文には含まれないものの、今後の政府によるガイドライン策定や既存法の改正運用に影響を与える可能性があり、ソフトロー的枠組みを補完する形で具体的な対策が進められることを示唆している。
以下に、本法案の立法過程における主要なマイルストーンを示す。
表1:AI推進法案の主要な立法マイルストーン
| 日付 | マイルストーン | 備考 |
| 2025年2月28日 | 閣議決定、国会(第217回通常国会)へ提出 | 5 |
| 2025年4月 | 衆議院にて審議開始 | 5 |
| 2025年4月16日 | 衆議院内閣委員会 参考人質疑 | 松尾豊氏、生貝直人氏などが意見陳述 6 |
| 2025年4月18日 | 衆議院内閣委員会にて可決 | 自民、公明、立民、維新など賛成多数。附帯決議採択 18 |
| 2025年4月24日 | 衆議院本会議にて可決、参議院へ送付 | 18 |
| 2025年6月22日 | 第217回通常国会会期末(成立見込み) | 5 |
IV. 法案の条文詳解
A. 定義:「人工知能関連技術」(第2条)
本法案第2条は、「人工知能関連技術」を「人工的な方法により人間の認知、推論及び判断に係る知的な能力を代替する機能を実現するために必要な技術並びに入力された情報を当該技術を利用して処理し、その結果を出力する機能を実現するための情報処理システムに関する技術をいう」と定義している 1。
この定義は、AIの核となる人間の知的活動を模倣・代替する基盤技術と、それを用いて具体的な情報処理を行うシステム技術の両方を含む、広範なものとなっている。このような包括的な定義は、将来の技術的進展にも対応しうる柔軟性を持つことを意図していると考えられる。
しかしながら、この広範さは、法適用の範囲に関する一定の曖昧さを生む可能性も指摘されている。ある専門家は、今後の技術進歩によってはこの定義から外れる技術も出現しうるとの懸念を示している 24。本法案が直接的な罰則を伴わないソフトローであるため 13、この定義に該当することの直接的な法的効果は、規制対象となることよりも、むしろ国の振興策の対象となったり、政府の施策への協力が期待されたりする点にある(事業者については第7条 11)。それゆえ、この定義の具体的な射程は、今後策定される「人工知能基本計画」(第18条 10)や関連ガイドライン、そして「人工知能戦略本部」(第20条 10)の運用を通じて、徐々に明確化されていくものと予想される。初期の広範な定義は、これらの実施機関に解釈と具体化の余地を残すものと言えるだろう。
B. AI推進の基本理念(第3条)
本法案第3条は、人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する基本理念を定めている。これらの理念は、今後のAI関連施策全体の方向性を示す重要な指針となる。
- 科学技術・イノベーション基本法及びデジタル社会形成基本法の基本理念の尊重(第1項):AI関連技術の推進は、既存の重要な法律である科学技術・イノベーション基本法及びデジタル社会形成基本法の理念を基礎とし、これらに加えて本条の理念に基づいて行われるものとされる 11。これは、AI戦略を国家のより広範なイノベーション政策及びデジタル化政策と整合させる意図を示す。
- 経済社会の発展と安全保障における重要性(第2項):AI技術は、経済社会発展の基盤であると同時に、安全保障の観点からも重要な技術と位置づけられる。この認識に基づき、日本のAI研究開発能力の保持と産業の国際競争力向上を目指す 11。この「安全保障」への言及は、本法案が単なる産業振興策に留まらない戦略的側面を持つことを示唆しており、研究開発の優先順位や資金配分に影響を与える可能性がある。国会審議においてもAIの軍事利用が議論されたことは 21、この安全保障次元の重要性を裏付けている。
- 基礎研究から活用までの総合的かつ計画的な推進(第3項):基礎研究から実用化、社会実装に至るまでの一貫した取り組みを総合的かつ計画的に推進する 11。
- 適正な実施のための透明性の確保と必要な施策(第4項):AI技術の不正利用や不適切な利用がもたらす権利侵害等のリスクを認識し、研究開発及び活用の過程における透明性の確保をはじめとする必要な施策を講じる 11。この「透明性」の原則は、信頼できるAIの基本要件として国際的にも重視されている(例:OECD AI原則 26)。ただし、本法案はソフトローであるため、透明性確保の具体的な義務や罰則を定めるものではなく、その実効性は今後のガイドラインや産業界の自主的な取り組みに大きく依存することになる。
