暗黙知(Tacit Knowledge)と形式知(Explicit Knowledge)

1. 暗黙知(Tacit Knowledge)と形式知(Explicit Knowledge)の定義

1-1. 暗黙知(Tacit Knowledge)

  • 言葉や文章で明確に説明しづらい知識
    暗黙知は、個人の経験や内面化された技能・思考様式・洞察力・直感・身体的な動きなどを通じて形成される「表現しにくい知識」を指します。名匠の職人技や、一流スポーツ選手の感覚、熟練パイロットの操縦のコツ、ピアニストの弾き方のコツなどが典型例です。
  • 身体的要素と精神的要素の両面を含む
    暗黙知には大きく分けて (1)「身体的」な知識(正確な動きや反射、身体感覚)と、(2)「認知的(精神的)」な知識(思考パターン、判断基準、洞察など)が含まれます。Michael Polanyi(マイケル・ポラニー)は「人は自分の知っていることの全てを言葉では説明できない」という言葉で暗黙知の本質を強調しました。
  • 本人が自覚していない部分もある
    暗黙知は、しばしば知識を保有している本人ですら十分に意識化・自覚していないことがあります。そのため、熟達者に「どうやってその動作をしているのですか?」と聞いても、「うまく説明できない」「体が勝手に動く」といった答えになる場合があります。
  • ノウハウの根幹になる
    暗黙知は、職人技や優れた技能、あるいは創造的活動の「コア」に当たるものであり、組織や社会において非常に重要です。たとえば料理人が「だしを取るタイミング」「味噌汁の火加減」「魚の焼き加減」などを経験的に培っていく過程で身につく微妙な調整感覚、これが暗黙知の好例です。

1-2. 形式知(Explicit Knowledge)

  • 文書化・可視化・共有化された知識
    形式知とは「テキスト・図表・データベース・マニュアル・動画・音声」など、何らかの媒体を通じて記録・表現・伝達できる知識のことを指します。通常、情報として蓄積・検索可能で、他者に比較的容易に伝達できるのが大きな特徴です。
  • 客観的な取り扱いが容易
    組織でよく使われる研修資料・取扱説明書・設計図・特許文書・論文などは典型的な形式知です。IT化・デジタル化が進むにつれ、これらの形式知はデータベースやクラウド上で保管・共有されるようになり、世界中の人がアクセスできるようになりました。
  • 人間以外も利用可能
    形式知は明確に記述されているため、AIやロボットなども一定のプログラムやセンサーなどを通じて利用できます。暗黙知は人間の経験・感覚に根ざしているので、機械に落とし込むには限界があったり、別の形で学習させる必要があります。

2. 暗黙知と形式知の対比構造

暗黙知と形式知はしばしば相反する概念のように捉えられますが、本質的には同じ知識の異なる側面であり、どちらか一方だけでは知識の全体像を捉えにくいと考えられています。

  1. 伝達の難易度
    • 暗黙知:伝えるのが難しい
    • 形式知:比較的容易
  2. 媒体化(文章・図表など)
    • 暗黙知:文章化できない/しづらい部分が多い
    • 形式知:明確に文書化可能
  3. 共有の範囲
    • 暗黙知:個人や特定の熟練者同士の経験則レベル
    • 形式知:不特定多数にも広く共有が可能
  4. 学習形態
    • 暗黙知:徒弟制度的なOJT、身体を通じた習得、口伝など
    • 形式知:テキストやマニュアル学習、座学など
  5. 組織的な扱いやすさ
    • 暗黙知:属人的で管理が難しい
    • 形式知:体系的に管理しやすい

3. 暗黙知が生まれる背景と本質

3-1. 経験の積み重ねと内面化

暗黙知は、長年の実践経験や反復練習を通じて養われるものです。その過程で、本人が経験を「自分の言葉・感覚・判断基準」に落とし込む(内面化する)ことで形成されます。例としては、以下のようなものがあります。

  • 名人の「手の感覚」
    たとえば陶芸家のロクロさばき、寿司職人がシャリを握るときの微妙な力加減、ギタリストが弦を押さえる力加減など、身体に蓄積される感覚的な要素。
  • 熟練プログラマの「コード匂い」
    短いサンプルコードを見ただけで「何か不具合がありそう」と瞬時に感じる“バグを嗅ぎ分ける勘”など、言語化しきれない思考経路。

3-2. 非言語コミュニケーションによる伝承

暗黙知は、たとえ文章化が難しくても、しばしば実際の動作を「目で見て真似る」「間近で体験する」「師匠のちょっとした表情や呼吸から感じ取る」という過程を通じて弟子や後輩へと伝わることがあります。これは日本の伝統芸能(能楽、歌舞伎、茶道、華道など)の流派における「口伝(くでん)」や「見取り稽古」にも通じる方法です。

