軍事戦略から現代経営、そして意思決定の深層心理まで

序章: 「プランA」の神話――なぜ単一の計画は失敗する運命にあるのか
「プランBを持つことの重要性」「複数シナリオの用意」「戦争における超重要性」― この認識は、戦略の第一原理、すなわち「いかなる計画も、現実と接触した瞬間に陳腐化する」という冷徹な現実から始まる。本レポートは、この現実に対処するための知的枠組みを、防衛アナリストの視点から提供するものである。
戦略を論じる上で不可欠な概念が、カール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』における「戦場の霧(Fog of War)」と「摩擦(Friction)」である 1。
- 戦場の霧: 事前に収集できなかった情報、不完全なインテリジェンス、天候、敵の意図など、あらゆる不確定要素を指す 1。
- 摩擦: これらの不確定要素が積み重なり、計画の実行を妨げる障害や脅威となるもの全てである 1。
「プランB」や「複数シナリオ」の必要性は、単なる「用心深さ」の問題ではない。それは、クラウゼヴィッツが定義した「摩擦」という、戦略環境(戦争、ビジネス、人生)に内在する物理法則に対する、論理的な応答である。この論理は以下の連鎖に基づく。第一に、クラウゼヴィッツが示すように、戦争やビジネスのような競合的活動は、本質的に不確実性(霧)と偶発性(摩擦)に満ちている 1。第二に、単一の計画(プランA)は、この「霧」と「摩擦」が存在しない、あるいは無視できるという暗黙の前提に基づいている。第三に、この前提は、戦略環境の現実と根本的に矛盾する。したがって、単一の計画に固執することは、戦略的に「間違っている」以前に、哲学的に「非現実的」であり、本質的に失敗する運命にあると言える。
本レポートは、この前提に基づき、以下の構成で論を展開する。
- 第1部: 戦略的プランニングの二元論、すなわち「シナリオ・プランニング」と「コンティンジェンシー・プランニング(プランB)」の厳密な定義と関係性を解明する 2。
- 第2部: クエリが「超重要」と指摘する軍事史を解剖し、計画の「硬直性」が招いた破滅(マーケット・ガーデン作戦)と、「柔軟性」が導いた勝利(ノルマンディー上陸作戦)を徹底比較する 5。
- 第3部: これらの軍事的教訓が、現代の企業戦略(シェルの石油ショック対応)やサプライチェーン管理にいかに適用されているかを論じる 8。
- 第4部: 最も重要な洞察として、プランBが実行者の「心理」に与える二律背反(安心感 vs. モチベーション低下)という、リーダーが直面する最も困難なジレンマを分析し、その克服法を提示する 10。
第1部 戦略的プランニングの二元論:シナリオとコンティンジェンシー
本質的な問いは、「プランB」と「複数シナリオ」は同じものか、である。答えは明確に「否」である。この二つを混同することは、戦略的思考の第一歩で躓くことに等しい。本部は両者の正確な定義、関係性、そして実行メカニズムを確立する。
1.1 シナリオ・プランニング:未来の「地図」を描く技術
シナリオ・プランニングとは、将来起こりうる複数の「環境」や「世界観」を体系的に探求し、それらに対する組織の戦略的柔軟性を高めるプロセスである 13。
これは、従来の「予測(Forecasting)」とは決定的に異なる。予測が過去と現在のデータに基づき、単一の未来を導き出そうとする直線的なアプローチであるのに対し 14、シナリオ・プランニングは、未来は複雑系であり予測不可能(VUCA)であると認め 13、複数の可能性(例:高成長シナリオ、低成長シナリオ、供給ショックシナリオ)を同時に考察する 8。目的は「未来を当てる」ことではなく、「どのような未来が来ても対応できる準備態勢を整える」ことにある 14。
このプロセスの核心は以下のステップを含む。
- 推進要因の特定: 未来に大きな影響を与えるが、不確実性の高い「主要な推進要因」(経済状況、技術革新、地政学的変動など)を特定する 9。
- シナリオの構築: これらの要因を組み合わせ、「極端だが、あり得る」(extreme, but plausible)複数の未来の「物語(stories)」を作成する 2。
- 戦略のテスト: 現行の戦略(プランA)が、これらの各シナリオ下で機能するかを「圧力テスト」する 15。
