はじめに——消去法で残ったもの
哲学には何千年もの歴史がある。にもかかわらず、いまだに決着のついていない問いが山ほどある。
これは哲学者たちが怠惰だからではない。むしろ逆だ。哲学的問いの多くは、原理的に「解決」という概念が適用できない種類の問題なのである。
本稿では、哲学上の問いを二段階のふるいにかけた。
第一に、定義さえ明確にすれば消える問いを除外した。「知識とは何か」「美とは何か」といった問いは、突き詰めれば言葉の使い方の問題である可能性が高い。
第二に、データが揃えば解決する問いを除外した。「心と脳は同一か」「宇宙は決定論的か」といった問いは、神経科学や物理学の進展によって、いずれ答えが出るかもしれない。
では、この二重のふるいを通過した問いには何が残るのか。
それこそが、哲学という営みの核心である。
1. なぜ何かがあるのか
なぜ何もないのではなく、何かが存在するのか?
ライプニッツが定式化したこの問いは、あらゆる問いの中で最も根源的だと言われる。
物理学は宇宙の始まりを説明できるかもしれない。ビッグバン、量子揺らぎ、多元宇宙。しかし、いかなる説明も「では、なぜその法則が存在するのか」という問いに突き当たる。
「無」を想像してみよう。空間もない。時間もない。法則もない。可能性すらない。
その「無」から、なぜ「有」が生じたのか。あるいは、「無」は本当に可能だったのか。
この問いに答えるデータは存在しない。定義を変えても消えない。私たちは、存在の根本的な謎の前に立ち尽くすほかない。
2. 私は夢を見ているのか
デカルトは「我思う、ゆえに我あり」に至る前に、一つの恐ろしい可能性を考えた。
今この瞬間、私は夢を見ているのではないか?
あるいは現代風に言えば、シミュレーション仮説。私たちが経験しているこの現実は、超高度な文明が作り出したシミュレーションかもしれない。
これを否定するデータは原理的に存在しない。なぜなら、いかなる「証拠」もシミュレーションの一部でありうるからだ。
同じ構造の問いに、他者の心の問題がある。
目の前の人が、私と同じように主観的経験を持っていることを、どうやって知りうるか。行動は観察できる。脳の状態も測定できる。しかし、その人の「内側」に本当に何かがあるのかは、原理的に確認できない。
私たちは、自分以外のすべてが「哲学的ゾンビ」—外見は人間だが内面のない存在——である可能性を、論理的には排除できないのである。
3. なぜ「痛い」のか
あなたの足の小指が角にぶつかる。神経信号が脊髄を駆け上がり、脳の特定領域が活性化する。
ここまでは科学で説明できる。
しかし、なぜそこにあの痛みの感覚が伴うのか。
これが哲学者デイヴィッド・チャーマーズの言う「意識のハードプロブレム」である。
物理的過程と主観的経験の間には、説明のギャップがある。どれほど詳細に脳を調べても、「なぜ物質の配置から経験が生じるのか」という問いには答えられない。
関連する思考実験がある。
メアリーの部屋:色覚の専門家メアリーは、白黒の部屋で育ち、赤い色を一度も見たことがない。彼女は色について知りうるすべての物理的事実を知っている。ある日、彼女は部屋を出て、初めて赤いリンゴを見る。彼女は何か新しいことを学ぶだろうか?