3-3. 暗黙知が重要とされる理由

  • 模倣困難な競争優位
    企業がもつ暗黙知(熟練工のノウハウなど)は、ライバル企業が簡単に真似できないため、貴重な競争優位の源泉となります。
  • イノベーションの源
    暗黙知の中には、本人が意識していない優れた技術上の“秘訣”や創造的アイデアに繋がる「発見のタネ」が潜んでいることが多く、これが新しい製品やサービス、技術革新を生む土台になります。

4. 形式知がもたらすメリットと限界

4-1. メリット

  1. 大規模共有が容易
    文書やデータベース化されているので、インターネットや社内ネットワークを通じて世界中に共有可能。マニュアル一つで多数の人員を教育できる。
  2. 再利用・検索が容易
    書籍や論文、動画データ、設計書などに落とし込まれていれば、後世の人もアクセスして活用できる。過去の知見を積み上げ、さらに改良が可能。
  3. 客観的な検証が容易
    形式知として文章化や図示されているため、第三者によるレビュー・監査・数値的評価などもスムーズに行える。

4-2. 限界・課題

  1. コンテクストの損失
    文章化すると、実際の作業現場で発生する微妙なニュアンスや状況判断が抜け落ちやすい。これが暗黙知部分の切り捨てにつながる。
  2. 表現しきれない要素がある
    たとえば「粉と水の練り方」「道具を握る力の加減」といった物理的な情報でも、実際には感じ方が人によって違うため、文字情報にそのまま落とすと不十分になる場合が多い。
  3. 理解が知的レベルでとどまる
    形式知を読んだだけでは「理解した気になっている」だけで、実際に身体でできるわけではありません。運転免許の教則本を熟読しても、実際に運転できるようになるには実地訓練が不可欠なのと同じです。

5. 暗黙知と形式知を往還させるプロセス:SECIモデル

5-1. 日本の経営学者・野中郁次郎らの「知識創造理論」

Nonaka & Takeuchi(野中郁次郎・竹内弘高)によって提唱された「SECIモデル」は、暗黙知と形式知を組織的に循環させ、新たな知識を生み出すプロセスとしてよく知られています。SECI は次の4つのプロセスの頭文字をとったものです。

  1. Socialization(共同化)
    • 暗黙知 → 暗黙知
    • 例:現場OJT、先輩と後輩が一緒に作業することで技能を伝承
  2. Externalization(表出化)
    • 暗黙知 → 形式知
    • 例:熟練者が自身のノウハウをドキュメント化、図解化、口頭説明
  3. Combination(連結化)
    • 形式知 → 形式知
    • 例:他部門のマニュアルと自部門のマニュアルを組み合わせて新しいガイドラインを作成
  4. Internalization(内面化)
    • 形式知 → 暗黙知
    • 例:テキストや研修資料で学んだ知識を実践を通じて自分の技能・感覚として身につける

5-2. 組織や社会への示唆

このSECIモデルが示すのは、知識は「暗黙知」⇄「形式知」を往復しながら次第に拡大・深化していく という点です。単にマニュアルを配布して終わりにせず、熟練者との交流やフィードバックを通じて暗黙知を伝承し、うまく可視化・文書化(形式知化)し、それをまた別の文書やノウハウと組み合わせ、最終的に個々人が身をもって体得して次の暗黙知へと昇華する……このような知識循環が、イノベーションや組織学習の根幹になります。


6. 暗黙知と形式知の融合による実例

6-1. 製造業の職人技とマニュアル

たとえば、自動車産業や精密機械の世界では、熟練工の溶接技術や組立技術をビデオ撮影やセンサー計測し、それをマニュアルに落とし込む(形式知化)取り組みが進んでいます。しかし、実際に同じようにやってみても技術を再現できないことが多々あります。そこには、本人ですら明文化しきれていない熟練の勘(暗黙知)があるからです。最終的には、OJTや繰り返しの指導を通してしか得られない巧みさが残ります。

6-2. ソフトウェア開発のコードレビュー

ソフトウェアエンジニアにおいては、コーディング規約や設計パターン(形式知)を文書で共有できますが、「エラーを察知する勘」「複雑なロジックをシンプルに落とすセンス」といった暗黙知は言語化しにくい部分が多いです。ペアプログラミングや定期的なコードレビューを通じて、先輩エンジニアの思考プロセスを学ぶことで暗黙知が伝わります。

6-3. 芸術・スポーツ分野

  • バイオリン演奏
    楽譜(形式知)を読めば曲自体は理解できますが、一流演奏家のボウイングやビブラートの微妙なかけ方(暗黙知)は、実際に教わりながら試行錯誤しなければ習得できません。
  • サッカー選手のポジショニング
    戦術ボードや試合分析(形式知)は蓄積されますが、トッププレーヤーの“ここだ”という瞬間的なポジショニング感覚(暗黙知)は、長年の実戦経験やセンスに裏打ちされています。