- 国際的協調と日本の主導的役割(第5項):国際的な協調の下でAIの研究開発及び活用を推進し、日本が国際協力において主導的な役割を果たすよう努める 11。
これらの基本理念は、AI技術の持つ大きな可能性と、それに伴うリスクや課題を総合的に考慮し、持続可能で健全な発展を目指すための基本的な考え方を示している。
C. 主要な関係者の役割と責務(第4条~第10条)
本法案は、国、地方公共団体、研究開発機関、事業者、そして国民という主要な関係者それぞれに、AI関連技術の研究開発及び活用の推進における役割と責務を割り当て、社会全体での取り組みを促している。
表2:主要な関係者の役割と責務の概要
| 関係者 | 主要な責務 | 関連条文 | 典拠 |
| 国 | 基本理念にのっとり、AI関連技術の研究開発及び活用の推進に関する施策を総合的かつ計画的に策定・実施。行政事務におけるAIの積極的活用。必要な法制上・財政上の措置。 | 第4条、第10条 | 10 |
| 地方公共団体 | 基本理念にのっとり、国との適切な役割分担の下、地域の特性を生かした自主的な施策を策定・実施。 | 第5条 | 11 |
| 研究開発機関 | 基本理念にのっとり、AIの研究開発、成果普及、人材育成に積極的に努力。国及び地方公共団体の施策に協力。学際的・総合的な研究開発に努力。学問の自由等への配慮。 | 第6条 | 11 |
| 活用事業者 | 基本理念にのっとり、AIを活用した事業活動の効率化・高度化、新産業創出に積極的に努力。国及び地方公共団体の施策に協力。 | 第7条 | 11 |
| 国民 | 基本理念にのっとり、AIに対する理解と関心を深めるよう努力。国及び地方公共団体の施策に協力するよう努力。 | 第8条 | 11 |
| 関係者間の連携 | 国は、国、地方公共団体、研究開発機関及び活用事業者の間の連携強化に必要な施策を講じる。 | 第9条 | 11 |
特筆すべきは、事業者(第7条)及び国民(第8条)に対する「協力」の要請である。これらは直接的な罰則を伴わないものの 13、政府が推進する施策への参加を促す規範的な期待を形成する。特に事業者に対しては、今後の助成制度の利用資格や、第16条に基づく調査・指導の際の対応において、この協力義務が間接的な影響力を持つ可能性がある。例えば、悪質な事業者の公表といった措置が検討される場合 18、協力姿勢の欠如が一つの判断材料とされることも考えられる。国民に対する協力努力義務は、一般的な努力義務規定よりもやや強い表現が用いられているが 13、これも主に理念的なものと解される。
D. 推進のための基本的施策(第11条~第17条)
本法案の第2章(第11条~第17条)は、AI関連技術の研究開発及び活用の推進に関する国の基本的な施策を具体的に定めている。これらの施策は、研究開発から社会実装、人材育成、国際協力に至るまで、AIエコシステム全体を網羅する内容となっている。
- 研究開発の推進等(第11条):基礎研究から実用化のための研究開発までの一貫した推進、研究成果の移転体制整備、成果情報の提供等を行う 10。
- 施設及び設備等の整備及び共用の促進(第12条):大規模情報処理施設、通信設備、データセット等の知的基盤を整備し、研究開発機関や事業者が広く利用できるよう共用を促進する 10。AI開発には膨大な計算資源とデータが不可欠であり 24、特にリソースの限られる中小企業等にとっては、このような共有インフラの整備は極めて重要である。ただし、この施策の成否は、具体的な予算措置と運用体制の構築に大きく左右される。
- 適正性の確保(第13条):AIの研究開発及び活用の適正な実施を図るため、国際的な規範の趣旨に沿った指針の整備等、必要な施策を講じる 11。これは倫理的配慮や安全性確保に繋がる重要な規定である。
- 人材の確保等(第14条):地方公共団体、研究開発機関、事業者等と連携し、専門的かつ幅広い知識を持つ多様な人材の確保、育成、資質向上に必要な施策を講じる 11。
- 教育の振興等(第15条):国民が広くAIに対する理解と関心を深めるよう、教育・学習の振興、広報活動の充実等、必要な施策を講じる 11。
- 調査研究等(第16条):国内外のAI動向に関する情報収集、権利利益の侵害事案の分析・対策検討、調査を行い、その結果に基づき、研究開発機関や事業者等への指導、助言、情報提供等を行う 10。この規定は、政府に広範な情報収集権限と介入の余地を与えるものであり、特に悪質な事業者に対しては事業者名を公表するなどの「ネーム・アンド・シェイム」措置も可能と解釈されている 18。これは、直接的な罰則がないソフトローアプローチを補完する、間接的な執行メカニズムとして機能しうる。