- 「ノー・リグレット・ムーブ」の特定: どのシナリオが実現しても価値のある、実行すべき施策(”no-regret moves”)を特定する 15。
1.2 コンティンジェンシー・プランニング(プランB):特定の「脅威」に備える科学
コンティンジェンシー・プランニング(プランB)とは、特定の突発的かつ甚大な被害をもたらす事象(危機、最悪のシナリオ)が発生した場合に実行される、具体的かつ詳細な行動計画である 3。
焦点の違いは明確である。シナリオ・プランニングが「もし景気後退が来たら、どのような環境になるか?」3 と問うのに対し、コンティンジェンシー・プランニングは「もし主要な資金源を失ったら、具体的に何をするか?」3 と問う。
例えば、「地政学的緊張によるサプライチェーンの広範な混乱」というシナリオ 9 に対し、「主要サプライヤーA社が操業停止した場合の、代替サプライヤーB社への即時発注切り替え手順、および重要部材の備蓄(ストックパイル)放出プロトコル」4 がコンティンジェンシー(プランB)である。東日本大震災における企業のBCP(事業継続計画)は、コンティンジェンシー・プランニングの典型と言える 16。
1.3 核心的洞察:二つの計画の階層的関係性
シナリオ・プランニング(SP)とコンティンジェンシー・プランニング(CP)は、対等な選択肢ではなく、階層的関係にある。SPは「戦略的」レベルで「どの脅威に備えるべきか」を決定し、CPは「戦術的」レベルで「その脅威にどう対処するか」を具体化する。
多くの組織は「プランB」(CP)を策定しようとする 4。しかし、何に対するプランBを作るべきかが明確でないことが多い。ここでシナリオ・プランニング(SP)が機能する。SPは、組織が直面しうる複数の未来を探求する 13。この探求プロセスを通じて、「影響度は大きいが、不確実性が高い」要因 8 や、「最悪のシナリオ」(Worst-Case Scenario)3 が特定される。この「特定された最悪のシナリオ」こそが、コンティンジェンシー・プランニング(プランB)が焦点を合わせるべき対象となる。
結論として、優れたシナリオ・プランニングは、効果的なコンティンジェンシー・プランニング(プランB)の前提条件である。SPなしのCPは、的外れなリスクにリソースを割く「当てずっぽうの計画」になる危険性が高い。
1.4 実行のメカニズム:「トリガー」と「サインポスト」
複数のシナリオとプランBを準備しても、それらを「いつ」発動させるかを決めていなければ、現実の危機には対応できない 3。
- サインポスト(道標): どのシナリオが現実化しつつあるかを示す「早期警戒指標」。これを継続的に監視(モニタリング)する体制を構築することが求められる 15。
- トリガー(引き金): プランB(コンティンジェンシー計画)を即座に実行に移すための、あらかじめ定義された「発動条件」3。
例えば、「主要な資金源が10%減少したら、施策Xを実行する。20%減少したら、施策YとZも実行する」3 と定義することや、「主要サプライヤーからの供給が48時間停止した」という事実がトリガーとなり、プランB(代替調達)が自動的に発動される仕組み 9 がこれにあたる。
【表1:戦略的プランニング手法の比較:シナリオ vs. コンティンジェンシー】
| 比較項目 | シナリオ・プランニング (SP) | コンティンジェンシー・プランニング (CP / プランB) |
| 主要な問い | 「もし〜な未来が来たら、どうなるか?」3 | 「もし〜な事態が起きたら、何をするか?」4 |
| 焦点 | 広範な未来の「環境」と「可能性」[13, 14] | 特定の突発的な「事象」と「最悪の事態」[2, 3] |
| 時間軸 | 中長期(通常3年〜10年以上)13 | 即時〜短期(危機発生時) |
| 性質 | 戦略的、探索的、柔軟 14 | 戦術的、行動指向、詳細 4 |
| 成果物 | 複数の未来の「物語」、戦略的オプション 2 | 詳細な「行動計画」、BCP 16 |
| 具体例 | シェルの石油ショックシナリオ 8 | サプライチェーンの途絶対応計画 [4, 9] |
第2部 究極の実験場:戦争が教える計画の柔軟性と硬直性
クエリが「戦争における戦略などにおいては超重要」と指摘する通り、軍事作戦は計画の柔軟性が組織の生死を文字通り決定する究極の実験場である。本部は、計画の「硬直性」が招いた破滅と、「柔軟性」が導いた勝利を対比的に解剖する。