7. 暗黙知を形式知化するためのヒント・方法論

暗黙知を全面的に形式知化することは困難ですが、部分的に可能とされています。ここではいくつかの方法論を提示します。

  1. インタビュー・ヒアリング
    熟練者にインタビューして、技術やポイントを段階的・体系的に聞き取る手法。質問の仕方を工夫し、「なぜそう判断したのか」「どういう基準で良し悪しを見極めるのか」を深堀りすると、暗黙知が少しずつ表出します。
  2. 動作計測・モーションキャプチャ
    職人やアスリートの身体動作をセンサーやカメラで測定し、定量化する手法。身体動作の特徴量を抽出し、可視化することで暗黙知の一部を形式知化できる可能性があります。
  3. メンタルモデルの可視化
    思考プロセスをフローチャートやマインドマップ、概念モデルに落とし込む手法。特に「何を優先して考えるか」「どういう場合にどの手段を選ぶか」といった判断基準を明示化すると、暗黙知の輪郭が見えやすくなります。
  4. ケーススタディの文章化
    成功した場面や失敗した場面を細かく事例としてまとめ、そのときどのような判断をしたかを記録しておく。多数のケースを積み重ねることで、暗黙知を取り出しやすくなります。

8. 暗黙知と形式知の将来展望

8-1. AI技術の進展と暗黙知へのアプローチ

ディープラーニングをはじめとする機械学習の進化により、「匂いを嗅ぎ分ける」「画像から熟練者の動作パターンを学習する」など、人間の暗黙知に相当する部分をAIが習得しはじめています。しかし、AIにとっては学習データがすべて形式知化されている(データとして存在する)必要があるため、完全に人間の暗黙知を再現するには課題が残ります。とはいえ今後、IoTやビッグデータの蓄積により、人間が暗黙裡に使っている指標や感覚が可視化される可能性があります。

8-2. 人間の創造性と暗黙知

暗黙知は、人間の創造的活動やイノベーションに深く関わります。あるレベルまではAIによる代替が進むかもしれませんが、最終的には「説明できないがすごいアイデア」「本能的なひらめき」などは人間がもつ固有の暗黙知の領域に支えられるでしょう。今後も「何を、どこまで形式知に落とし込み、何を暗黙知のまま保持するか」というバランス感覚が問われる時代になっていくと考えられます。


9. まとめ:暗黙知と形式知は車の両輪

ここまでかなり長文かつ丁寧に説明してきましたが、最終的なメッセージを以下にまとめます。

  1. 暗黙知は、経験や熟練を通じて得られる言語化困難な知識
    • 身体感覚・直感・思考パターンなど多面的。
    • 本人にさえ自覚しきれない部分がある。
  2. 形式知は、文章・図表・データなど形に残せる知識
    • 組織的に管理・共有しやすく、伝播力が高い。
    • ただし、コンテクストが抜け落ちやすいという限界がある。
  3. 両者は対立する概念ではなく、相互補完する関係
    • 暗黙知を表出化して形式知にし、それをまた実践で内面化して暗黙知に戻す……といったサイクルが知識を深化させる。
    • 企業や社会での学習やイノベーションには、この循環プロセスが欠かせない。
  4. 暗黙知をうまく形式知化・共有する技術が発展している
    • インタビュー・観察・計測・AI技術などを活用し、昔であれば不可能だったレベルの詳細なノウハウをデータ化しようという試みが進展している。
    • しかし、暗黙知のすべてを形式知化するのは難しく、人間の経験や創造性の根源的な部分に暗黙知は残り続ける。
  5. 最終的には“両輪”であるという理解が重要
    • 暗黙知だけでは属人的で再現性が低く、伝承が難しい。
    • 形式知だけでは創造性や現場の繊細なニュアンスを失いがち。
    • この両者をうまく活用することで、人・組織・社会の知識基盤は豊かになる。

10. 終わりに

以上、暗黙知と形式知の違いを解説しました。暗黙知と形式知は、単に「頭で分かっているか」「文字にできるか」といった区別だけではなく、人間の思考や行動、組織活動の根幹を支える奥深い概念です。

  • 暗黙知 によって「研ぎ澄まされた技能」や「直感的な洞察」が育まれ、
  • 形式知 によって「明確な共有」「継承」「検証」「広範な応用」が可能になる。

この二つは、まさに右足と左足のように互いを支え合う存在と言えます。現代社会においては、いかにして暗黙知を尊重しながら必要な部分を形式知として蓄積・活用するかが重要なテーマです。最先端のAI時代にあっても、人間ならではの暗黙知はまだまだ大きな価値を持ち続け、組織や個人の持続的成長のカギとして今後も重視されることでしょう。