序論:企業の魂に関する一考察
現代の上場企業が発行する統合報告書は、単なるコンプライアンス遵守のためのツールや、グローバルな報告トレンドへの対応と見なされがちである。しかし、その底流を深く探ると、特に日本企業においては、100年以上前に日本の資本主義の父、渋沢栄一によって提唱された経営哲学が色濃く反映されていることが明らかになる。本レポートの中心的な論旨は、現代の統合報告書が、渋沢の主著『論語と算盤』に示される「道徳経済合一説」の現代的発露である、という点にある。日本企業の「価値創造ストーリー」を真に解読するためには、まず『論語と算盤』の思想的基盤を理解することが不可欠である。
本稿は、この論旨を多角的に検証する。まず、渋沢栄一の哲学の核心である「道徳経済合一説」を深く掘り下げ、その思想が単なる倫理観の提唱に留まらず、いかにして持続的な経済発展の戦略的基盤となり得るかを示す。次に、現代の企業報告の最前線にある統合報告書の構造と目的を分析し、その枠組みがどのようにして企業の全体像を描き出すかを明らかにする。そして、本レポートの核心部分として、渋沢の思想と統合報告書のアーキテクチャとの間に存在する、強固で直接的な思想的系譜を論証する。最後に、具体的な企業事例を通じて、この哲学が現代の経営戦略と企業報告にどのように実践されているかを示す。
この分析を通じて、本稿は、統合報告書という現代的なツールが、いかにして日本の企業文化に根差した歴史的哲学を内包し、それをグローバルな投資家やステークホルダーに向けた普遍的な言語へと翻訳しているかを解き明かす。これは、持続可能な資本主義に関する世界的な対話において、日本が提供しうる独自の視点と貢献を探る試みでもある。
第1部 思想的基盤:渋沢栄一の道徳経済合一説
1.1 道徳と利益の調和(論語と算盤):「道徳経済合一説」の教義
渋沢栄一が提唱した経営哲学の根幹をなすのが、「道徳経済合一説」である 1。この思想は、彼の主著のタイトル『論語と算盤』に象徴的に示されている。「論語」は孔子の教えに基づく道徳規範や人格形成の指針を意味し、「算盤」は利益追求を象徴する経済活動を指す 3。渋沢の独創性は、これら二つを対立するものとしてではなく、本質的に一致すべき、分かちがたいものとして捉えた点にある 1。
彼の主張によれば、道徳を欠いた利益追求は、短期的には成功を収めるかもしれないが、やがて社会の信頼を失い、持続不可能となる。逆に、経済的基盤を無視した道徳論は、実社会においては空論に過ぎず、何ら実質的な価値を生み出さない 1。渋沢は、特に当時の儒学者が富を卑しむ傾向にあったことを批判し、孔子が非難したのは不正な手段で得た富だけであり、道理にかなった方法で富を築くことは何ら問題がないと再解釈した 1。
この思想を理解する上で、しばしば用いられる「バランス」という言葉は、その本質を捉えきれていない可能性がある。渋沢の思想は、倫理と利益という二つの対立する力を天秤にかけるような「均衡」を求めるものではない。より深い次元で、彼は両者が「合一」し、「表裏一体」であるべきだと説いた 1。それは、一枚の紙の裏と表のように、決して引き剥がすことのできない関係性を意味する。この区別は極めて重要である。なぜなら、それは企業戦略の捉え方を根本的に変えるからだ。企業活動は、株主利益とCSR活動との間でトレードオフの関係にあるのではなく、倫理的な行動そのものが長期的な企業価値創造の原動力となる統合的アプローチであるべきだと示唆する。この視点に立てば、非倫理的な事業判断は、道徳的に問題があるだけでなく、長期的には必ず経済的破綻を招く愚かな経営判断であると結論付けられる 1。逆に、真に社会に貢献する事業は、それ自体が持続的な経済的成功の基盤となる。
1.2 究極の企業目的としての公益
渋沢の哲学において、企業の究極的な目的は、経営者個人の私的な富の蓄積ではなく、社会全体の利益、すなわち「公益」への貢献にあるとされた 2。利益とは、社会に価値を提供し、その発展に貢献した結果として得られる正当な報酬であり、目的そのものではない 5。
この論理は、極めて戦略的な洞察に基づいている。もし全ての企業が自己の利益のみを追求すれば、市場は過当競争に陥り、互いに利益を奪い合う消耗戦となる。その結果、経済システム全体が疲弊し、共倒れになる危険性を渋沢は指摘した 2。一方で、企業がまず社会全体の繁栄を第一に考えるならば、安定し成長する市場が形成される。その健全な市場の中でこそ、個々の企業もまた持続的な利益を享受できる。この考え方は、「公益」が「私利」に先行するという明確な順序性を示している 2。