2.1 失敗の典型(1):マーケット・ガーデン作戦(1944年)
1944年9月、オランダを経由してドイツ本土(ルール地方)へ一気に侵攻し、クリスマスまでに戦争を終結させようとした連合軍の野心的な空挺作戦がマーケット・ガーデン作戦である 5。
その計画(プランA)は、複数の橋(特にアルンヘムの「遠すぎた橋」)を空挺部隊が迅速に確保し、地上部隊(英第30軍団)が「地獄のハイウェイ」と呼ばれる一本道 18 を進撃してリンクアップするというものだった。
しかし、この作戦は「単一シナリオへの固執」によって破滅した。
- 楽観的すぎる前提: 計画は「ドイツ軍の抵抗は軽微である」という単一の楽観的シナリオに依存していた 17。
- 情報(インテリジェンス)の意図的軽視: 作戦指揮官モントゴメリー元帥は、作戦エリアにドイツのSS装甲師団(18)が存在するという決定的なインテリジェンスを意図的に無視、あるいは軽視した 19。
- プランBの欠如: 計画は「一本道」18 が遮断された場合や、橋が破壊された場合、あるいはドイツ軍が迅速に反撃した場合の代替案(プランB)を一切用意していなかった 5。
- 硬直的な実行: 通信障害 18 やドイツ軍の予期せぬ抵抗により計画が破綻し始めても、現場の指揮官は柔軟に対応できず、空挺部隊は孤立した 7。
マーケット・ガーデン作戦の失敗は、「インテリジェンスの失敗」ではなく、「プランAへの過剰なコミットメント」がインテリジェンスの受容を拒否した「リーダーシップの失敗」である。インテリジェンス(SS装甲師団の存在)は確かに存在していた 18。しかし、この情報は、モントゴメリーの楽観的な「プランA」 19 と矛盾していた。プランBが存在しない状況でこのインテリジェンスを受け入れることは、プランA(=作戦そのもの)の中止を意味した。「戦争を早期に終結させる」という誘惑 5 と、自らの計画への固執から、彼は「プランAと矛盾する情報」を認知的に排除する道を選んだのである 19。これは、プランB(代替案)を持たない指揮官が、プランAが否定される情報を受け入れることができなくなり、結果として組織を破滅に導く典型例である。
2.2 失敗の典型(2):シュリーフェン・プラン(1914年)
第一次世界大戦勃発時、ドイツが二正面作戦(フランスとロシア)を避けるために立案した速攻計画がシュリーフェン・プランである 21。
この計画(プランA)は、ロシアの動員が完了する前に、全速力でベルギーを通過し、フランスを6週間で降伏させるという、巨大で複雑な単一のタイムテーブルだった 21。この計画は、クラウゼヴィッツの「摩擦」(1)を完全に無視していた。ベルギーが予想外に抵抗すること、イギリスが即座に参戦すること、兵士が疲弊すること、補給線が伸びきることなど、あらゆる「不測の事態」を許容しない、硬直的な「鉄道の時刻表」のような計画だった 21。プランBが存在しなかったため、マルヌの戦いで計画が頓挫した瞬間、ドイツ軍の戦略は完全に崩壊し、塹壕戦という悪夢のシナリオへ移行した。
2.3 成功の典型:ノルマンディー上陸作戦(1944年)
史上最大の水陸両用作戦であるノルマンディー上陸作戦は、「単一の計画」ではなく、「複数のシナリオとコンティンジェンシーの集合体」であった。
- 計画の柔軟性(1) – コンティンジェンシー(プランB)の発動:
Dデイは当初6月5日に設定されていた 22。しかし、最高指揮官アイゼンハワーは、直前になって「致命的な悪天候」の予報に直面した。ここで彼は、マーケット・ガーデンのような楽観論に頼らず、「悪天候」というコンティンジェンシー(不測の事態)を受容し、作戦の延期(プランBの発動)を決断した 22。この柔軟な意思決定が、作戦の成否を分けた。 - 計画の柔軟性(2) – シナリオの高度な応用(欺瞞):
ノルマンディー作戦の成功の鍵は、上陸そのものよりも「フォーティテュード作戦」(欺瞞作戦)にあった 23。これは、連合軍が敵(ドイツ軍)に「間違ったシナリオ」を信じ込ませるという、シナリオ・プランニングの最高レベルの応用であった。偽の軍隊(ダミー戦車や偽の無線交信)をパ・ド・カレー正面に配置することで、ドイツ軍は「主力上陸地点はパ・ド・カレーである」というシナリオを確信し、ノルマンディー上陸後も最強の装甲師団をカ[レー]地域に釘付けにした 23。 - 計画の柔軟性(3) – 技術とシステム:
