二つの封筒: メッセージと命題の違いについての小説

プロローグ:図書館の窓辺

秋の午後、大学図書館の窓から差し込む光が、古い木製の机を照らしている。

ユウは一冊の論理学の教科書を閉じた。ページから立ち上る紙の匂いが、鼻をくすぐる。

「命題って、結局なんなんだ」

彼は小さく呟いた。

隣の席で、スマートフォンの画面を見つめていたアヤが顔を上げる。

「どうしたの?」

「いや、授業でさ。『命題とメッセージは違う』って先生が言ってたんだけど」

ユウは机の上に両手を広げた。

「正直、全然わからなくて」

アヤは微笑んだ。窓の外で、銀杏の葉が風に舞っている。

「じゃあ、話してあげる」

彼女はスマートフォンを机に置いた。画面には、友達からのメッセージが表示されている。

「これ、見て」

第一章:メッセージという乗り物

アヤの指が、画面を滑る。

「これはメッセージ。わかるよね?」

「うん」

「じゃあ、これは何を運んでるの?」

ユウは首を傾げた。

画面には「明日、カフェで待ち合わせね😊」という文字が光っている。

「約束…かな?」

「そう」アヤは頷いた。「でも、メッセージそのものは、ただの乗り物なの」

彼女はスマートフォンを持ち上げた。

「このデジタルの信号は、トラックみたいなもの。荷物を運ぶためにある」

ユウの目が、少し見開かれた。

「荷物?」

「そう。言葉とか、絵文字とか、写真とか」

アヤは画面をスクロールした。過去のメッセージが次々と現れる。

「昔のSMSは、短い文字しか運べなかった。小さなトラックみたいに」

「ああ、文字数制限があったやつ」

「そう。でも今は、写真も動画も送れる。大きなトラックになったの」

窓の外で、鳥が鳴いた。

ユウは机に肘をついた。

「じゃあ、メッセージって、中身じゃなくて…」

「容器なの」

アヤは言い切った。

図書館の静寂が、二人を包む。

ユウは深く息を吸った。

「でも、質問もメッセージだよね?」

「そう」

「命令も?」

「そう」

「じゃあ、メッセージって、真実かどうかは関係ないってこと?」

アヤの目が輝いた。

「そこ。そこが大事なの」

第二章:命題という積み荷

アヤは鞄から、小さなノートを取り出した。

ページをめくる音が、静かに響く。

「命題っていうのはね」

彼女はペンを走らせた。

『雪は白い』

「これ」

ユウは文字を見つめた。

「これが命題?」

「そう。でも正確には、この文字じゃない」

アヤはペンを置いた。

「この文字が『表現している内容』が命題なの」

ユウの眉間に、小さな皺が寄る。

「内容…?」

「うん。『雪が白いという事実についての主張』そのもの」

彼女は別のページを開いた。

『Snow is white』

「これ、英語だけど」

「うん」

「でも、表現してる内容は同じでしょ?」

ユウは頷いた。

「だから、これも同じ命題なの」

窓の外で、風が強くなった。銀杏の葉が、ガラスに当たる。

アヤは続けた。

「命題には、必ず真か偽がある」

「真か偽?」

「そう。『雪は白い』は真。『雪は黒い』は偽」

ユウは腕を組んだ。

「じゃあ、『ドアを閉めて』は?」

「それは命題じゃない」

アヤは即座に答えた。

「だって、真でも偽でもないでしょ?」

ユウの目が、また見開かれた。

「あ…」

「命令は、真偽を持たない。質問も、感嘆も」

彼女はノートに書き足した。

『今、何時?』→ 命題じゃない
『ドアを閉めて』→ 命題じゃない
『雪は白い』→ 命題

「命題は、世界について何かを主張するもの。だから、その主張が正しいか間違ってるか、必ず決まるの」

図書館の時計が、小さく音を立てた。

ユウは深く考え込んでいる。

第三章:交差する二つの世界

ユウは机の上の教科書を見た。

「じゃあ、メッセージと命題は…」

「別の世界のものなの」

アヤは言った。

「メッセージは、コミュニケーションの世界。送って、届けて、読む」

彼女はスマートフォンを指差した。

「命題は、論理の世界。真か偽か、考えて、証明する」

ユウは頷いた。

「でも、重なることもあるよね?」

「そう」

アヤは微笑んだ。

「メッセージが、命題を運ぶことがある」

彼女はノートに図を描いた。

封筒の絵。その中に、小さな紙。

「封筒がメッセージ。中の手紙が命題」

「なるほど…」

ユウの声が、明るくなった。

「でも、封筒には他のものも入れられる」

「そう。質問とか、詩とか、絵とか」

「それもメッセージだけど、命題じゃない」

「そういうこと」

窓の外の光が、少し傾いた。

ユウは立ち上がった。

「じゃあ、情報理論の話は?」

「ああ、シャノンの」

アヤも立ち上がる。

「あれはもっと面白いよ」

二人は図書館の奥へ歩き始めた。足音が、静かに響く。

「情報理論では、メッセージの『意味』は関係ないの」

「え?」

「大事なのは、『どれくらい予測できなかったか』だけ」

ユウは立ち止まった。

「予測…?」

「うん。ありふれたメッセージは、情報量が少ない。珍しいメッセージは、情報量が多い」

アヤは本棚の前で振り返った。

「だから、意味がある文章と、でたらめな文字列が、同じ情報量を持つこともある」

ユウは目を丸くした。

「それって…」

「そう。メッセージの世界と、命題の世界は、本当に別なの」

エピローグ:夕暮れの理解

図書館を出ると、空はオレンジ色に染まっていた。

ユウとアヤは、並んで歩く。

「なんか、すっきりした」

ユウは言った。

「メッセージは容器で、命題は中身。でも、容器には色んなものが入る」

「そう」

アヤは頷いた。

「そして、容器の性能と、中身の真偽は、別の話」

風が吹いた。二人の髪が、揺れる。

「先生が言ってたこと、やっとわかった気がする」

ユウは空を見上げた。

「『メッセージと命題は違う』って」

「うん」

「一つは、伝えるためのもの。もう一つは、考えるためのもの」

アヤは微笑んだ。

「そういうこと」

キャンパスの木々が、夕日に照らされている。

ユウはポケットからスマートフォンを取り出した。

「じゃあ、これから送るメッセージは…」

彼は画面に文字を打ち込む。

「『今日、ありがとう』」

「これはメッセージ。感謝を伝える容器」

アヤは笑った。

「でも、命題じゃない。だって、真でも偽でもないから」

「正解」

ユウは送信ボタンを押した。

アヤのスマートフォンが、小さく震える。

二人は歩き続けた。

夕暮れの中を、二つの影が伸びていく。

メッセージという封筒と、命題という手紙。

二つの世界を理解した彼らの足取りは、軽やかだった。