- 国際協力(第17条):AIに関する国際協力を推進し、国際的な規範策定に積極的に参画する 11。
これらの施策は、AI技術のライフサイクル全体をカバーし、振興とリスク管理の両側面に対応しようとする政府の姿勢を示している。
E. 人工知能基本計画(第18条)
本法案第18条は、政府に対し、基本理念及び基本的施策を踏まえ、「人工知能基本計画」を策定することを義務付けている 10。この計画は、日本のAI戦略における中核的な文書となり、以下の事項を定めるものとされる 10。
- 人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する施策についての基本的な方針
- 人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関し、政府が総合的かつ計画的に講ずべき施策
- その他、施策を政府が総合的かつ計画的に推進するために必要な事項
人工知能戦略本部が作成した計画案について内閣総理大臣が閣議決定を求め、決定後は遅滞なく公表される 10。この計画は、法案施行後3ヶ月以内に策定される予定である 13。
人工知能基本計画の重要な特徴は、その適応性にある。第18条第5項は、計画の変更についても策定と同様の手続きを準用すると定めており 10、また、人工知能戦略本部が計画を毎年更新する方針も示されている 3。これは、AI技術の急速な進展や社会情勢の変化に柔軟に対応するための「アジャイル・ガバナンス」の考え方を反映したものであり、固定的な法律では対応しきれない動的な分野における政策運営のあり方として注目される。専門家からも、AI技術の進歩の速さから、法律自体の見直しも頻繁に行う必要性が指摘されている 6。
F. 人工知能戦略本部(第19条~第28条)
本法案第4章(第19条~第28条)は、AI関連施策を総合的かつ計画的に推進するため、内閣に「人工知能戦略本部」(以下「本部」という。)を設置することを定めている 10。
本部は、内閣総理大臣を本部長とし、内閣官房長官及び人工知能戦略担当大臣を副本部長、その他の全ての国務大臣を本部員として組織される 1。この総理大臣直轄の全閣僚参加型の体制は、AI戦略を国家の最重要課題の一つとして位置づけ、省庁の垣根を越えた強力なリーダーシップと政策調整を可能にすることを狙いとしている 1。
本部の主な所掌事務は以下の通りである 10。
- 人工知能基本計画の案の作成及び実施の推進
- その他、AI関連技術の研究開発及び活用の推進に関する重要施策の企画立案及び総合調整
本部は、その事務遂行のため、関係行政機関、地方公共団体、独立行政法人、事業者等に対し、資料提出、意見聴取、説明等の協力を求めることができる 11。
この人工知能戦略本部の設置は、日本のAI戦略における司令塔機能を確立するものであり、その実効性は、本部長である内閣総理大臣の指導力と、各省庁の協力体制、そして策定される人工知能基本計画の質に大きく依存する。伝統的な縦割り行政の弊害を克服し、真に省庁横断的な戦略を推進できるかどうかが、本法案の成否を左右する鍵となるだろう。
V. 専門家の意見とステークホルダーの視点
A. 国会ヒアリング及び学術専門家の見解
AI推進法案に関する国会審議や関連する議論においては、多くの学術専門家が意見を表明している。これらの見解は、法案の意義を評価しつつも、運用上の課題や将来的な懸念点を指摘しており、多角的な視点を提供している。
東京大学の松尾豊教授は、ChatGPT登場以降の日本政府の対応を高く評価しつつ、医療、行政、ロボティクスといった分野でのAI活用推進と、国内AI開発力の強化の重要性を強調している 6。また、AIのリスク管理とイノベーション促進は両立可能であり、本法案がハードローとソフトローの柔軟性を併せ持つ点を評価している 6。
一橋大学の生貝直人教授は、本法案を省庁横断的なリスク対応を可能にする基本法として意義深いとし、民事、刑事、知財など各法分野での調和の取れた対応の必要性を指摘した 6。また、AI技術や運用の実態を正確かつ継続的に把握するための「インテリジェンス基盤」の構築と、多様なステークホルダーの効果的な参画を提言している 6。