上陸後の補給という最大の問題に対し、「マルベリー」と呼ばれる人工埠頭を準備した 6。これは、「通常の港が使えない(破壊される)」というワーストシナリオに対する、工学的な*コンティンジェンシー(プランB)*であった。
2.4 洞察:軍事戦略からの教訓
優れた戦略とは、完璧な「プランA」を設計することではなく、プランAが「摩擦」によって必ず失敗することを前提とし、「コンティンジェンシー(プランB)」と「柔軟な意思決定プロセス」をシステムとして組み込むことである。シュリーフェン・プラン 21 とマーケット・ガーデン作戦 7 は、プランAが完璧に機能するという楽観的シナリオに依存し、硬直的であった。対照的に、ノルマンディー作戦 6 は、プランA(6月5日の上陸)が天候という「摩擦」で失敗することを許容し、プランB(延期)を発動できる柔軟な意思決定体制を持っていた。
【表2:軍事戦略における計画の成否分岐点】
| 比較項目 | マーケット・ガーデン作戦 | ノルマンディー上陸作戦 |
| 基本シナリオ(プランA) | 単一の楽観的シナリオ(ドイツ軍は弱体、一本道は安全)[5, 18] | 複数のシナリオ(天候、敵の抵抗)を想定 |
| 情報(インテリジェンス)の扱い | プランAに反する不利な情報(SS装甲師団)を意図的に無視 19 | プランAに不利な情報(悪天候)を受容し、意思決定に反映 22 |
| コンティンジェンシー(プランB) | ほぼ皆無(橋の破壊、進撃路の遮断に対応できず)5 | 豊富に準備(悪天候による延期、人工埠頭マルベリー)6 |
| 敵のシナリオへの介入 | なし(敵の行動を楽観視) | あり(「フォーティテュード作戦」による敵のシナリオ誤誘導)23 |
| 結果 | 作戦失敗、甚大な損害 [7, 17] | 作戦成功、戦略的勝利の基盤確立 |
第3部 現代の戦場:企業戦略におけるシナリオ適応
軍事分野で血によって学ばれた教訓は、現代の不確実な経営環境(VUCA)を生き抜くための必須のツールとなっている 13。
3.1 勝利のケーススタディ:ロイヤル・ダッチ・シェルと石油ショック(1970年代)
1970年代初頭、世界の石油企業は「需要は永続的に増加する」という単一の楽観的シナリオ(マーケット・ガーデン型の思考)に基づいて経営されていた。
しかし、ロイヤル・ダッチ・シェルは、この常識を疑い、複数のシナリオを作成した 8。その中には、他社が無視した「供給ショックシナリオ」(OPECカルテルによる意図的な石油価格の高騰)が含まれていた 8。
シェルの分析は、単なるシナリオ構築に留まらなかった。
- シナリオ(予測): もし「供給ショック」が起これば、石油価格が高騰し、西欧の産業は停滞する 8。
- 二次的影響(予測): 電力会社は高価な重油から安価な石炭へ燃料を切り替える 8。
- 結果(予測): 市場ではガソリンが不足し、重油が余る 8。
この「重油が余る」という最悪のシナリオに対し、シェルは「余った重油を、不足するガソリンへ転換する設備へ投資する準備」という具体的なプランBを用意した 8。
1973年、第4次中東戦争が「トリガー」となり、「供給ショックシナリオ」が現実となった 8。競合他社が大混乱に陥る中、シェルは準備していたプランBを即座に実行した 8。シェルは、競合他社が「摩擦」と「霧」(1)に飲み込まれる中、あらかじめ未来の「地図」(シナリオ)と「脱出路」(プランB)を持っていた唯一のプレイヤーであった。彼らは危機を乗り越えただけでなく、危機を利用して市場シェアを拡大し、世界的なメジャーへと成長した 8。これは、ノルマンディー作戦の勝利に匹敵する、戦略的プランニングの勝利である。
3.2 現代のOODAループとアジャイルな戦略実行
現代の市場環境は変化が速すぎ 24、中長期の計画(13)であっても、半期から1年ごとの見直し(13)が不可欠である。この高速な環境変化に対応する軍事的意思決定プロセスが「OODAループ」である 24。
- Observe (観察): 市場、競合、環境の事実を幅広く収集する 25。
- Orient (状況判断): 収集した情報を分析し、複数の仮説(シナリオ)を立てる。
