
はじめに
野中郁次郎氏と竹内弘高氏によって提唱されたSECIモデルは、現代のナレッジマネジメント理論の礎石として広く認識されている 1。1995年に出版された両氏の著書『知識創造企業』(The Knowledge-Creating Company)は、10カ国語以上に翻訳され、世界的なナレッジマネジメントブームの火付け役となった 5。このモデルの永続的な影響力は、単なる手順の提示に留まらず、組織がいかにして体系的にイノベーションを育むことができるかという、ダイナミックで人間中心のフレームワークを提供した点にある。それは、組織を単なる情報処理機械として捉える旧来の視点から脱却し、知識を創造する生きた有機体として捉え直すという、パラダイムシフトを促したのである 6。
本稿の核心的論点は、SECIモデルの真価が、固定的な処方箋としてではなく、個人の暗黙的な洞察が組織全体の持続的なイノベーションへと昇華するプロセスを解明するための、強力な概念的レンズとして機能する点にある、ということである。本稿では、まずモデルの哲学的・理論的基盤を掘り下げ、次に知識変換プロセスの4つの段階を詳細に分析する。続いて、そのプロセスを可能にする「場(Ba)」という概念を導入し、実際の企業における応用事例を通じて理論の実践的側面を明らかにする。さらに、学術的な批判や実践上の課題にも光を当て、バランスの取れた評価を試みる。最後に、アジャイル開発への影響といった意外な遺産や、デジタル時代におけるモデルの進化可能性を探求し、その現代的意義を結論づける。SECIモデルは本質的に、単なる情報管理の理論ではなく、イノベーション創出の理論なのである 1。
第1章 SECIモデルの哲学的・理論的基盤
1.1 理論の起源:イノベーションの源泉を探る旅
SECIモデルは、1980年代から90年代にかけて、野中・竹内両氏が成功を収めていた日本企業の競争優位の源泉を探る研究から生まれた 1。彼らは、これらの企業が単に既存の情報を効率的に処理するだけでなく、しばしば暗黙的で言語化されない、独特のプロセスを通じて新しい知識を創造していることに着目した 1。この観察は、理論がイノベーティブな実践の経験的分析に深く根差していることを示しており、その後の理論的体系化に強力な説得力を与えた。1995年の『知識創造企業』の出版(邦訳は1996年)は、これらの洞察を体系化し、世界中の経営者や研究者に提示する契機となった 5。
1.2 知識の二つの柱:暗黙知と形式知
SECIモデルを理解する上で不可欠なのが、「暗黙知」と「形式知」という二つの知識の次元である。この区別は、モデル全体の根幹をなしている。
暗黙知 (Tacit Knowledge)
暗黙知とは、個人の経験に根差し、主観的で、言葉や数字、数式などで表現することが困難な知識を指す 5。それは特定の文脈に強く依存し、信念や直観、メンタルモデルといった「認知的技能」と、熟練の技やノウハウといった「技術的技能」の両方を含む 12。具体的な例としては、熟練工が持つ「手の感覚」、デザイナーの「美的センス」、あるいはベテラン営業担当者の「交渉の勘」などが挙げられる 14。この概念は、哲学者マイケル・ポランニーの業績に深く影響を受けている 1。
形式知 (Explicit Knowledge)
一方、形式知は、客観的かつ合理的で、言語や図表、数式などを用いて明確に表現(コード化)できる知識である 5。マニュアルや報告書、データベース、科学的理論などがその典型例であり、文脈から切り離して容易に伝達・共有することが可能である 5。
二つの知識の相互作用
SECIモデルの最も重要な前提は、これら二つの知識が対立するものではなく、相互補完的な関係にあり、絶え間なく相互に変換されるということである。組織的な知識創造は、まさにこの暗黙知と形式知の間のダイナミックな相互作用を通じて生まれる、と野中・竹内両氏は主張する 1。
1.3 新しいパラダイム:情報処理から人間中心の知識創造へ
SECIモデルが登場する以前の経営パラダイムの多くは、組織を階層的な情報処理システムとして捉える傾向があった 8。この見方では、効率的な情報伝達が重視される。しかし、SECIモデルは、知識創造を社会的かつダイナミックで、個人のコミットメントや信念、そして共有された経験といった、深く人間的なプロセスとして捉え直した 7。
この理論が示すのは、真に実践可能な理解、すなわち「知」は、単なるデータ転送ではなく、「腹の底からのコミットメントと信念」から生まれ、感情や共感の共有を必要とするということである 12。これは、純粋に分析的、データ駆動型のアプローチに対する根源的な挑戦であり、経営の焦点を「情報の処理」から「意味の創造」へと移行させる、哲学的な転換を意味する。この人間中心の視点こそが、SECIモデルが単なるプロセス図以上のものとして、世界中の経営者に強い影響を与えた理由である。
第2章 知識創造のエンジンを解体する:4つの変換プロセス
SECIモデルの中核をなすのは、「共同化(Socialization)」「表出化(Externalization)」「連結化(Combination)」「内面化(Internalization)」という4つの知識変換プロセスである。これらが連続的に作用することで、個人の暗黙知が組織の知識へと昇華していく。
2.1 共同化(Socialization):暗黙知から暗黙知へ