ここで重要なのは、渋沢の言う「公益」が、単なる慈善活動や利益の一部を社会に還元するフィランソロピーとは一線を画す点である。それは、企業が利益を生み出す「方法」そのものに関わる戦略的な概念である。価値ある製品やサービスを提供し、安定した雇用を創出し、納税を通じて国家の財政を支え、事業活動が社会や環境の基盤を強化するように運営すること自体が、公益への貢献なのである。渋沢は、富を生み出さない事業に公益性はないと断言しており 5、健全な国家において貧しいことはむしろ恥であるとさえ述べている 1。したがって、彼の思想における公益の追求は、経済的成功を前提としたものであり、社会貢献を事業のコストとしてではなく、企業の持続可能性と市場の健全性を確保するための戦略的投資として位置付けている。これは、現代経営学における「共通価値の創造(Creating Shared Value)」の思想を先取りするものであった。
1.3 ステークホルダー資本主義の先駆的形態
渋沢の思想は、その全体像において、現代で議論される「ステークホルダー資本主義」の先駆的な形態と見なすことができる 9。アングロサクソン圏で主流となった株主の利益を最大化する「株主至上主義」とは対照的に、渋沢は従業員、取引先、顧客、地域社会、そして国家といった、企業を取り巻くあらゆる利害関係者(ステークホルダー)の幸福を考慮する全体的な視点を提唱した。
彼の労使関係に関する見解には、この思想が明確に表れている。彼は、労働者を単なる利益追求の道具と見なす搾取的な関係を否定し、使用者と労働者が互いに尊重し合い、公正な関係を築くべきだと主張した 6。また、富は個人の努力だけで築かれるものではなく、国や社会の助けがあって初めて得られるものであるから、それは個人の専有物ではなく、社会からの信託物であると考えた 5。したがって、富を得た者は、それを社会に還元する責任を負う。
この渋沢の思想が日本経済の根底に深く浸透していたことは、20世紀後半にグローバル経済を席巻した株主至上主義のドクトリンが、日本において米国や英国ほど完全には根付かなかった一因を説明する。渋沢思想や、近江商人の「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」といった文化的土壌は 10、株主利益のみを偏重する考え方に対する一種の「思想的免疫」として機能した。日本の企業が、終身雇用や系列関係、長期的な視点といった経営慣行を維持し続けた背景には、こうした哲学的な下地が存在した。その結果、21世紀に入り、世界の潮流がESG(環境・社会・ガバナンス)や持続可能性、ステークホルダーへの配慮へと回帰した際、日本企業は全く新しい概念を導入するというよりも、むしろ自らが長年培ってきた価値観を表現するための現代的な言語とフレームワークを獲得したと捉えることができる。統合報告書が日本で急速に、かつ質の高いレベルで普及した背景には、このような歴史的・文化的受容性の高さがあったのである。
第2部 現代的発露:統合報告書の構造
2.1 企業開示の進化:財務諸表から全体的物語へ
企業の情報開示は、歴史的に財務情報が中心であった。損益計算書や貸借対照表を含む有価証券報告書などは、企業の過去の業績と有形資産を評価するための主要なツールとして機能してきた 12。しかし、20世紀末から21世紀にかけて、この伝統的なモデルは次第にその限界を露呈し始める。
その最大の理由は、企業価値に占める無形資産の重要性の増大である。ブランド価値、知的財産、人的資本、顧客との関係性といった、貸借対照表には現れない資産が、企業の競争優位性と将来の収益力を左右する決定的な要因となった 14。さらに、地球環境問題や社会問題への関心の高まりを背景に、ESG投資が世界的に拡大。投資家は、企業の長期的なリスクと持続可能性を評価するため、環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)に関する非財務情報を積極的に求めるようになった 12。
こうした状況下で、財務情報と非財務情報を統合し、企業が長期的に価値を創造する能力について、包括的かつ整合性のとれた説明を提供する新たな報告媒体として登場したのが「統合報告書」である 13。
この進化の背景には、伝統的な会計システムが抱える「測定のギャップ」を埋めるという強い動機が存在する。財務諸表は、渋沢の言葉を借りれば「算盤」の側面、すなわち経済的成果を測定することには非常に優れている。しかし、「論語」の側面、すなわち企業の倫理観、社会との信頼関係、従業員の潜在能力、自然環境への配慮といった価値の源泉については、ほとんど沈黙を守る。ESGや無形資産への注目は、市場が、渋沢が持続的成功に不可欠と見なしたこれらの要素を、何とかして可視化し、分析可能な情報として報告させようとする要求の表れに他ならない。統合報告書は、この抽象的で測定困難とされてきた価値を、企業の戦略的文脈の中に位置づけ、ステークホルダーに提示するために設計されたツールなのである。