- Decide (意思決定): 複数の選択肢(プランA, B, C)から最適なものを選択する 25。
- Act (実行): 実行し、即座にObserve(観察)に戻る。
OODAループは、シナリオ・プランニングとコンティンジェンシー・プランニングを、リアルタイムかつ高速で実行するメカニズムに他ならない。「Orient(状況判断)」は、頭の中で瞬時に複数のミニ・シナリオを描くプロセスであり、「Decide(意思決定)」は、そのシナリオ群からプランAを選択し、プランBを(無意識下で)準備するプロセスである。これは、シュリーフェン・プラン 21 のような「計画策定に不向き」なアプローチ 24 ではなく、実行(Act)に重きを置いたアジャイルな戦略である。
3.3 VUCA時代のサプライチェーン戦略
現代の「戦場」とも言えるグローバル・サプライチェーンは、地政学リスク、自然災害、技術革新といった「摩擦」に常に晒されている 9。サプライチェーン管理において、シナリオ・プランニングは「あればよいもの」から「なければ生き残れないもの」へと変化した 9。
最新のトレンドとして、「デジタルツイン」(現実のサプライチェーンの仮想レプリカ)を用い、様々な物流シナリオ(例:特定港湾の閉鎖、燃料費の高騰)をシミュレートする技術が導入されている 26。これは、かつてシェルが頭の中と紙の上で行ったシナリオ分析 8 を、AIとビッグデータで超高速に実行していることに他ならない 26。
第4部 内なる戦場:プランBが「実行者」の心理に与える影響
戦略は「人間」が実行するものである。ここで、戦略家は最も困難なジレンマに直面する。それは、「戦略的な合理性(プランBの必要性)」と「実行上の心理(プランAへのコミットメント)」が、真っ向から対立するという問題である。
4.1 「選択のパラドックス」:シナリオが多すぎることの弊害
心理学者バリー・シュワルツが提唱した「選択のパラドックス」 27 は、選択肢(シナリオ)が多すぎると、意思決定が向上するどころか、麻痺し、満足度が低下する現象を指す 27。
この現象を引き起こす心理的要因として、以下の3点が挙げられる 27。
- 情報過多 (Information Overload): 過剰なシナリオ分析が、混乱を招く 27。
- 決断の負担増加 (Decision Fatigue): 選択肢の比較検討にエネルギーを消費し、判断力が低下する 27。
- 後悔のリスク (Regret Aversion): 選ばなかったシナリオの方が良かったのではないか、という後悔の念が満足度を下げる 27。
これは、優れたシナリオ・プランニングとは、無限の可能性を描くことではなく、組織が対処可能な「意味のある数」(通常3〜5つ)のシナリオにあえて絞り込む「知的な単純化」の技術であることを示唆している 27。
4.2 「プランBの逆説」:バックアッププランはモチベーションを低下させる
戦略家が直面する最も危険なジレンマは、プランB(バックアップ計画)を持つことが、プランAの成功確率をかえって下げてしまうという深刻な心理的逆説が存在することである。
専門誌『Organizational Behavior and Human Decision Processes』に発表された論文によると、バックアップ計画(プランB)を用意した被験者は、用意しなかった被験者よりもパフォーマンスが低下したことが示されている 10。
その原因は、モチベーションの低下にある 10。
- 「失敗への恐怖」の希薄化: プランBは、「失敗しても大丈夫」という心理的安心感(35)を与える。これにより、「失敗への恐怖」という強力な動機付け(インセンティブ)が失われる 11。
- コミットメントの分散: プランBの存在自体が、プランAへのリソース(思考、集中力)の投下を妨げ、「気が散った」状態を作る 10。
- 自己成就的予言: プランBを準備することは、「失敗に備える」行為であり、無意識のうちに「プランAは失敗するかもしれない」という自己成就的予言を脳に刷り込むことになる 12。
古代の司令官が「船を焼く」(背水の陣)12 という行為は、この心理的逆説を本能的に理解していたことを示している。プランB(退路)を断つことで、プランA(勝利)へのコミットメントを極限まで高める戦略である 12。
4.3 逆説の克服:「コミットメント」と「レジリエンス」の両立