さくらインターネットの田中邦裕社長は、日本の「デジタル敗戦」状況からのAIによる巻き返しに期待を示し、国内AI産業の育成が国富流出を防ぐ鍵であると主張した 6。また、法治国家としてのAI管理と、海外事業者との公正な競争条件(イコールフッティング)の確保を訴えている 6。
GovTech東京の安野貴博氏は、本法案をイノベーション促進とリスク管理のバランスを取る重要な一歩と評価し、総理直轄のAI戦略本部の意義を強調した 6。専門知識を持つAI担当大臣の任命や、特区・サンドボックス制度を活用した人材育成の場の充実、AIへの平等なアクセス確保の必要性も指摘している 6。
専門家からは共通して、AI技術の急速な進展に対応するためのアジャイルなガバナンスの重要性や、人材育成が日本のAI戦略における死活的な課題であることが示唆されている 6。本法案第14条が人材確保等をうたっているものの 11、法制度整備だけでは解決できない根深い問題であり、長期的な教育改革や産業界との連携が不可欠である。
また、ソフトローアプローチの柔軟性を評価する声がある一方で 6、海外事業者との競争条件の不均衡や、既存の個別法の改正がAIのスピード感に対応できない可能性といった、実運用上の懸念も提示されている 6。これは、本法案が第一歩であり、今後より具体的な規制や執行メカニズム、あるいは個別法の迅速な見直しが求められる可能性を示唆している。
B. 法曹界の論評
法曹界からは、AI推進法案が詳細な規制を定めるものではなく、あくまで基本的な枠組みを提供するものであるとの認識が示されている 1。EUのAI法がより拘束的であるのに対し、日本の法案は柔軟性を重視し、国際的な調和を図りつつ独自のソフトロー路線を志向していると評価されている 1。また、本法案が既存のAI事業者ガイドライン等に法的根拠を与えるものとの見方もある 1。
一方で、懸念点も指摘されている。「人工知能関連技術」の定義が広範であり、将来的に技術の進展に対応できなくなる可能性や、解釈の曖昧さが残ること 24、そしてAI技術の進歩の速さから法律自体が早期に陳腐化するリスク 24 などが挙げられる。
特に深刻な懸念として、生成AIと著作権の問題が繰り返し強調されている。現行の文化庁の「考え方」では不十分であり、著作権者と開発者・利用者の双方にとって満足できる抜本的な解決策が必要であるとされている 24。本法案は枠組み法であるため、この問題を直接解決するものではないが、第16条に基づく調査や指導 11、あるいは人工知能基本計画を通じて、政府がこの問題にどのように取り組むかが注目される。この著作権問題への対応は、本法案が掲げる「アジャイル・ガバナンス」の試金石となり、効果的な解決策を提示できなければ、法案全体の信頼性にも影響しかねない。
その他、「活用事業者」の定義の明確化や 24、独立した研究者への支援の必要性なども課題として挙げられている。
C. 産業界・経済界の見解と懸念
産業界、特に中小企業からは、AI推進法案及び関連ガイドラインの遵守に伴う負担への懸念が表明されている。ガイドライン遵守のための体制構築にはコストと専門知識が必要であり、リソースの限られる中小企業にとっては重荷となる可能性がある 27。また、AI・DX人材の深刻な不足は依然として続いており、法制度整備だけでは即座の解決は困難であるとの認識が示されている 27。さらに、ガイドラインが「生きた文書」として頻繁に更新される場合、その変更に追随するための継続的な情報収集と体制維持のコストも懸念材料となっている 27。
EUのAI法に関しても、欧州産業界からは法的確実性の欠如や企業のコンプライアンスコスト増大への懸念の声が上がっており 28、これは日本企業にとっても他人事ではない。
これらの懸念は、本法案がソフトローであり直接的な罰則がないとしても、政府が推奨するガイドラインが事実上の業界標準となったり、市場での信頼性確保のために遵守が求められたりする場合、実質的なコスト負担が生じることを示唆している。したがって、政府にはガイドライン策定だけでなく、特に中小企業によるその導入・運用を支援する具体的な施策が求められる。
D. 国民及び市民社会からの意見
AI推進法案に関連する政府の「AI制度に関する中間とりまとめ(案)」に対しては、4,500件を超えるパブリックコメントが寄せられるなど、国民の関心の高さがうかがえる 29。多くの国民がAIの安全性や現行の規制に対して不安を感じているとの調査結果もあり 4、これはAI技術の社会受容性を高める上で重要な課題である。