共同化は、直接的な共同体験を通じて、ある個人の暗黙知が別の個人へ移転するプロセスである 2。これは、共感や共通のメンタルモデルを形成する段階であり、その鍵は「共体験」にある 15。観察、模倣、徒弟制度といった形式を取り、物理的な近接性や深い文脈の共有が不可欠となる 2。具体的な例としては、先輩の仕事を「見て盗む」OJT(On-the-Job Training)、ブレインストーミング合宿、休憩室での雑談、あるいは顧客の工場をチームで訪問し、現場の空気を共に感じることなどが挙げられる 16。
2.2 表出化(Externalization):暗黙知から形式知へ
表出化は、SECIモデルの真髄であり、最も困難なプロセスとされる 15。これは、言葉にし難い暗黙知を、他者と共有可能な形式知へと明確に表出させるプロセスである 2。この変換は、対話や共同での省察をきっかけに、メタファー(比喩)、アナロジー(類推)、コンセプト、仮説、モデルといった表現手段を用いて行われる 15。例えば、新製品のコンセプトを巡るチーム内の白熱した議論、熟練職人が自らの技術をマニュアルに書き起こそうとする試み、あるいは複雑な顧客インサイトを一つの物語として語り伝えることなどが、この表出化の典型例である 13。
2.3 連結化(Combination):形式知から形式知へ
連結化は、既存の形式知を組み合わせ、より体系的で新たな形式知を創造するプロセスである 2。組織内外から収集された様々な形式知を編集・加工し、一つの知識体系へと統合する。この段階では、情報技術、特にデータベースやコミュニケーションネットワークが強力な推進力となる 2。例えば、営業データ、市場調査レポート、競合他社の分析報告書といった複数の形式知を統合して、包括的な市場分析レポートを作成する行為や、各部署のマニュアルを統合・補完して全社的な業務標準を構築する作業がこれにあたる 13。プロトタイプの作成も連結化の一例である 2。
2.4 内面化(Internalization):形式知から暗黙知へ
内面化は、形式知を実践を通じて体得し、個人の新たな暗黙知へと変換するプロセスである 2。「習うより慣れろ(learning by doing)」と密接に関連しており 9、マニュアルや研修で得た形式知を実際の業務で繰り返し適用することで、知識は個人の血肉となり、無意識に使えるスキルやノウハウへと昇華する。このプロセスによって、個人の暗黙知のストックは豊かになる 9。例えば、新入社員がマニュアル(形式知)を読み込み、日々の業務を通じて、やがてマニュアルを見なくてもスムーズに作業をこなせるようになる(暗黙知化)状態がこれに該当する 16。そして、この新たに形成された暗黙知が、次の共同化プロセスの出発点となる。
2.5 知識スパイラル:ダイナミックで存在論的な拡張
これら4つのプロセスは、閉じた円環ではなく、継続的かつ上昇的な「知識スパイラル」を形成する 1。サイクルが一巡するごとに、知識はより高い次元へと進化し、その適用範囲を広げていく。このスパイラルは、知識を「存在論的(ontological)」に拡張させる。すなわち、最初は個人に属していた知識が、グループ、組織全体、さらには組織の垣根を越えたレベルへと広がっていくのである 3。個人の小さな気づきが、表出化され、連結化されることで、やがて組織全体の標準的な実践となり、企業の知的資産を形成する。このダイナミックなプロセスこそが、持続的なイノベーションと組織の進化を駆動するメカニズムなのである 9。
第3章 創造のための文脈をデザインする:「場(Ba)」の概念
SECIモデルが知識創造の「プロセス」を記述するものであるとすれば、そのプロセスを活性化させる「文脈」を説明するのが「場(Ba)」の概念である。野中氏と紺野登氏によって後に精緻化されたこの概念は、SECIモデルを理論から実践へと橋渡しする上で極めて重要な役割を果たす 2。
3.1 「場」の定義:単なる物理的空間を超えて
「場」とは、知識が共有され、創造され、活用されるための、共有された文脈(コンテクスト)を指す 2。それは単なる物理的な場所(オフィスなど)に限定されない。電子メールやオンラインプラットフォームのような「仮想的な場」、あるいは共有された理念や目標、価値観といった「心的な場」をも含む、統合的な概念である 2。知識創造の相互作用が生まれる「結節点」あるいは「プラットフォーム」と理解することができる 15。この「場」を意図的にデザインすることが、SECIスパイラルを効果的に回すための経営者の重要な役割となる。
3.2 4つの「場」のタイプとその機能
SECIモデルの4つのプロセスは、それぞれに対応する4つの「場」によって促進される 19。
創発場(Originating Ba):共同化のための場
個人が感情や経験、メンタルモデルといった暗黙知を共有するための場である。対面での相互作用と深い共感が特徴となる。
- 具体例: 社員食堂や休憩スペースでのインフォーマルな会話、OJTが行われる現場、顧客との共同作業、経営陣が現場を歩き回り社員と対話する「MBWA(Management By Walking Around)」などが挙げられる 16。
対話場(Dialoguing Ba):表出化のための場
暗黙知が対話を通じて形式知へと変換される場である。「創発場」よりも構造化されており、明確な目的意識を持って行われることが多い。
- 具体例: 特定の議題を持つチームミーティング、新製品開発のためのブレインストーミング、アイデア創出のために設計されたクリエイティブ・ゾーン、業務マニュアルを作成するためのディスカッションなどがこれにあたる 13。