2.2 価値創造の解剖学:IIRCフレームワークと6つの資本
統合報告のグローバルな標準となっているのが、国際統合報告評議会(IIRC、現在はIFRS財団に統合)が公表した「国際統合報告フレームワーク」(フレームワーク)である 14。このフレームワークの中核をなすのが、「6つの資本」という概念である。これは、企業が価値創造のために利用し、影響を与える資源を、以下の6つのカテゴリーに分類するものである 19。
- 財務資本 (Financial Capital): 企業が事業活動に利用できる資金。
- 製造資本 (Manufactured Capital): 建物、設備、インフラなどの物理的資産。
- 知的資本 (Intellectual Capital): 特許、著作権、ブランド、組織のノウハウなどの無形資産。
- 人的資本 (Human Capital): 従業員の能力、経験、意欲。
- 社会・関係資本 (Social and Relationship Capital): ステークホルダーとの関係性、信頼、ブランドの評判。
- 自然資本 (Natural Capital): 水、大気、土地、生物多様性などの再生可能・再生不可能な環境資源。
フレームワークによれば、企業の価値創造プロセスとは、これらの6つの資本をインプットとして、自社のビジネスモデルを通じて変換し、アウトプット(製品・サービス)とアウトカム(資本への影響)を生み出す活動である 19。理想的な企業活動は、このプロセスを通じて、6つの資本の総量を長期的に増加させる。
この6つの資本という概念は、単なる報告項目のチェックリスト以上の意味を持つ。それは、経営陣に「統合的思考(Integrated Thinking)」を促すための強力な概念的フレームワークである 14。伝統的な組織では、CFOは財務資本に、人事部長は人的資本に、サステナビリティ担当役員は自然資本に、それぞれがサイロ化された形で責任を負うことが多い。しかし、6つの資本フレームワークは、これらの資本が独立しているのではなく、相互に依存し、変換し合うものであることを前提としている 20。例えば、財務資本を投じて従業員研修を行えば(人的資本の向上)、それがイノベーションを促進し(知的資本の向上)、将来の財務リターンへと繋がる。
統合報告書を作成する企業は、こうした資本間の変換プロセスを説明することが求められる。そのためには、まず経営陣自身が、自社の事業をこのような統合的かつ全体的な視点で捉え直さなければならない。この思考プロセスは、企業に渋沢的な世界観を半ば強制的に導入する。例えば、河川を汚染する(自然資本を毀損する)という決定は、もはや単なる「外部不経済」として片付けられる問題ではなく、地域社会からの信頼(社会・関係資本)を損ない、ひいては長期的な財務リスク(レピュテーションリスクや規制リスク)に直結する経営課題として認識されるようになるのである。
2.3 「価値創造ストーリー」:未来志向の道徳的物語
統合報告書が最終的に提供する中核的な成果物は、「価値創造ストーリー」と呼ばれる物語である 13。過去の業績報告に重点を置く伝統的な報告書とは異なり、統合報告書は本質的に「将来志向」である 15。企業は、自社の存在意義(パーパス)や長期的なビジョンを明確にし、そのビジョンを達成するための戦略を具体的に示さなければならない。そして、その戦略が、自社のリソース(6つの資本)を、社会のニーズや市場の機会と結びつけ、最終的に全てのステークホルダーにとっての価値をいかにして創造していくのか、その一貫した論理的な道筋を物語として語ることが求められる。
この価値創造ストーリーは、単なる戦略計画の開示に留まらない、より深い機能を持つ。それは、企業が社会およびステークホルダーと結ぶ、一種の公的な「誓約(Covenant)」として機能する。このストーリーを公表することによって、企業は自らの目的と行動規範について公的な約束をすることになる。これは、強力なアカウンタビリティ(説明責任)のメカニズムを生み出す。ステークホルダーは、その企業を四半期ごとの利益だけでなく、自ら掲げた長期的で目的志向の物語に対する進捗状況によって評価することが可能になる。
渋沢の哲学は、儒教的な徳治主義に基づき、経営者の人格や信頼(信用)を事業の根幹に据えた 8。巨大化した現代企業において、この個人的な徳や信頼をいかにして組織的に制度化し、担保するかが課題となる。価値創造ストーリーは、この問いに対する一つの答えを提供する。それは、経営トップによる公的な意思表明であり、企業の「魂」の開示である。もし、企業の実際の行動(例えば、大規模なリストラや環境汚染)が、人的資本や自然資本を尊重すると謳った美しい価値創造ストーリーと矛盾すれば、深刻な「言行不一致」が生じる。この不一致は、単なる業績未達よりもはるかに深刻な形で、企業の信頼と評判(社会・関係資本)を毀損する。なぜなら、それは企業の道徳的、あるいは戦略的な破綻を露呈するからである。このようにして、統合報告書は、渋沢の思想と完全に共鳴する、新たな、そしてより強力な企業評価の軸を創出するのである。