地方公共団体からは、AI利用における機密情報・個人情報の取り扱い、職員のAIリテラシーの向上、管理外のAI利用(シャドーAI)といった実務的な課題や懸念が示されている 30。また、AI生成物の正確性や著作権侵害、悪用リスクなどに関する明確な指針や対策を求める声も上がっている 30。
これらの意見は、本法案の目的である「国民生活の向上」10 を達成するためには、技術振興だけでなく、国民の不安に応え、信頼を醸成するための取り組みが不可欠であることを示している。人工知能基本計画や今後のガイドラインにおいて、これらの国民的懸念にどのように対応し、具体的な情報提供や教育啓発活動(第15条 11)、権利侵害事例の調査と対策(第16条 11)を進めていくかが、法案の成功にとって鍵となる。
VI. 予想される影響と含意
A. 経済的影響:イノベーション、競争力、DX
AI推進法案は、日本の経済に対して多方面からの影響をもたらすと期待されている。AIの活用は、労働生産性を大幅に向上させる可能性を秘めており 31、旅行業、ハイテク産業、保険業など様々な分野で売上増加が見込まれている 31。また、AI導入と企業業績の向上には相関関係があることも示唆されている 31。
本法案の重要な経済的目標の一つは、日本の「デジタル赤字」6 の解消と、国内AI産業の育成・強化である 6。現在、多くのデジタルサービスを海外に依存している状況 32 を転換し、国内でのAI技術開発力と供給力を高めることが目指されている。また、AIは労働力不足の解消にも貢献しうると期待されている 33。
しかし、これらの経済効果を最大限に引き出し、かつ国内経済に裨益させるためには、単に海外のAI技術を応用するだけでなく、基盤モデルやコア技術を含む国内独自のAIエコシステムを育成することが不可欠である。そうでなければ、AI活用が進むほど海外への技術依存度が高まり、デジタル赤字をむしろ悪化させるというパラドックスに陥る危険性も指摘されている 6。したがって、本法案に基づく研究開発支援(第11条)やインフラ整備(第12条)が、真に国内のAI基盤技術力の向上に繋がるような戦略的な運用が求められる。人工知能基本計画において、この点がどのように具体化されるかが注目される。
B. 社会的影響:雇用、教育、生活の質
AI技術の普及は、社会構造にも大きな変革をもたらす。雇用面では、事務職や製造工程などの定型業務がAIに代替される可能性がある一方で、技術系専門職などの新たな雇用機会も創出されると予測されている 31。ただし、この変化は、特に女性の雇用に大きな影響を与える可能性が指摘されており 34、社会全体での対応が求められる。
本法案は、AI活用を通じて国民生活の質の向上を目指しており 1、医療、行政サービス、ロボティクス(介護、物流、防災など)といった分野での具体的な応用が期待されている 6。また、行政事務の効率化のために国がAIを積極的に活用することも定められている 10。
これらの社会変革に対応するため、AIに関する教育の振興と人材育成は極めて重要である。本法案も第14条で人材確保・育成を、第15条で教育・学習の振興をうたっているが 6、AI専門人材の育成だけでなく、既存労働者のリスキリングや生涯学習支援、そして新たな経済構造におけるジェンダー平等など、より広範な社会政策との連携が不可欠となる。人工知能基本計画が、これらの課題にどこまで踏み込めるかが問われる。
C. 倫理的配慮、リスク管理、安全性
AI技術の発展と普及は、倫理的な課題や新たなリスクも伴う。本法案は、基本理念において「透明性の確保」や「適正な研究開発及び活用」を掲げ 11、第13条では国際規範に沿った指針の整備を国に義務付け 11、第16条では権利侵害事案の調査や対策検討を行うとしている 11。偽情報・誤情報の流布、プライバシー侵害、アルゴリズムによるバイアスや差別、セキュリティ上の脅威などが、AI利用に伴う主要なリスクとして認識されている 6。
日本は、EUのような厳格な法的規制(ハードロー)ではなく、ガイドライン等を中心としたソフトローアプローチを基本としている 37。このアプローチは、イノベーションを促進する柔軟性を持つ一方で、リスク管理の実効性が問われる。特に、AI倫理や安全性に関する具体的な指針の内容、そして人工知能戦略本部による監視・指導体制のあり方が、国民の信頼を得る上で重要となる。もし、このソフトなガバナンスが機能せず、重大な倫理的問題や安全上のインシデントが発生した場合、より強固な規制を求める声が高まり、結果として「AIフレンドリー」な環境が損なわれる可能性も否定できない。
D. 知的財産及びデータガバナンスへの影響