システム場(Systemizing Ba):連結化のための場
形式知が収集、結合、処理される場であり、多くの場合、仮想的でテクノロジーによって支えられている。
- 具体例: 社内イントラネット、ナレッジデータベース、オンラインのコラボレーションツール、共有ドキュメント、全社的な情報システムなどが典型例である 19。
実践場(Exercising Ba):内面化のための場
個人が形式知を実践し、自らの暗黙知として体得するための場である。日々の業務ルーチンの中に組み込まれていることが多い。
- 具体例: 個人のデスクや作業スペース、シミュレーションを通じた訓練、新しいスキルを実践的に学ぶ研修プログラムなどが挙げられる 13。
「場」の概念は、SECIモデルを抽象的な理論から、経営者が介入可能な具体的なデザインのフレームワークへと転換させる。それは、知識創造を促進するために、物理的、仮想的、組織的なレバーをどのように操作すればよいかという問いに対する、実践的な答えを提供するのである。
表3.1 SECIプロセスと対応する「場」
| プロセス (Process) | 知識変換 (Knowledge Conversion) | 対応する場 (Enabling Ba) | 主要な活動・例 (Key Activities & Examples) |
| 共同化 (Socialization) | 暗黙知 → 暗黙知 | 創発場 (Originating Ba) | OJT、インフォーマルな会話、顧客訪問、共感の醸成、現場での共体験 |
| 表出化 (Externalization) | 暗黙知 → 形式知 | 対話場 (Dialoguing Ba) | 目的を持った対話、ブレインストーミング、メタファーやアナロジーの活用、コンセプト創造 |
| 連結化 (Combination) | 形式知 → 形式知 | システム場 (Systemizing Ba) | データベース構築、文書の体系化、情報技術の活用、形式知の編集・結合 |
| 内面化 (Internalization) | 形式知 → 暗黙知 | 実践場 (Exercising Ba) | 実践による学習 (Learning by doing)、シミュレーション、日々の業務での応用、研修 |
第4章 実践におけるSECIモデル:企業事例研究
SECIモデルは理論的なフレームワークに留まらず、多くの先進的企業によって実践され、具体的な成果を生み出してきた。本章では、その成功要因を整理するとともに、代表的な企業事例を分析し、理論がどのように実践に結びつくかを探る。
4.1 導入成功のための重要要因
SECIモデルを組織に効果的に導入するためには、いくつかの共通した成功要因が存在する。
- リーダーシップと文化: 知識の共有を奨励し、失敗を学習の機会と捉えるような、信頼とオープンさに満ちた文化を醸成することが不可欠である 14。
- インセンティブと評価: 知識共有への抵抗感を克服するため、人事評価やインセンティブ制度を知識共有行動と連動させることが有効である 13。特に、営業成果とナレッジ共有を同等に評価するキーエンス社の制度は、その好例と言える 36。
- 明確な目標設定: 知識創造プロセスが自己目的化することを防ぐため、明確な事業目標と結びつけることが重要である 19。
- 継続的なサイクル: SECIは一度きりの活動ではなく、組織の知識資産を時間をかけて構築するための継続的なスパイラルであることを全社で認識し、粘り強く回し続ける必要がある 13。
- ツールの活用: 特に連結化プロセスを支援するために、イントラネットやコラボレーションソフトウェアなど、使いやすいツールを戦略的に導入することが求められる 14。
4.2 事例研究:富士フイルムビジネスイノベーション(旧富士ゼロックス) – システマティック・アプローチ
同社のナレッジマネジメントは、SECIモデルの古典的な成功事例として広く知られており、特に「何でも相談センター」の取り組みが象徴的である 37。
- 導入の背景と実践:
- 共同化・表出化: 営業担当者が顧客から受けた専門外の相談も含め、あらゆる問い合わせに答える専門部署としてセンターを設置。営業担当者が持つ顧客課題に関する暗黙知が、専門コンサルタントとの対話を通じて形式知(具体的な問題と解決策)へと表出化される「対話場」として機能した。
- 連結化: 寄せられた質問と回答はすべて50のカテゴリーに分類され、検索可能なデータベースに即時蓄積された。これは、膨大な形式知を体系化し、全社員がアクセス可能な「システム場」を構築する典型例である 37。
- 内面化: 他の営業担当者はこのデータベースを参照することで、過去の事例から学び、同様の問題を自力で解決できるようになった。これにより、組織の形式知が個人の実践的なノウハウ(暗黙知)へと内面化された 37。
- 成果: この仕組みにより、問題解決時間が一件あたり平均3時間以上も短縮され、顧客へのレスポンスが格段に向上するなど、劇的な業務効率化が実現した 37。
4.3 事例研究:エーザイ株式会社 – 共感駆動型アプローチ
エーザイは、「hhc(human health care)」という企業理念を掲げ、SECIモデルを独自の方法で実践している。その特徴は、知識創造の出発点を「患者様との深い共感」に置いている点にある 40。
- 導入の背景と実践:
- 共同化(創発場): 社員が患者やその家族と共に時間を過ごす「hhc活動」を重視。高齢者疑似体験や介護実習などを通じて、患者の喜怒哀楽や真のニーズを、身をもって体験し、深い共感に基づいた暗黙知を獲得する 23。