第3部 統合:論語を統合報告書に織り込む
3.1 「公益」から「ステークホルダー資本主義」へ:思想的連続性
渋沢栄一の思想と現代の経営潮流との間には、明確な思想的連続性が存在する。ESG、SDGs(持続可能な開発目標)、そしてステークホルダー資本主義といった概念は、日本企業にとって全くの舶来思想ではなく、むしろ渋沢が提唱した「道徳経済合一説」を現代的な語彙で再表現したものであると言える 5。
渋沢が最重要視した「公益」の追求は、株主だけでなく、従業員、顧客、取引先、地域社会といった全てのステークホルダーの利益を考慮し、価値を創造しようとするステークホルダー資本主義の理念と直接的に通底する 10。この思想は、日本の商習慣に古くから根付く「三方よし」の精神によっても補強されてきた 10。
この思想的統合を象徴するのが、渋沢の玄孫である渋澤健氏が指摘する、『論語と算盤』というタイトルにおける助詞「と」の重要性である 28。これは「論語
か算盤か」という二者択一を迫るものではない。「論語と算盤」という並列は、両者の組み合わせ、すなわちシナジーと統合を示唆している。この単純な接続助詞に込められた思想は、「統合報告書」の核心的な概念と完全に一致する。両者は、道徳と利益、あるいは非財務価値と財務価値という二元論的な対立を拒絶し、その統合と融合を前提としている。この言語的・哲学的な並行関係は、渋沢の思想が現代の統合報告書の精神的基盤となっていることを力強く示している。
3.2 6つの資本:道徳的価値を測る現代の「算盤」
渋沢の思想は哲学的・理念的なものであったが、それを現代の巨大企業で実践するためには、具体的な管理と測定の枠組みが必要となる。ここで、「6つの資本」フレームワークが決定的な役割を果たす。それは、渋沢の「論語」の側面を測定し、管理するための、いわば現代の「算盤」として機能する。
6つの資本フレームワークは、これまで抽象的で測定困難とされてきた道徳的・社会的価値を、具体的な資本ストックとして捉えることを可能にする。
- 人的資本は、渋沢が重視した人材育成や従業員の幸福度を可視化する。
- 社会・関係資本は、事業の基盤である「信用」や「信頼」、ステークホルダーとの良好な関係性を評価する指標となる。
- 自然資本は、自然との調和という理念を、環境資源の利用と保全という観点から定量的に管理することを可能にする。
このように、6つの資本は、抽象的な道徳目標を、取締役会レベルで議論・管理可能な具体的な経営指標へと転換する。以下の表は、渋沢の哲学と国際統合報告フレームワークの要素が、いかに深く対応しているかを示している。
| 渋沢栄一の「論語」的原則 | 対応するIIRCフレームワークの要素 |
| 道徳経済合一 | 統合的思考 及び 統合報告書そのものの基本概念 |
| 公益第一 | 社会・関係資本 及び ステークホルダー・エンゲージメントのプロセス |
| 人材育成 | 人的資本 |
| 信用・信頼 | 社会・関係資本 及び ガバナンスの柱 |
| 自然との調和 | 自然資本 |
| 永続的発展 | 長期的な価値創造 及び 将来志向の視点 |
| 富の公正な分配 | 財務リターンだけでなく、全ステークホルダーに対するアウトカム |
この対応関係は、統合報告書が単なる偶然の産物ではなく、渋沢の思想が現代のグローバルな報告基準の中に、構造的な形で埋め込まれていることを示唆している。「公益」が「社会・関係資本」に、「人材育成」が「人的資本」に直結するこの構造は、統合報告書が渋沢哲学を実践するための極めて有効な経営ツールであることを明らかにしている。
3.3 価値創造ストーリー:企業道徳の公的宣言
これらの要素が統合された最終的な表現形が、価値創造ストーリーである。これは、企業が自らの「論語と算盤」を社会に対して公的に宣言する場となる。企業はまず、自社の存在意義という道徳的な目的(論語)を掲げ、次に、その目的を自社の経済活動(算盤)を通じていかにして達成するのかを、データと戦略をもって論理的に示さなければならない。
この物語は、企業の倫理的コミットメントと財務戦略を結びつけ、両者が「表裏一体」であることを証明するものでなければならない 15。もし、掲げられた高邁なパーパスと、実際のビジネスモデルや資源配分との間に乖離があれば、その報告書は、見識あるステークホルダーから信頼性を欠くものと見なされるだろう。そのような報告書は、価値を創造するどころか、企業の評判を毀損し、社会・関係資本を破壊する結果を招く。したがって、価値創造ストーリーを語るという行為そのものが、企業に対して高いレベルの自己規律と誠実さを要求し、渋沢が説いた道徳的経営を現代において制度的に実現する役割を担っているのである。