AI、特に生成AIの急速な発展は、知的財産権、とりわけ著作権のあり方に大きな課題を突きつけている。専門家からは、現行の著作権法や関連する解釈では不十分であり、生成AIの学習データとしての著作物の利用や、AI生成物の著作物性について、抜本的な対応が必要との強い懸念が示されている 24。本法案自体はこれらの問題を直接解決するものではないが、第10条で国が必要な法制上の措置を講じることを定めており 10、また第13条の指針整備や第16条の調査等を通じて、政府がこの問題に取り組むための枠組みを提供している。
AIの学習と運用には大量のデータが不可欠であり、適切なデータガバナンスとデータインフラの整備も重要な課題である 24。本法案がIP問題やデータガバナンスに関して具体的な解決策を提示していないことは、当面の間、関連分野での法的不確実性を残す可能性がある。これにより、特に生成AI関連のビジネス展開において、企業が慎重な姿勢を取ることも考えられ、迅速なイノベーション促進という法案の目的と一時的に矛盾する可能性もある。人工知能戦略本部が、これらの課題に迅速かつ効果的に対応できるかどうかが、今後のAI産業の発展を左右する重要な要素となる。
VII. 国際的文脈と比較分析
A. 日本の「ソフトロー」及び「イノベーション促進」アプローチ
日本のAI推進法案は、国際的なAIガバナンスの潮流の中で、独自のアプローチを志向している。その最大の特徴は、罰則を伴う厳格な事前規制(ハードロー)を避け、事業者による自主的な取り組みや、法的拘束力のないガイドラインを中心とした「ソフトロー」を基本としている点である 2。これは、急速に進化するAI技術の特性を考慮し、イノベーションを阻害することなく、柔軟かつ機動的な対応(アジャイル・ガバナンス)を目指すものである。
政府は「世界で最もAIの研究開発、実装がしやすい国」を目指すとしており 2、この「イノベーション促進」重視の姿勢は、法案全体を貫く基本方針となっている。具体的な権利侵害やリスクに対しては、既存の個別法(刑法、著作権法、個人情報保護法など)によって対処することを原則とし 13、本法案自体は新たな包括的規制を設けるものではない 5。
このアプローチは、AI開発における自由度を高め、迅速な社会実装を促す可能性がある一方で、リスク管理の実効性や、国際的な規制基準との整合性が課題となる。日本の「ソフトロー」アプローチは、EUのような規制主導型とは一線を画し、AI分野での国際競争において、規制の軽さを武器に投資や人材を呼び込もうとする戦略的な位置づけとも解釈できる。ただし、この戦略が成功するためには、ソフトローであっても実質的なガバナンスが機能し、国民や国際社会からの信頼を確保することが不可欠である。もし「ソフトロー」が実質的なリスク対応の欠如と見なされれば、かえって日本のAI産業の国際的な評価を損なう危険性もはらんでいる。
B. OECD AI原則及びG7広島AIプロセスとの整合性
日本は、AIに関する国際的なルール形成にも積極的に関与しており、国内のAI政策もこれらの国際的な議論と軌を一にしている。特に、経済協力開発機構(OECD)が2019年に採択(2024年改訂)したAI原則は、信頼できるAIのための国際的な指針として広く参照されており、日本のAI活用ガイドラインも、人間中心の価値、公平性、透明性・説明可能性といったOECD AI原則と整合的であると評価されている 26。本法案においても、第13条で国際規範に即した指針の整備を、第17条で国際協力と国際規範策定への参画をうたっており、これらの国際原則を国内政策に反映させる意志が明確に示されている。
さらに、日本は2023年のG7議長国として「広島AIプロセス」を主導し、高度なAIシステム(特に生成AI)に関する国際的な指導原則及び行動規範の策定に貢献した 33。本法案も、このような国際的な枠組みとの連携を重視しており、国内措置を国際的に受け入れられる原則や枠組みと整合させるよう努めている 40。
日本の「ソフトロー」アプローチは、これらの国際的な原則や合意を国内で実践するための一つの方法論と位置づけることができる。つまり、人間中心で信頼できるAIという共通の目標を掲げつつ、その達成手段として、トップダウンの法的義務付けではなく、関係者の協力とアジャイルなガバナンスを重視するという日本の戦略的選択が、これらの国際的枠組みによって補強され、正当化される側面がある。
C. 比較概要:EU、米国、中国のアプローチ
日本のAI推進法案及びそのアプローチを理解するためには、主要国のAI規制・戦略との比較が不可欠である。