- 表出化(対話場): これらの共体験から得られた「気づき」を、構造化された対話の場で共有・議論し、その背後にある本質的なニーズを形式知として言語化する 23。
- 連結化(システム場): 全社的なイベント「hhc Initiative」などを通じて、各部門で生まれたベストプラクティスや洞察を共有し、組織全体の知識として体系化する 23。
- 内面化(実践場): このようにして得られた新たな知見は、社員の意識変革を促し、真に患者の価値向上に貢献する革新的な医薬品やソリューションの開発へと結びつく 23。
4.4 事例研究:東日本電信電話株式会社(NTT東日本) – 環境駆動型アプローチ
NTT東日本は、SECIモデルの4つの「場」を物理的なオフィス空間の設計に落とし込んだ「クリエイティブオフィス」という概念を実践したことで知られる 20。
- 導入の背景と実践:
- 創発場: 偶発的なコミュニケーションを誘発するため、座席を固定しないフリーアドレス制や交流可能なリフレッシュゾーンを設置した 23。
- 対話場: チームでの集中的な議論やアイデア創出を目的とした「クリエイティブ・ゾーン」を意図的に設けた 23。
- システム場: 全社員が日報や担当プロジェクトを共有する個人ホームページを構築し、ネットワーク化された知識ベースを形成した 23。
- 実践場: 個人の集中作業を支援する「コンセントレーション・ゾーン」を設け、新たな知識の適用と内面化を促した 23。
4.5 その他の応用例
SECIモデルの原則は、大企業だけでなく、様々な組織形態に応用可能である。トヨタ自動車の「カイゼン活動」は、現場作業員の暗黙知をボトムアップで形式知化し、全社的な改善につなげるプロセスであり、SECIモデルの一つの現れと見なすことができる 36。また、新潟県の金属加工業者の共同受注組織「磨き屋シンジケート」は、中小企業がネットワークを組んで互いの暗黙知(技術)を共有し、新たな価値を創造する事例として挙げられる 42。
表4.1 SECIモデル導入の比較分析
| 企業 (Company) | 中核となる理念・推進力 (Core Philosophy/Driver) | 「場」の主な実装 (Key “Ba” Implementation) | スパイラルの主眼 (Primary Focus of the Spiral) |
| 富士フイルムビジネスイノベーション | システマティックな問題解決 | 「何でも相談センター」データベース | 効率化とソリューションの再利用 |
| エーザイ | 患者との共感 (hhc) | 患者との共体験プログラム | 革新的な医薬品・ソリューション開発 |
| NTT東日本 | 環境が創造性を駆動する | 「クリエイティブオフィス」のゾーン設計 | 創造的な組織文化の醸成 |
第5章 SECIモデルの批判的再評価
SECIモデルは世界的に広く受け入れられ、ナレッジマネジメントの分野でパラダイム的な地位を築いてきたが、その理論的基盤や実践的適用性については、学術界から数多くの重要な批判が提起されている。本章では、これらの批判を多角的に検討し、モデルの強みと限界を客観的に評価する。
5.1 学術的批判:理論的基盤への問い
SECIモデルに対する最も根源的な批判は、その経験的・概念的な妥当性に向けられている。Stephen Gourlayをはじめとする研究者たちは、いくつかの深刻な問題を指摘している 3。
- 脆弱な経験的根拠: モデルを検証したとされる最初の実証研究(管理職へのアンケート調査)には、方法論的な欠陥があると指摘されている。この調査は、知識変換の「プロセス」そのものではなく、特定の活動に費やされた時間という「内容」を測定したに過ぎない。さらに、統計的な因子分析においても、「表出化」と「内面化」の妥当性は基準を満たしておらず、モデル全体が経験的に証明されたとは言い難い 3。
- 概念の不整合性: いくつかの知識変換モード、特に「連結化(形式知から形式知へ)」の定義が曖昧で、事例による裏付けも不十分であると批判されている。例えば、文書の読解や執筆といった形式知の結合には、必然的に書き手や読み手の暗黙知(解釈の枠組み)が介在するため、純粋な形式知同士の変換とは言えない。これにより、モデルの各区分の境界が曖 Ấn になっている 3。
- 暗黙知の概念に関する問題: SECIモデルは、暗黙知と形式知を単純な二項対立として扱っているが、これはポランニーの本来の、より統合的な思想からの逸脱であると見なされている。特に、感覚的な経験やルールに従う能力など、原理的に形式知化できない「本質的に暗黙的な知」の存在がモデルでは十分に考慮されておらず、すべての暗黙知が表出化可能であるという前提に疑問を投げかけている 43。
- 「知識」の再定義: より高度な批判として、野中氏が知識の定義を伝統的な「正当化された真なる信念(Justified True Belief)」から、単なる「正当化された信念(Justified Belief)」へと変更している点が挙げられる。企業という文脈において後者は、「経営層によって承認されたアイデア」を意味しかねない。この解釈に立てば、SECIモデルは真なる知識を創造する理論ではなく、経営層が認めるアイデアを生成するためのプロセス論に過ぎないということになる 43。
5.2 文化的特殊性の問題