リーダーシップの核心とは、この「プランBの逆説」を克服することにある。その鍵は、「プランAへの実行コミットメント」と「プランBへの戦略的準備」を、組織内で役割分離することである。
この論理は以下のステップに基づく。まず、戦略的にはプランBが必要である 4。しかし、心理的にはプランBが有害である 10。一方で、目標設定理論(Goal-Setting Theory)が示すように、パフォーマンスを最大化するのは、「具体的で困難な単一の目標」(プランA)へのコミットメントである 29。
では、プランAの実行チームに、プランB(失敗の可能性)を意識させるべきか? 10 答えは「否」である。解決策は「役割分離」にある。
- 実行チーム(兵士、現場): 「船を焼け」 12 の精神で、プランAの達成に100%コミットさせる。彼らには「具体的で困難な目標」30 のみを与え、プランBの存在を(実行中は)意識させない。
- リーダーシップ(司令官、経営陣): 「船を焼く」と宣言しつつ、密かに別の場所で「脱出用ボート」(プランB)を準備し、そのボートに乗り移る「トリガー」 3 を冷静に監視する。
真のリーダーシップとは、実行チームのモチベーション 32 を維持するためにプランAへの情熱を語り 31、同時に組織が破滅しないようにプランBへの移行タイミング 3 を冷徹に計算することである。この二重性を引き受けることこそが、戦略的リーダーの責務である。プランAが失敗した後にプランBを考えると、パニック 33 や自己肯定感の低下 34 を招く。プランBは、あくまでプランAが機能している間に、冷静な戦略チームによって準備されなければならない。
【表3:プランBの心理的影響の二面性とリーダーの役割】
| フェーズ | 実行チーム(現場)の心理 | リーダー(戦略)の役割 |
| プランA(実行フェーズ) | 「具体的で困難な目標」への絶対的コミットメント [30, 31]。「船を焼く」覚悟 12。 | プランAへのコミットメントを最大化する(動機付け、リソース集中)。 |
| プランB(準備フェーズ) | (理想的には)プランBを意識させない。意識するとモチベーションが低下する 10。 | 実行チームとは別の戦略チームで、冷静にプランB(コンティンジェンシー)を策定する 4。 |
| シナリオ(監視フェーズ) | プランAの実行に集中。 | 市場環境(「サインポスト」)を継続的に監視 15。 |
| 危機(発動フェーズ) | 実行中のプランAが失敗し、混乱・パニックに陥る [33, 34]。 | あらかじめ定義された「トリガー」3 に基づき、プランBの発動を宣言し、混乱を最小限に抑え、リソースを即座に再配置する 4。 |
結論:レジリエントな戦略家――単一の計画を超えて
本レポートは、「プランB」と「複数シナリオ」の重要性というクエリに対し、軍事戦略、企業経営、そして深層心理の三つの次元から答えを提示した。
- 戦略的定義の確立: 「複数シナリオ(SP)」は未来の「地図」を描く行為であり、「プランB(CP)」はその地図上で特定された「最悪の事態」に対処する「脱出路」である。優れたSPは、効果的なCPの前提条件である(第1部)。
- 軍事的教訓の厳格な分析: クエリが「超重要」と指摘した戦争の事例において、マーケット・ガーデン作戦 7 と シュリーフェン・プラン 21 は、単一の楽観的シナリオに固執し、クラウゼヴィッツの「摩擦」(1)を無視したために破滅した。対照的に、ノルマンディー上陸作戦 6 は、天候による延期(コンティンジェンシー)22 と、敵のシナリオをハックする欺瞞作戦(フォーティテュード)23 という、「柔軟性」の勝利であった(第2部)。
- 現代への適用: ロイヤル・ダッチ・シェル 8 の成功は、軍事戦略の教訓がそのまま企業経営の勝利につながることを証明した。彼らは「供給ショック」というワーストシナリオを事前に準備していた唯一のプレイヤーであった(第3部)。
- リーダーへの最終的処方箋: 最も重要な洞察は、戦略と心理の二律背反にある。プランBは、戦略的な「レジリエンス(回復力)」のために必須だが、実行者の「モチベーション」を低下させる劇薬でもある 10。
優れた戦略家、すなわち真のリーダーとは、このジレンマの狭間で、「プランA」を実行する部下に「船を焼け」と鼓舞する情熱と、万が一に備えて「プランB」への移行「トリガー」 15 を冷静に監視する冷徹さを同時に保持できる人物に他ならない。