第4部 実践される哲学:日本企業における事例研究
4.1 明示的な継承:清水建設と社是「論語と算盤」
渋沢栄一の思想と統合報告書の直接的な関係を示す最も明確な事例が、清水建設である。同社は、1887年に相談役として迎えた渋沢栄一の教えである「論語と算盤」を、現在に至るまで「社是」として掲げている 26。
同社の統合報告書を分析すると、この社是が単なる歴史的な飾りではなく、現代の経営戦略を貫く能動的な指導原理として機能していることがわかる。報告書の中で、同社は「論語と算盤」の考え方を「道理にかなった企業活動によって社会に貢献し、結果として適正な利潤をいただき社業を発展させる」ものと説明し、これが現代の「ESG経営そのもの」であると明言している 26。
具体的には、長期ビジョン「SHIMZ VISION 2030」において、持続可能な未来社会の実現への貢献を掲げ、その実現プロセスを価値創造ストーリーとして詳述している 30。安全・安心でレジリエントな社会の実現、健康・快適に暮らせるインクルーシブな社会の実現、地球環境と共生する社会の実現といったマテリアリティ(重要課題)は、まさに「公益」を追求する渋沢の思想を現代的に解釈したものである。清水建設の事例は、本レポートの論旨が単なる推論ではなく、企業自身が明確に意識し、実践している経営哲学であることを示す、動かぬ証拠と言える。
4.2 暗黙的な整合性:王子ホールディングスとIHIの価値創造物語
渋沢の名前を明示的に掲げていなくとも、その思想が経営の根幹に深く浸透している企業は数多く存在する。製紙業界の雄である王子ホールディングスと、総合重工業のIHIはその代表例である。
王子ホールディングスの統合報告書は、「環境・社会との共生」を経営理念の柱の一つに掲げ、持続可能な森林経営を事業の基盤に据えている 32。同社は国内外に広大な社有林を保有し、その森林資源をサステナブルに活用することで、環境問題の解決に貢献し、新たな価値を創造するストーリーを描いている 35。これは、自然資本を保全・育成し、それを基に製造資本、知的資本、そして財務資本を生み出すという、6つの資本の好循環を体現するものであり、渋沢が説いた自然との調和と永続的発展の理念と完全に一致する。
一方、IHIは、グループのありたい姿として「自然と技術が調和する社会を創る」ことを掲げている 37。同社の統合報告書は、170年以上の歴史で培った技術という知的資本・人的資本を核として、CO2排出削減やアンモニア燃焼技術といった社会課題の解決に貢献し、新たなバリューチェーンを創造していくという価値創造ストーリーを明確に示している 38。これは、自社の強みである経済活動(算盤)を通じて、社会全体の利益(公益)を追求するという、渋沢思想の王道を行くアプローチである。
これらの事例は、渋沢の思想が、彼が直接関与した企業に留まらず、日本の責任ある企業経営の広範なDNAの一部として受け継がれていることを示している。その哲学は、明示的に語られずとも、文化的な底流として企業の長期戦略を形成しているのである。
4.3 永続する遺産:日本のコーポレートガバナンス・コードへの影響
渋沢の思想の影響は、個々の企業の経営哲学に留まらず、日本の上場企業を規律する制度的枠組みにまで及んでいる。その代表が、日本の「コーポレートガバナンス・コード」である。
このコードは、株主との建設的な対話、従業員や取引先を含む多様なステークホルダーとの協働、そして企業の持続的な成長と中長期的な企業価値の向上を基本原則としている。これらの原則は、統合報告書における情報開示の質を向上させる直接的な動機付けとなっており 39、その思想的背景は、渋沢のステークホルダーを重視する長期的視点と深く共鳴している。
つまり、統合報告書の発行は、単に企業が自発的に自社の哲学を表現する行為であるだけでなく、日本のガバナンス・フレームワークそのものが、渋沢的な価値観を制度として組み込み、企業にそれを実践・開示するよう促した結果でもある。コーポレートガバナンス・コードは、渋沢の哲学的な遺産を現代企業が遵守すべき公式な規範へと変換する「伝達メカニズム」として機能している。統合報告という手法が、これほどまでに日本の企業社会に深く、広く根付いたのは、その土壌が、企業の目的は何かという根本的な問いに対して、渋沢以来の思想的コンセンサスによって既に耕されていたからに他ならない。
結論:価値の未来は統合される