SECIモデルが、集団の和や高コンテクストなコミュニケーション、緊密な企業間ネットワークを特徴とする日本の組織文化に深く根差しているという批判は根強い 43。特に、共体験を重視する「共同化」のようなプロセスは、日本の文化的背景においては自然に機能するかもしれないが、より個人主義的で低コンテクストな欧米文化の組織でそのまま再現するのは困難であるという指摘がある 46。これに対する反論としては、モデルの「表現形式」は文化的に特殊かもしれないが、個人の直観を組織の知へと転換するという「根源的なプロセス」は普遍的であり、課題はモデルの不適用性ではなく、各文化への「適応」の仕方にある、という考え方も存在する。
5.3 実践上の課題と導入の障壁
理論的な問題に加え、SECIモデルを実際に組織で運用する際には、いくつかの現実的な困難が伴う。
- 表出化への抵抗: 従業員は、自らが苦労して獲得した暗黙知(ノウハウ)を共有することに抵抗を感じることがある。「知識は力なり」という考えから、自らの優位性や価値が失われることを恐れるためである 13。
- 内面化の困難さ: マニュアルやデータベースを整備したからといって、従業員がその知識を自動的に内面化するとは限らない。内面化には時間、実践、そして個人の学習意欲が必要であり、組織全体で均一に進めることは極めて難しい 19。
- 目的の曖昧化: 明確な事業目標と結びついていない場合、SECIプロセスは文書化や会議のための官僚的な手続きに陥り、本来のイノベーション創出という活力を失ってしまう危険性がある 19。
- 知識のサイロ化: 知識創造のサイクルが特定の部署内で完結してしまい、組織全体へと広がる「存在論的拡張」に至らないケースも多い 20。
これらの批判を総合すると、SECIモデルの最大の強みと弱みは表裏一体であることがわかる。その力は、目に見えない知識創造のプロセスに対する、直観的で説得力のある「メタファー」を提供した点にある。しかし、まさにそのメタファーとしての性質が、科学的・経験的な厳密性の観点からの批判を招きやすくしている。したがって、SECIモデルを評価する際には、それを厳密な科学法則としてではなく、複雑な現象を理解し、それについて語るための強力な「ヒューリスティック(発見的手法)」あるいは「導きの物語」として捉える視点が有効である。この視点に立つことで、批判の妥当性を認めつつも、モデルが実践に与えた絶大な影響を正当に評価することが可能になる。
第6章 SECIモデルの永続的遺産と今後の進化
SECIモデルは、過去の経営理論として歴史の中に埋もれることなく、現代においてもその影響力を保ち、新たな文脈で再解釈され続けている。本章では、アジャイル開発への影響という知られざる遺産から、デジタル時代における進化の可能性まで、その永続的な価値を探る。
6.1 見えざる影響:ナレッジマネジメントからアジャイル、スクラムへ
SECIモデルの最も重要かつ見過ごされがちな遺産の一つが、ソフトウェア開発手法である「アジャイル」および「スクラム」への影響である。スクラムフレームワークの起源は、野中・竹内両氏が1986年に『Harvard Business Review』で発表した論文「The New New Product Development Game」に直接遡ることができる 6。
この論文は、日本の優れた企業の新製品開発チームが、ラグビーのスクラムのように、一体となってボールを前に進める様子を描写した。この、迅速で柔軟な、部門横断的なチームワークの記述が、スクラムの共同開発者であるジェフ・サザーランド氏とケン・シュエイバー氏に直接的なインスピレーションを与えたのである 6。反復的な開発、部門横断的な協働、そして暗黙的な洞察を具体的な製品へと変換していくというSECIモデルの核となる思想は、形を変えてアジャイルとスクラムの原則の中に深く埋め込まれている。これは、SECIモデルの原理が「ナレッジマネジメント」という特定の分野を超えて、普遍的な価値を持つことの力強い証左である。
6.2 デジタル時代のSECIモデル:DXとAIへの適応
デジタルトランスフォーメーション(DX)、リモートワーク、そして人工知能(AI)の台頭は、SECIモデルに新たな課題と機会をもたらしている。
- 課題: リモートワークの普及による対面コミュニケーションの減少は、共体験を重視する「共同化」プロセスと、そのための「創発場」の構築を困難にしている 50。
- AIによる機会:
- 表出化の支援: 生成AIは、会議の議事録を自動で文字起こし・要約し、対話の中からアイデアを抽出することで、表出化の障壁を劇的に下げることができる 51。
- 連結化の加速: AIは、膨大な形式知(データ)を分析し、人間では見つけられないパターンを発見し、異種の知識を結合する「連結化」プロセスにおいて、極めて強力な能力を発揮する 51。
- 内面化の個別最適化: AIを活用したパーソナライズドラーニングシステムや高度なシミュレーションは、個々の従業員に合わせた「実践場」を提供し、知識の内面化をより効率的に支援できる 51。
結論として、AIはスパイラルの特定の部分、特に形式知を扱うプロセスを増強・加速させることができるが、「共同化」プロセスの核心にある人間同士の共感や身体的な共体験そのものを代替することはできない 52。むしろ、AIが定型的な知識処理を担うことで、人間はより高次の、共感をベースとした知識創造活動に集中できるようになる可能性がある。
6.3 モデルを超えて:知的コンバットの哲学