表3:AI規制・戦略に関する国際比較
| 特徴 | 日本(AI推進法案) | EU(AI法) | 米国 | 中国 |
| 主要目標 | イノベーション促進、国際競争力強化、国民生活向上 | 基本的人権保護、安全性・信頼性確保 | イノベーション促進、安全性確保、市民的自由の保護 | 国家戦略としてのAI覇権、経済発展、社会統制 |
| 法的性質 | ソフトロー中心(基本法、ガイドライン)、既存個別法活用 | ハードロー(包括的規則)、リスクベースアプローチ | ハードローは限定的、大統領令、自主規制、州法が先行、NIST等による標準化 | 複数の法律・規則による多層的規制(データ保護法、サイバーセキュリティ法等)、倫理規範、アルゴリズム登録、内容審査、社会主義的価値観の遵守 |
| 主要な規制・監督機関 | 人工知能戦略本部(内閣総理大臣ヘッド) | 欧州AI委員会、各国監督当局 | 連邦取引委員会(FTC)等既存規制機関、ホワイトハウスAI評議会、州当局 | 国家インターネット情報弁公室(CAC)等 |
| リスクアプローチ | リスク認識はあり、調査・指導等を行うが、包括的なリスク分類・義務付けはなし | 4段階のリスク分類(許容できないリスク、高リスク、限定的リスク、最小リスク)。高リスクAIには厳格な義務(適合性評価、登録、データガバナンス、透明性等) 43 | リスクベースの検討はあるが、連邦レベルでの統一的分類・義務は未確立。特定分野(例:自動運転)での規制。 | 「世論や社会動員能力を有する」AIサービス等に特別の制限。事実上の禁止技術も存在しうる。 |
| 執行・罰則 | 直接的な罰則なし。悪質事案への指導・助言、事業者名公表の可能性 18 | 重大な違反には高額な制裁金 43 | 既存法の範囲での執行。州法による罰則の可能性。 | サービス停止、刑事責任を含む厳しい罰則 |
| データガバナンス | データセット共用促進(第12条)。個人情報保護法等既存法規。 | 高リスクAIの学習データ品質基準等。GDPRとの関連。 | 包括的な連邦プライバシー法は未成立。州法(CCPA/CPRA等)が先行。 | 個人情報保護法(PIPL)、データ安全法(DSL)等による厳格なデータ管理・越境移転規制 46 |
| 生成AIと知的財産 | 深刻な懸念。本法案では直接解決せず、今後のガイドラインや法改正等に委ねる。 | 透明性義務(学習データの著作権情報要約の公開等)、EU著作権指令との整合。 | 議論活発。判例形成待ち。一部州法でディープフェイク対策等。 | 関連司法判例は人格権・知財権侵害が中心。AI生成物の著作物性等は未確定要素多い。 |
この比較から明らかなように、日本のAI推進法案は、EUの包括的かつ厳格な規制アプローチとも、現時点での米国の連邦レベルでの調整された規制が限定的な状況とも、そして中国の国家統制色の強いアプローチとも異なる、独自の位置を占めている。日本は、米国のイノベーション重視の気風を取り入れつつも、国家戦略としてAIを推進するための司令塔(人工知能戦略本部)を設ける点で、より調整されたアプローチを目指している。しかし、EUのような法的拘束力の強い規制や、中国のような直接的な国家介入は避けており、その実効性は、政府と産業界の協力関係や社会規範の成熟度に大きく依存することになる。この「良いとこ取り」とも言える戦略が、AIの負の側面を効果的に管理しつつ、日本の国際競争力を高めることができるかどうかが、今後の大きな課題となる。
VIII. 総括的分析と今後の展望
A. 本法案の主要な強みと潜在的な弱点
AI推進法案は、日本のAI戦略における重要な一歩であり、いくつかの明確な強みを持つ一方で、潜在的な弱点も内包している。
強み:
- 柔軟性と適応性:ソフトローを基軸とし、具体的な施策の多くを「人工知能基本計画」に委ねることで、技術の急速な進展や社会情勢の変化に合わせた機動的な政策変更が可能となる。特に、基本計画が定期的に見直されることは、アジャイル・ガバナンスの実現に寄与する。
- イノベーション促進:罰則規定を設けず、事業者の自主性を尊重する姿勢は、AIの研究開発や新たなビジネスモデルの創出を奨励し、国際競争で不利にならないよう配慮されている。
- 高いレベルでの政府のコミットメント:内閣総理大臣を長とする「人工知能戦略本部」の設置は、AI戦略を国家の最重要課題の一つとして位置づけ、省庁横断的な取り組みを推進する上での強力な推進力となりうる。