本レポートを通じて行われた分析は、日本の上場企業が作成する統合報告書が、渋沢栄一が『論語と算盤』で提唱した「道徳経済合一」の哲学を現代に受け継ぐ、正統な後継者であることを明確に示している。それは、財務情報と非財務情報を単に並列させる報告書ではなく、企業の道徳的指針(論語)と経済的活動(算盤)が不可分であり、相互に強化し合う関係にあることを証明するための、戦略的なコミュニケーション・ツールである。
渋沢は、企業の真の価値が、短期的な利益の最大化ではなく、社会全体の公益への貢献を通じて、長期的に築かれると説いた。現代の統合報告書は、この思想を「6つの資本」と「価値創造ストーリー」というグローバルに通用する言語体系を用いて表現する。それは、企業が自らの存在意義を社会に問い、全てのステークホルダーへの貢献を約束し、そして倫理的行動と持続可能な収益性が両立可能であるばかりか、分かちがたく結びついていることを論証する媒体なのである。
21世紀のグローバル経済は、気候変動、社会格差、地政学的リスクといった複雑な課題に直面し、企業に対して、利益追求以上の目的を持つことをますます強く要求している。このような時代において、日本企業に深く根ざした「道徳経済合一」の思想は、単なる歴史的遺産ではなく、未来に向けた競争優位性の源泉となりうる。洗練された統合報告書を通じてこの哲学を明確に発信する能力は、目的志向の投資家や人材を惹きつけ、持続的な価値創造を実現する上で、日本企業にとって計り知れない強みとなるだろう。価値の未来は、統合された思考の先にある。
引用文献
- kigyoka-forum.jp https://kigyoka-forum.jp/wp-content/uploads/2022/04/JES12_05_Tanaka.pdf
- 今、見直される渋沢栄一 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/currents/d00274/
- naturalmindo.com https://naturalmindo.com/book_rongo/#:~:text=%E3%81%9D%E3%82%93%E3%81%AA%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80%E3%81%8C%E3%80%81%E5%89%B5%E6%A5%AD,%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
- 渋沢栄一 現代語訳 論語と算盤(そろばん) 守屋淳訳 – 筑摩書房 https://www.chikumashobo.co.jp/special/rongotosoroban/
- 渋沢栄一の『論語と算盤』とは?ポイントや読み継がれる理由を紹介 | 識学総研 https://souken.shikigaku.jp/34229/
- 【人事部長の教養100冊】「論語と算盤」渋沢栄一 要約&解説 https://jinjibuchou.com/%E8%AB%96%E8%AA%9E%E3%81%A8%E7%AE%97%E7%9B%A4
- 渋沢栄一『論語と算盤』はなぜビジネスマンに読み継がれるのか? – Type https://type.jp/tensyoku-knowhow/skill-up/book-summary/vol55/
- 「道徳経済合一」で持続可能な経営を目指す:渋沢史料館 館長 井上 潤氏 × タナベ経営 北島 康弘 https://review.tanabeconsulting.co.jp/consultingmethod/22676/2/
- schoo.jp https://schoo.jp/biz/column/1620#:~:text=%E6%B3%A8%E7%9B%AE%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E8%83%8C%E6%99%AF%E3%81%A8%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E6%96%B9%E6%B3%95%E3%82%92%E8%A7%A3%E8%AA%AC,-%23SDGs&text=%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82%E6%80%A7,%E7%B5%8C%E5%96%B6%E6%96%B9%E9%87%9D%E3%82%92%E6%8C%87%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