近年、野中氏はSECIモデルの真のエンジンとして、「知的コンバット(Intellectual Combat)」という、より深く人間的な概念を提唱している 54。これは、単なる攻撃的な議論ではなく、理想的には二人一組のペアが、互いの主観的な世界観を全身全霊でぶつけ合い、より高次の真実や新たなコンセプトを追求する、情熱的な対話のプロセスを指す 55。
この「コンバット」は、相互の深い共感と尊敬に根差しており、「共同化」と「表出化」のプロセスに生命を吹き込む根源的な活動として位置づけられる。それは、互いの主観が交錯し、新たな共通の主観が生まれる「相互主観性(Intersubjectivity)」を創造するプロセスである 55。この概念は、SECIモデルを単なるプロセス論から、絶え間ない自己研鑽と意味の探求を求める「生き方(Way of Life)」の哲学へと昇華させる 57。
SECIモデルは歴史的な遺物ではなく、その核心的な思想が常に再解釈され、深化し続ける生きたフレームワークである。その最も深遠な遺産は、自動化とAIの時代において、ますます重要性を増すであろう人間中心の哲学そのものにあるのかもしれない。
結論:学習する組織のための時代を超えたフレームワーク
本稿で詳述してきたように、野中郁次郎・竹内弘高両氏によるSECIモデルの価値は、厳格なステップ・バイ・ステップの指示書としてではなく、組織における知識創造という複雑な現象を理解し、それに取り組むための強力な概念的フレームワークおよび診断ツールとして機能する点にある 2。その成功裡な適用は、プロセスを機械的に導入すること以上に、共感、対話、そして継続的な学習を尊ぶ組織文化を育むという、モデルの精神を深く理解することを要求する。
学術的な批判が示すように、SECIモデルは科学的に完璧な理論ではないかもしれない。しかし、そのメタファーとしての力、すなわち、目に見えないアイデアの流れに名前と形を与え、経営者がそれについて語り、介入することを可能にした功績は計り知れない。アジャイル開発への影響や、AI時代における新たな適応可能性は、その基本思想の普遍性と強靭さを示している。
絶え間ない変化が常態となった現代において、組織的に新しい知識を創造し続ける能力こそが、究極的な競争優位の源泉である。SECIモデルは、その限界を認識し、各組織の文脈に合わせて思慮深く適応させる必要はあるものの、真に革新的で強靭な「学習する組織」を構築しようと志す全てのリーダーにとって、今日なお最も強力な指針の一つであり続けている 9。
引用文献
- SECIモデル – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/SECI%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB
- SECI model of knowledge dimensions – Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/SECI_model_of_knowledge_dimensions
- The SECI model of knowledge creation: some empirical … – CORE https://core.ac.uk/download/pdf/90222.pdf
- ナレッジ・マネジメント | 用語解説 | 野村総合研究所(NRI) https://www.nri.com/jp/knowledge/glossary/knowledge.html
- SECIモデルで暗黙知を活かす!実践のための4つのプロセスとは – Fujifilm https://www.fujifilm.com/fb/solution/dx_column/efficiency/SECI-model01.html
- 知識創造のフレームワークSECIモデルとは – 1on1総研 – Kakeai https://kakeai.co.jp/media/organization/2292
- 第56回 【日立総研創立50周年記念】新しい価値を創造する自己変革組織の在り方 野中 郁次郎 氏 https://www.hitachi-hri.com/interview-column/reciprocal/i056.html
- A Dynamic Theory of Organizational Knowledge Creation – Sasank’s Blog https://chsasank.com/classic_papers/dynamic-theory-of-organizational-knowledge-creation.html
- SECI Model of Knowledge Creation: Socialization, Externalization, Combination, Internalization – Accelerating Systemic Change Network https://ascnhighered.org/ASCN/change_theories/collection/seci.html
- SECIモデル – ::CREATIVE OFFICE WEB https://www.nopa.or.jp/copc/report05.html
- Nonaka and Takeuchi – Praxis Framework https://www.praxisframework.org/en/library/nonaka-and-takeuchi