- 国際協調の重視:OECD AI原則やG7広島AIプロセスとの整合性を図り、国際的なルール形成への積極的な関与を目指す姿勢は、日本のAIガバナンスの国際的な受容性を高める。
潜在的な弱点:
- リスク管理の実効性:直接的な法的拘束力や罰則がないため、特に倫理的課題や安全性の確保に関して、事業者の自主的な取り組みだけでは不十分となる可能性がある。悪質な事業者への対応や、予期せぬ重大なリスク発生時の迅速な対応能力が問われる。
- 自主的協力への過度な依存:法案は事業者や国民の「協力」を前提としているが、その実効性は不透明である。インセンティブ設計や社会規範の醸成が伴わなければ、形骸化する恐れもある。
- 定義や範囲の曖昧さ:「人工知能関連技術」や「活用事業者」の定義が広範であるため、具体的な適用範囲や責任の所在が不明確になる場面が生じうる。これは、今後のガイドライン等で具体化される必要がある。
- 複雑な課題への対応力:生成AIと著作権の問題のように、既存の法体系との調整が複雑な課題に対して、本法案の枠組みだけでは十分な解決策を提示できない可能性がある。個別法の改正を含めた、より踏み込んだ対応が必要となる場合も考えられる。
B. 施行及び執行における課題
本法案の理念や目的を実現するためには、施行及び執行の段階で克服すべき多くの課題が存在する。
- 実効性のある協力体制の確保:事業者や研究機関等からの真摯な協力をいかに引き出すか。単なる努力義務に留まらず、実質的な連携を促すための具体的な仕組み作りが求められる。
- 質の高いガイドラインの策定と普及:第13条等に基づき策定される各種ガイドラインが、具体的で実践的、かつ国際的にも通用する内容となるか。また、特に中小企業等への普及・啓発活動も重要となる。
- 人工知能戦略本部の機能発揮:省庁間の利害調整や縦割り行政の弊害を乗り越え、真に戦略的な司令塔として機能できるか。総理大臣のリーダーシップと事務局体制の充実が鍵となる。
- 十分な予算とリソースの確保:研究開発支援、インフラ整備、人材育成といった振興策を実行するためには、継続的かつ十分な財政的裏付けが不可欠である。
- 技術進展への追随:AI技術の進化は極めて速く、数ヶ月単位で状況が変化しうる。法制度や基本計画、ガイドラインを常に最新の状態に保ち、機敏に対応できる体制を維持することが大きな挑戦となる。
- 「デジタル赤字」の克服と国内コア技術の育成:AI活用が海外依存を深めるのではなく、真に国内の技術力と産業基盤の強化に繋がるような戦略的誘導ができるか。
- 国民の信頼醸成:AIに対する国民の不安を払拭し、社会全体の受容性を高めるための継続的な対話と情報公開、教育啓発活動が求められる。
C. 日本におけるAIガバナンスの進展
本法案は、日本におけるAIガバナンスの確立に向けた重要な布石ではあるが、これが最終形ではないと理解すべきである。むしろ、AI技術の発展と社会への浸透に伴い、継続的に進化していく動的なプロセスの一環と捉えるべきだろう。
今後の展望として、まず注目されるのは、法案成立後速やかに策定される「人工知能基本計画」の具体的内容である。この計画が、本法案の理念をどのように政策レベルに落とし込み、優先課題や目標値を設定するかが、当面の日本のAI戦略の方向性を決定づける。
また、ソフトローアプローチの実効性が試される中で、特定の分野やリスクに対しては、より具体的な規制や個別法の改正、あるいは新たな立法措置が検討される可能性も排除できない。特に、著作権、プライバシー、差別、安全保障といった領域では、社会情勢や国際的な動向に応じて、より踏み込んだ法的対応が求められる場面も出てくるだろう。
人工知能戦略本部は、これらの変化を的確に捉え、機動的に政策を調整していく役割を担う。その活動を通じて、日本独自のAIガバナンスモデルが徐々に形成されていくことが期待される。
最終的に、本法案の成否は、日本が「AIフレンドリー」なイノベーション促進という目標と、複雑化する倫理的・社会的リスクの効果的な管理という目標を、主にソフトなガバナンスツールを用いていかに両立させられるかにかかっている。これは、人工知能戦略本部にとって、継続的なバランス調整を要する難題であり、その舵取りが日本のAIの未来を大きく左右することになるだろう。国際社会における日本の役割と責任も増しており、国内の取り組みと並行して、グローバルなAIガバナンスの議論にも引き続き積極的に貢献していくことが求められる。
引用文献
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