単一の計画(プランA)しか持たない者は、楽観主義者か、クラウゼヴィッツの「摩擦」(1)を学んだことのない者だけである。真の戦略家は、プランAの成功を誰よりも信じながら、プランBを準備し、プランCとDのシナリオを常に探求し続ける。それこそが、不確実性という「戦場の霧」を生き抜くための、唯一の道なのである。
引用文献
- 11月 5, 2025にアクセス、 https://www.ricoh.co.jp/magazines/workstyle/column/clausewitz/#:~:text=%E3%80%8E%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AB%96%E3%80%8F%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%81%E4%BA%8B%E5%89%8D,%E3%81%A8%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
- What’s the difference between contingency and scenario planning? Where can I learn more about risk management? https://learning.candid.org/contingency-and-scenario-planning?reg=1
- Scenario and Contingency Planning | Bridgespan https://www.bridgespan.org/insights/scenario-and-contingency-planning
- Scenario Planning Vs Contingency Planning – Meegle https://www.meegle.com/en_us/topics/scenario-planning/scenario-planning-vs-contingency-planning
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- 北西ヨーロッパへ侵攻 「ノルマンディー上陸作戦」成功のカギはいったい何だったのか – Merkmal https://merkmal-biz.jp/post/28776/3
- Operation Market Garden: A Failure of Planning, Intel, and Coordinatio – WETSU Company https://wetsu.co/blogs/theairbornetimes/operation-market-garden-a-failure-of-planning-intel-and-coordination
- シナリオ・プランニングとは?VUCA・BANI時代の戦略的思考 … https://www.tds-g.co.jp/blog/987/
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- Your Backup Plan Is Killing Your Success. Do This Instead. | by Victor Ng – Medium https://medium.com/the-ascent/your-backup-plan-is-killing-your-success-do-this-instead-2931dc1131c2
- 経営戦略に重要なシナリオプランニングとは?メリットや手順を解説 | 株式会社アバント https://www.avantcorp.com/column/2024/07/24/scenario-planning/
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- みんな知ってる!バンドワゴン効果とは?|行動心理学の意味~事例まで | 株式会社PLAN-B https://www.plan-b.co.jp/blog/marketing/11173/