- Nonaka’s Four Modes of Knowledge Conversion https://www.uky.edu/~gmswan3/575/nonaka.pdf
- SECIモデルとは?具体例や導入事例をもとにわかりやすく解説 – ITトレンド https://it-trend.jp/knowledge_management/article/25-0019
- SECIモデルとは?知識創造の仕組みとナレッジマネジメントの基本を解説 – Helpfeel http://www.helpfeel.com/blog/seci-model
- SECIモデル(ナレッジ・マネジメント) – Osamu Hasegawa Films http://www.osamuhasegawa.com/seci%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB/
- SECIモデルとは?プロセスをわかりやすく解説! – 識学総研 https://souken.shikigaku.jp/5227/
- 人間の「共感」をベースにしたマネジメント : ダイナミックな世界で,より善く生きる未来を創るために : 日立評論 – Hitachihyoron https://www.hitachihyoron.com/jp/column/ei/vol15/index.html
- 組織学習の効果を最大化するSECIモデルとは? – note https://note.com/actorsinc/n/ne8f91be72392
- SECIモデルとは?ナレッジマネジメントの軸になる考え方を概要から具体的な方法まで徹底解説! https://www.knowledgewing.com/kcc/share/method/single76.html
- 【図解あり】SECIモデルとは|実践プロセスや運用のポイントを解説 – d’s JOURNAL https://www.dodadsj.com/content/230427_seci-model/
- Knowledge Creation Organizational Learning – Project Management Institute https://www.pmi.org/learning/library/knowledge-creation-organizational-learning-8288
- 野中郁次郎と竹内弘高のSECIモデルを徹底解説! – つむぐ人たち https://tsumugu-hit.org/note/1769
- SECIモデルとは?4つのプロセスや活用事例をわかりやすく紹介 https://blog.hubspot.jp/marketing/seci-model
- SECIモデルとは?企業におけるナレッジマネジメントへの活用と具体例 – ブレインズテクノロジー https://www.brains-tech.co.jp/neuron/blog/seci_model/
- イノベーションの本質 https://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/sokai/kouen150.pdf
- 形式知とは?暗黙知との違い、メリット、形式知化の手法を詳細に解説 – オウンドメディア https://media.emuniinc.jp/2025/03/22/knowledge-management/
- SECIモデルとは? ナレッジマネジメントのプロセスや事例を解説 – カオナビ https://www.kaonavi.jp/dictionary/seci-model/
- SECIモデルとは?初心者でもわかるマネジメント理論 – STUDY HACKER(スタディーハッカー) https://studyhacker.net/what-is-seci
- SECIモデルとは?ナレッジマネジメントへの活用方法を具体例交えながら解説 – Qast https://qast.jp/media/what-is-secimodel/
- SECIモデルをわかりやすく解説!ナレッジマネジメントを成功させるためのヒント – コミュペディア https://lp.scala-com.jp/topics/secimodel_knowledgemanagement_hint/
- ナレッジマネジメントとは?製造業において重要な理由、導入の課題、SECIモデル – スキルノート https://skillnote.jp/knowledge/knowlege-management/
- SECIモデルとは?基本的な考え方やマネジメントへの活用方法を徹底解説 – ビズクロ https://bizx.chatwork.com/knowledge-management/seci-model/
- SECIモデルとは?ナレッジマネジメントの基礎的な考え方 – saguroot https://saguroot.tanseisha.co.jp/column/detail17/
- 知識管理から知識経営へ – JAIST 梅本研究室 ナレッジマネジメントの研究 https://www.jaist.ac.jp/ks/labs/umemoto/ai_km.html
- SECIモデルとは?|活用メリットや事例を通して理解度を深める https://www.peaks-media.com/6652/