もし「はい」なら、物理的知識だけでは捉えられない何かが存在することになる。
逆転クオリア:あなたが「赤」として経験しているものを、私は「緑」として経験しているかもしれない。しかし、私たちは同じ言葉を使い、同じ行動をとる。この違いは原理的に検出不可能である。
これらの問いは、いかなる脳スキャンによっても解決しない。意識の主観的側面は、客観的データの網の目をすり抜けてしまうのだ。
4. コピーされた私は私か
スタートレックの転送装置を想像してほしい。
あなたの身体は分子レベルで分解され、その情報が送信され、目的地で再構成される。
再構成された存在は「あなた」だろうか。
直観的には「はい」と言いたくなる。記憶も人格も連続している。周囲の人も区別がつかない。
しかし、こう考えてみよう。もし転送時に「元の」あなたが破壊されず、コピーが二人存在することになったら? どちらが本物の「あなた」なのか。
あるいは、意識のアップロード。あなたの脳の状態を完全にデジタル化し、コンピュータ上で動作させる。肉体は死ぬ。デジタル存在は「あなた」として存続しているのか、それとも「あなた」は死に、よく似た別人が生まれただけなのか。
この問いに答えるデータは存在しない。なぜなら、問われているのは「同一性」という概念そのものの本性だからだ。
5. 五人を救うために一人を殺してよいか
暴走するトロッコが五人の作業員に向かっている。あなたはレバーを引けば、トロッコを別の線路に逸らせる。しかし、そちらには一人の作業員がいる。
レバーを引くべきか。
多くの人は「引くべきだ」と答える。五人の命は一人の命より重い、と。
では、次の場面はどうか。
あなたは橋の上にいる。暴走するトロッコが五人に向かっている。隣に太った男が立っている。彼を突き落とせば、トロッコは止まる。
彼を突き落とすべきか。
多くの人はここで躊躇する。結果は同じ。一人が死に、五人が助かる—にもかかわらず。
この直観の違いは何を意味するのか。
「作為と不作為の区別」「手段と副作用の区別」「接触の有無」—さまざまな説明が試みられてきた。しかし、いずれも決定的ではない。
そして、この問いはデータでは解決しない。いかなる事実を発見しても、「だから殺してよい/いけない」という結論は出てこない。
規範的問いは、記述的問いとは本質的に異なるのである。
6. 道徳は発明か発見か
「殺人は悪い」という命題は、真か偽か。
ここで二つの立場が対立する。
道徳的実在論:道徳的事実は、人間の態度とは独立に存在する。「殺人は悪い」は、誰も信じていなくても真である。ちょうど「地球は丸い」が、誰も知らなくても真であるように。
道徳的反実在論:道徳は人間が作り出したものである。「殺人は悪い」は、私たちがそう決めたから真であるにすぎない。別の社会、別の種族は、別の道徳を持ちうる。
この対立は、いかなるデータによっても解決しない。
道徳的直観の神経基盤を解明しても、「その直観は正しいのか」という問いには答えられない。文化間の道徳の違いを調査しても、「どちらが正しいのか」は分からない。
道徳の進化論的起源を明らかにしても、それは道徳の「由来」であって「正当化」ではない。
7. 数学はどこにあるのか
「2 + 2 = 4」は真である。
この真理は、どこに存在するのか。
私たちの頭の中か。しかし、人類が絶滅しても「2 + 2 = 4」は真であり続けるように思える。
物理的世界の中か。しかし、世界には「数」そのものは存在しない。二つのリンゴはあるが、「2」という抽象的対象はどこにもない。
プラトンは、数学的対象は「イデア界」という非物質的領域に存在すると考えた。私たちは数学を「発見」しているのだと。
一方、数学は人間の「発明」にすぎないという立場もある。便利な道具を作っているだけで、それが独立した実在を持つわけではない、と。
どちらが正しいか、データでは決まらない。数学的対象は定義上、観察不可能だからだ。
8. 人生に意味はあるか
宇宙は約138億歳で、いずれ熱的死を迎える。その宇宙の片隅で、数十年だけ存在する私たちの人生に、意味はあるのか。
この問いには三つの立場がある。
宇宙的意味:人生には、私たちが発見すべき客観的な意味がある。宗教的な文脈では、神の計画がこれに当たる。
主観的意味:意味は発見されるものではなく、創造されるものである。私たちが意味を与えれば、人生は意味を持つ。
虚無主義:人生には意味がない。意味を「創造」しても、それは自己欺瞞にすぎない。
興味深いのは、三つ目の立場を論駁するデータが存在しないことだ。
「人生に意味がある」と感じることはできる。しかし、その感覚が正しいかどうかは、感覚そのものからは分からない。
私たちは、意味への問いに答えを強いられながら、答えを確認する手段を持たない。
おわりに—答えのない問いと生きる
本稿で見てきた問いには、共通点がある。
それらは、論理的に可能な複数の答えがあり、いずれも経験的に排除できないということだ。
外界は実在するかもしれないし、しないかもしれない。意識には説明不可能な側面があるかもしれないし、ないかもしれない。道徳は客観的かもしれないし、主観的かもしれない。
これは不安なことだろうか。
私はそうは思わない。
むしろ、これらの問いは人間であることの条件を示している。私たちは、確実性の島々の間を、不確実性の海を渡りながら生きている。
科学は多くの問いに答えてきた。しかし、科学が答えられない問いがあることを認めることもまた、知的誠実さの一部である。
哲学は、答えを出すためにあるのではない。問い続けることの価値を示すためにある。
そして、答えのない問いと向き合う勇気こそが、思考する存在の尊厳なのかもしれない。