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- 国際統合報告評議会(IIRC) 国際統合報告フレームワークの 位置づけと基礎概念 – 日本公認会計士協会 https://jicpa.or.jp/specialized_field/ITI/journal/files/kokusai-journal-other-integrated_201404.pdf
- 価値創造に必要な6つの資本(企業価値とESG #3) – coki (公器) https://coki.jp/article/column/32659/
- 統合報告書とは?作成のポイントとメリットを解説 – TCG REVIEW – タナベコンサルティング https://review.tanabeconsulting.co.jp/column/pick-up-topics/48746/
- 『學 vol.59』特集:サステナブルな社会へ〜渋沢栄一の「論語と算盤」から“今”を考える https://www.nishogakusha-u.ac.jp/koho/kankoubutsu/manabi/vol59/001/
- ESGの温故知新 渋沢栄一編(企業価値とESG #5) – coki (公器) https://coki.jp/article/column/33683/
- SHIMIZU CORPORATE REPORT 2023 – IRサイトの自動更新CMS【IRポケット】 https://pdf.irpocket.com/C1803/BbNL/Qa9i/Onl9.pdf
- ステークホルダー資本主義とは?【批判される理由】メリット – カオナビ人事用語集 https://www.kaonavi.jp/dictionary/stakeholder-shihonsyugi/
- 渋澤健氏、「ポストESG」と「企業は人なり」を語る | ウェブ電通報 https://dentsu-ho.com/articles/8029
- SHIMIZU CORPORATE REPORT 2024 https://finance-frontend-pc-dist.west.edge.storage-yahoo.jp/disclosure/20240808/20240730558115.pdf
- 経営方針 | 企業情報 – 清水建設 https://www.shimz.co.jp/company/about/strategy/
- SHIMIZU CORPORATE REPORT – 名古屋証券取引所 https://www.nse.or.jp/listing/search/files/140120191223440544.pdf
- 王子ホールディングス レポート名: 統合報告書 2021 1.この会社が目指す姿が https://tsumuraya.hub.hit-u.ac.jp/special03/2022/3861.pdf
- 王子グループ 統合報告書 2023 https://pdf.irpocket.com/C3861/PEbr/m5aR/TbRV.pdf
- 経営理念・経営戦略 | 会社情報 – 王子ホールディングス https://www.ojiholdings.co.jp/group/philosophy.html
- 王子グループ統合報告書 2024 https://finance-frontend-pc-dist.west.edge.storage-yahoo.jp/disclosure/20240921/20240920587210.pdf
- 王子グループ 統合報告書 2022 – in-Report https://in-report.com/library/pdf/3861_2022.pdf
- IHI 統合報告書 2024 https://www.ihi.co.jp/ir/library/annual/pdf/2024/ch1-02.pdf
- IHI 統 合 報 告 書 2024 https://finance-frontend-pc-dist.west.edge.storage-yahoo.jp/disclosure/20241002/20240930591083.pdf
- 統合報告書の役割と 2024 年度のトレンドにみる、企業の情 報開示の戦略について https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2025/10/cr_251001_01.pdf
- 何から始める? 統合報告の作り方・使い方 第1回 なぜいま統合報告なのか | PwC Japanグループ https://www.pwc.com/jp/ja/knowledge/journal/integrated-reporting/vol01.html