- ナレッジマネジメントとは?メリット、導入手順、成功事例を紹介 – Jitera https://jitera.com/ja/insights/50799
- ナレッジマネジメントとは?意義や手法・導入方法【事例あり … https://www.persol-group.co.jp/service/business/article/295/
- ナレッジマネジメントの成功事例とよくある失敗事例を解説 – etudes(エチュード) https://etudes.jp/blog/knowledge-management-case-studies
- ナレッジマネジメントの成功事例3選。組織力を劇的に変える3つのポイントとは https://www.e-coms.co.jp/column/knowledge_management_case_studies
- 知識創造による共存在社会の実現ー 共感を通じて人と社会の在り方を問う ー – 国立研究開発法人 科学技術振興機構 https://www.jst.go.jp/ristex/output/files/65_takayama2019.05.pdf
- SECIモデルを事例で学ぶ|ナレッジマネジメントへの活用方法 – CXジャーナル – PKSHA AI SaaS https://aisaas.pkshatech.com/cx-journal/article/seci-model-cases
- 【事例5選】ナレッジマネジメントを成功させる3つのポイントとは? – ナレカン https://www.narekan.info/guide/knowledge-management-example
- FLAWS IN THE “ENGINE” OF KNOWLEDGE CREATION | RealKM https://realkm.com/wp-content/uploads/2023/11/Flaws_in_the_engine_of_knowledge_creation.pdf
- 【知識創造理論】SECIモデルを回すのが難しい理由 | 暗黙知が伝わる 動画経営 https://diamond.jp/articles/-/346742
- 野中郁次郎 知識創造理論(SECIモデル)|ふかみどり – note https://note.com/deepgreen104/n/neb04662b36d7
- (PDF) The SECI Model in Knowledge Management Practices – ResearchGate https://www.researchgate.net/publication/340165842_The_SECI_Model_in_Knowledge_Management_Practices
- applicability of the seci model of knowledge creation in russian cultural context: theoretical analysis – University of Warwick https://warwick.ac.uk/fac/soc/wbs/conf/olkc/archive/olkc4/papers/3dtatianaandreeva.pdf
- DXを加速するアジャイル ~変化を味方にしたチームづくり~ 【第3回】 「スクラム」の原点は、日本発のひとつの論文 – Digital Evolution Headline:日立 https://deh.hitachi.co.jp/_ct/17611227
- ソフトウェア開発から企業のイノベーションのツールになったScrum – DIGITAL X(デジタルクロス) https://dcross.impress.co.jp/docs/talk/001238.html
- SECI モデルとは?暗黙知と形式知が生み出すイノベーションの秘密 – ONES.com https://ones.com/ja/blog/seci-model-knowledge-innovation/
- SECIモデルを活用した企業事例:ナレッジマネジメントの成功秘話 – ONES.com https://ones.com/ja/blog/seci-model-success-stories/
- AI時代に必要になるSECIモデルを活かした採用とは? – note https://note.com/talebi_com/n/n62316f1ba9d6
- WithAI時代、SECIモデルはどう進化するか? – note https://note.com/j_miyoshi/n/n3f9ba0a23dbc
- 本質の見えにくい時代にこそ“知的コンバット”で意味の追求を … https://jhclub.jmam.co.jp/acv/magazine/content?content_id=18554
- 【野中郁次郎氏対談】第2章 徹底的な対話による「知的コンバット」なくして、イノベーションは生まれない | Hello, Coaching! https://coach.co.jp/interview/20200128.html
- 野中郁次郎 名誉学長と新貝康司氏との出版記念対談を公開 – 経営アカデミー https://www.k-academy.jp/20220426/
- 論文一覧 | 野中郁次郎 – NIK http://nonaka-ik.org/nonaka/essay



